20221016日 ペトロの手紙一3817節 「苦しみの意味」

 「苦しみの意味」という、かなり重たい説教題を掲げました。本当に生きるうえで大切な、抜き差しならぬ問題です。この「苦しみの意味」という言葉には、少なくとも二つの考え方があると思います。一つは、苦しみの原因を遡って突き詰めるという、苦しみの意味の考え方。もう一つは、この苦しみが、果たして何をもたらすのかという、苦しみの先にある目的を探るというかたちで苦しみの意味を考える方向性です。そしてこの聖書の「苦しみの意味」の語り方は、一貫して後者の方、苦しみの原因ではなく、苦しみの先にある目的を語ることで、苦しみを意味付け、受け取っていくという語り方をしています。それは、具体的な問い方で言えば、なぜこの苦しみが?ということではなくて、何のためにこの苦しみが?と問い続けるのが聖書なのです。

 先日の夕拝で、ノアの箱舟を最後に、神様は、もう人間を呪い、人の罪故に罰を与え、人を滅ぼし尽くすことは、二度としないと自ら誓われたという御言葉を読みました。ですから、その御言葉をストレートに受け取るならば、苦しみの原因に、神様が起こって罰を下されたから、罰が当たったからこうなったという、もう苦しみの意味の理解は成立しません。そして、罰としての苦しみが終わったのであれば、残るのはもう一つの可能性しかありません。つまり、苦しみによって何がもたらされるのか、苦しみによって何を神様は伝えようとし、神様は苦しみによってどこに私たちを導こうとされているのかという、「何のために?」ということを問う、教育的意味が、全ての苦しみにはあるということです。

 

 主イエスも、生まれつき目の見えない盲人に向かって、なぜ彼はこの苦しみを背負ったのですか?と過去の罪に遡って苦しみの原因を突き詰めようと考えていた弟子たちに、「なぜ?」を問うことを拒まれて、反対に、「何のために?」を問えと、そして、この苦しみの意味は、「神の業がこの人に現れるためである。」と言い切られました。聖書のこの苦しみについての語り方は、旧約聖書からずっと一貫していると思います。

そしてこのペトロの手紙一ですが、この手紙も終始一貫して、この苦しみ、試練、傷という痛みについて語る手紙です。なぜなら、ペトロは自分自身も殉教の死を遂げたと語り伝えられていますが、その同じ目に遭うであろう、主イエス・キリストへの信仰によって、迫害という同じ境遇に置かれている、苦しみの中を生きるたくさんの諸教会に向かってこの手紙を書き送っているからです。そこにある、身近にある苦しみの意味、その先にある目的が分からなければ、命を懸けて迫害を耐え抜くことなど到底できないからです。

ペトロはずっと、「試練によって、あなたがたの信仰は本物と証明される。」と、「悪人呼ばわりされても、立派な行いで信仰を証ししなさい。」「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じなさい。」「不当な苦しみに耐えるなら、それが御心です。」そして、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」と、繰り返してきました。8節の「終わりに」という言葉で始まります今朝の御言葉は、ある意味では、これまでのその苦しみについての一連の発言の結論部分に当たります。

ペトロは、自分自身も死ぬほどの迫害を受けて来たものとして、迫害に苦しむ教会とクリスチャンたちに、今朝は何と語るのでしょうか?今朝の部分の中心の御言葉は、39節です。3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

何という言葉でしょうか?最近毎週そうですけれども、私たちは今朝も、大変な言葉を聞いてしまいました。9節の後半は、原文に即して訳せば、「悪に祝福で返せ!祝福を得るためにあなたがたは集められたのだから。」という言葉になります。悪に苦しめられて、悪に悪で返したくって、そうしなければ割に合わないし、祝福というこの言葉は、英語で言えばhonorという、褒める、賞賛するという意味の言葉でもあるのですが、もし本当に悪を賞賛なんかで返したら、悪を行った相手はいきり立つばかりですし、相手の今後のためにも絶対に良くないと思う。だからこそ、良い意味で懲らしめる。それは通らないのだぞ!分かったか!と知らしめる。たとえ他の人がそれを赦したとしても、この私だけは赦さないと、そして、この自分は、決してああいう風には、ああいう悪を行う者のようには絶対にならないぞと、そういう気持ちで頑張って、自分で自分の意気地を、心を支えている面が、それぞれ、じっさいのところ結構あるわけです。

でもそういう私たちに、「悪に祝福で返せ!なんなら、悪を行う相手を敬い尊べ!」とペトロの手紙は言ってくる。今までの私たちの色々な葛藤や思いや、消せない因縁を、聖書はどうする気なのでしょうか?しかも、9節の最後の、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された」と訳されている言葉は、先程私は、この「召された」を、「集められた」と訳し変えましたが、この言葉はギリシャ語で、エクレセーテという言葉で、これは「集まり」という意味のエクレシアという、教会と言う言葉を思わせる、それと似た言葉になっています。ですから、エクレセーテの意味も汲み取ると、「悪に祝福で返せ!あなたがたは祝福を受け継ぐための教会なのだから。あなたがたは教会なんだから、それができるはず。」とペトロは言うのです。

そういうことなのです。ええっ!?と思います。悪に悪で返さず、相手にしっぺ返しを食らわさずに、逆に祝福で返してしまったら、一体どうなっちゃうんだろう?反撃しなければ、もっとひどく悪いことをされてしまうのではないかと当然思います。その辺りはどうなのか?大丈夫なのだろうか?と。その疑問に、聖書もちゃんと答えています。1314節です。3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」

本当に?と思います。13節最初の善いこととは、今朝の御言葉で言えば相手を祝福し、尊敬し、褒め称えることです。それを熱心にやれば、相手は、あなたがたに害を加えないと。しかし、それでもし苦しみを受けるのだとしても、正しいことをして苦しむのであれば、それ幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。と言われます。

いやいや、心は乱れに乱れますし、危害を与えようとして迫ってくる人がいたら、動悸は高鳴りますし、とても怖いですし、正しいことをして、相手を祝福しながらも、なおそれでも危害を受けるなら、それの何が幸せと言えるでしょうか?

 

次の1516節に、その苦しみがもたらす目的が、指し示されています。3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」

心の中でキリストを主とあがめなさい。ここでこれを言うのはすごいことだと思います。これは理性的なロジックで語るパウロとはまた違う、ちょっと浪花節の、人情熱い関西人にはしっくりくる、まさにペトロの言葉だと思います。ペトロは3年間、主イエスと寝食を共にしてきました。だからこそ、目を閉じれば、主イエス・キリストの姿が、その瞼の裏に焼き付いているようにして現れるのです。祝福を振りまきながらも言われなき迫害を受ける時、人を恐れず、心を乱さず、心の中で、キリストを主とあがめるのです。自分の拠って立つ所、原点である主イエス・キリストに、その時しっかりと立ち戻るのです。そして、人を恐れず、心乱さず、キリストに本当に敬意と信頼を寄せている人こそが、本当の意味で人に対して穏やかに、敬意をもって、真心から優しく語ることができるのです。そしてその人は、人々から「なぜお前は、悪に悪を報いないのか?なぜあなたは、その状況で人を赦して、そんなに人に優しくできるのか?」と説明を要求されたなら、穏やかに、それはイエス・キリストに結ばれているからだと、イエス・キリストの教会に結び付けられているからと、言うことができるのです。マーティン・ルーサー・キング牧師は、この言葉をそのままに、穏やかにかつ力強く生きて、それを地で行って、歴史を変えました。

 

カトリックの司祭のヘンリーナウエンは語りました。「生きているがゆえに味わう小さな痛み、時に圧倒されるような痛みさえも、キリストの、より大きな痛みと分かち難くつながっているのです。日々の生活で味わう苦しみは、キリストの、より大きな悲しみとしっかりつながっているがゆえに、より大きな希望へとつながっています。…受難がなければ復活も実現しないという真理は、同時に、そこに希望が重なっているという真理に私たちを導きます。私たちの理解は鈍く、できればその悲惨な光景を見つめたくありません。しかし、どんな悲しみ、痛み、大きな罪でさえ、キリストの悲惨な受難を引き離すことができないという発見は、それを受け入れていくことさえするなら、苦難の只中で、希望が芽生え始めるのです。」

主イエスも、「悲しむ人々は幸いである。」と言われました。なぜ悲しむ人々が幸いなのでしょうか?主イエスは言葉を継いで「その人たちは慰められる」と語ります。つまり、悲しむ人々は、神に出会い、神様から慰められることができるのです。

 

丁度今朝配布した月報にも書きましたけれども、苦しみは、私たちに神様を仰ぎ見させる。仰ぎ見るとは上品な言い方ですが、もっと言えば、苦しみは、私たちをもう神様のもとに逃げ込む他ないぐらいに追い詰め、苦しみは、私たちを、万策尽きてもう神様に手を合わせて祈る以外には他に、何もできないというところにまで追い詰めるのです。そして苦しみは、その苦しみを担い切れず、乗り越えられないこの自分自身に対する絶望をもたらします。しかしそこで終わりなのではなくて、そこが始まりなのです。苦しみはそうやって、私たちを神様に出会わせ、その時に初めて、主イエス・キリストの十字架の苦しみの味が、少し分かるようになるのです。苦しみによって、十字架の手触りが、こんなことだったのかなと分かるようになり、キリストが裏切られたその痛みが、少し分かるようになってくる。そして、自分がこれまでどんなに主イエス・キリストを苦しめて、しかしそれでいてどんなに平気でいたのかが見えてくる。私たちが自分自身に本当に絶望した時に、私たちは祈るしかなくなりますし、実はそこでこそ人は、初めて本当に心から神様に祈ることができるようになるのです。

苦しみは、神と私を結び付けるのです。主イエス・キリストにますます深く結ばれるために、その目的のために、私は、私にとって必要な苦しみのすべてを、経験する必要があるのです。

ペトロの手紙二は、教会の内部から生じる、偽教師や分派という苦しみを語るのに対して、このペトロの手紙一は、教会の外から教会を襲う、迫害などの苦しみを語ります。その意味で、ペトロの手紙一を今朝読んでいる私たちの周りにも、外から私たちに襲い掛かる、コロナウィルスのことや、戦争の危機や、経済的・社会的な苦境や、キリスト者が社会的少数者に置かれている故の苦闘、家族や友人や、色々な人間関係を巡る、たくさんの痛みや傷、苦しみがあります。

けれども、その苦しみに祝福で返すのです。なぜなら、私たちはその苦しみによって、目をつぶる時、瞼の裏に焼き付いた、そして心の奥に刻まれた主イエス・キリストの姿を、十字架の側に立って、ありありと見るからです。そのキリストに結ばれた私たちは、今日もこの教会で、心を開いて神様の祝福を受けるのです。この祝福によって、今週も悪と苦しみを帰り討ちにするために、みんなで一緒に祝福の塊に、祝福の源になっていくために、今朝私たちは教会に、このエクレシアに集められたのです。