2022年10月23日 ペトロの手紙一3章18~22節 「神を賛美する理由」
今日は午後に、この場所でアフタヌーンコンサートが行われます。そこでは、皆で讃美歌も歌います。その時点で、ただのアフタヌーンコンサートではありません。キリスト教会の礼拝堂という場所で、神様への賛美が歌われるという意味で、それは特別なコンサートです。
では、今朝の説教題にも掲げていますけれども、そもそもなぜ神を賛美するのでしょうか?その理由は何でしょうか?この点での納得がなければ、今日私たちが歌う讃美歌の声にも力が入りません。
賛美とは何か?これには色々な答えが可能だと思います。賛美することとは、カラオケを歌うこととはもちろん違います。、カラオケは、大抵自分のストレス発散のために、自分のために歌うことなのではないかと思いますが、逆に賛美とは、人に捧げるものです。そしてその場合、賛美とは、自分にできないことをしている相手に対して、そして、自分ではとても敵わない相手に対して、捧げられるものなのではないかと思います。
サッカー選手のアルゼンチン代表のメッシは、その誰にも真似できないプレーによって、世界中の人々からの賛美と喝采を受けます。メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手もそうです。それを見る私たちは、ただただ「すごい!」と言って手を叩く以外にありません。そして、私たちが教会で神様を賛美する理由も、神様が、私たち人間には遥かに及ばない素晴らしいことを、見事にやってのけておられるからこそのことです。
神様がなさった、私たちには到底敵わないこと、それが、今朝お読みした聖書の言葉の中に語られています。今朝の御言葉の最初の18節の前半の言葉です。「3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」
ここでは、オセロゲームの駒のようなことが起こっています。正しい人を白、正しくない罪人を黒だとしたら、主イエス・キリストは、唯一の正しい、罪なき、潔白な、白いオセロのような方であったのですが、反対に主イエス・キリスト以外の私たち人間すべては、イエス・キリストのように正しくはあり得ない黒いオセロのような者たちです。しかし聖書は、「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれた」と語ります。つまり、イエス・キリストは、白であったのに、罪によって黒とさせられて、正しい方であったのに、正しくない者とされる苦しみを受けた、とあります。それは何のためのことだったのかが、そのすぐ後で、「あなたがたを神のもとに導くためです。」と語られています。それは、白であるキリストが黒を引き受けて、罪と苦しみを引き受けてくださることによって、私たちを黒から白にするため、私たちを、正しい、神の前に罪なき、潔白な、白い者たちとして、神様のもとに導くためだった、ということです。
苦しみという言葉によって、ここでは、主イエス・キリストが架かった十字架が考えられています。その十字架の上での、イエス・キリストの死が、黒い私たちを白くひっくり返すのです。「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれる。」これは普通は起こりえないことです。本来は正しくないものが苦しんで、十字架に架かって死ななければならないはずで、正しい方は苦しむ必要はありません。けれども、罪を、主イエス・キリストが肩代わりしてくださるということが起こった。
聖書が語る救いの核にあるものは、罪からの赦しです。罪とは、人が神様の方を向かないこと、神様からの断絶を意味しますが、その罪が、神様の罰と怒りを招き、人を天国に入れなくさせます。しかし、その人間の罪を丸ごと引き受けられたために、主イエス・キリストは、神の罰と怒りと死を十字架に架かることによってその身に受け、天国からも遠ざけられて、地獄の底にまで落ちられました。
先程、罪の告白と赦しの宣言というプログラムのあとに、古代から教会が、自分たちの信じているところを言い表してきた使徒信条という、定式文書を皆で告白しましたが、その短い文章の中に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」という言葉がありました。これは主イエス・キリストがなさったことですが、十字架に付けられたキリストは、死にて、葬られ、陰府にくだりと、短い使徒信条という文書では、しかしここには異常に細かく詳しい言葉が用いられていて、正しい方であり、神様に苦しめられる必要は一切ないはずのキリストが、苦しみ、十字架にかかり、死んで、葬られて、陰府に、つまり地獄にくだりと、キリストの受けた受難が、しつこいぐらいに細かく語られています。それは、正しいイエス・キリストが、正しくない私たちのために、本当にこれだけ苦しまれて罰せられたという事実が、何にも増して大切だからです。キリストがクロだとされ、神の罰を深刻に受けられたという事実が、私たちの救いを確かにするからです。
そして18節の後半から19節に、驚くべきことが語られています。18章の最後の言葉から19節をお読みします。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」とても解釈するのが難しい御言葉です。先程の使徒信条が言っていた通り、主イエス・キリストは十字架で死なれましたが、そのキリストの霊は、陰府にまでくだって、そこで捕らわれていた魂に宣教をした、と語られています。
ところで、このペトロの手紙という文章は、イエス・キリストが十字架で死んでから約30年後に書かれました。その頃はまだ教会の存在は小さく、キリスト教徒は社会の中でごく少数者であり、さらにキリスト教会は、その母体であるユダヤ教はもとより、他の宗教からも迫害を受けていました。そしてその迫害はこの後の時代により激しさを増して、この後、数十万人を超える殉教者を出す、歴史に残る大迫害が始まっていきます。この時代はその前夜に当たります。
そういう時代状況でのこの手紙の言葉なのです。イエス・キリストの十字架の救いを信じる人々がまだまだ少数で、各地に数十人の小さな教会が点在しているだけだったこの時代、自分がイエス・キリストを知って、ここに救いがあると信じる時にも、しかしそれをまだ知らないままで生涯を閉じた自分の親、夫、家族の存在が、当然そこにはあったはずです。あるいは、当時の大勢のキリスト教迫害者たちは、キリスト教徒たちは、聖餐式と称して、子どもの生き血を飲んでいるなどと、全く事実無根のデマを流して、揶揄して、あれは地獄に落ちる者たちだと、教会を攻撃していました。そういう迫害の中で、信仰を持つことができた人すべてが、洗礼まで導かれることができなかった、教会はいいなと思っていても、実際には色々なしがらみで、そこに踏み込むことができない人々も大勢いた可能性があります。
現代の私たちの日本の教会の状況も、似たところがあります。「私がもしここで洗礼を受けたら、先に他の宗教を信じたまま死んでいった家族を裏切る気がして、どうも気が乗らない」という言葉を、私は今までも、たくさんの人からお聞きしました。他ならぬ私の祖母も、同じことを語っていました。93歳で天に召された祖母は、最終的には90歳の時に洗礼を受けたのですが、それまずっと洗礼を受けることなく、いつも先に亡くなった私の祖父のことを気に病んでいましたし、また祖父の母親である、祖母の姑に対しても申し訳ないと言っていました。
こういう、今の私たちの間にもある問題が、聖書が書かれた当時も同じようにしてあったとうことです。そして、そこに向けて聖書は、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」と語っているのだと思います。
さらに、洗礼についての話がこの後深く展開されます。20節から21節をお読みします。「3:20
この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。3:21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」
21節の最後に、洗礼とは、肉の汚れを取り除くことではなく、とあります。日本語で洗礼と書くと、肉の汚れ、肉体の汚れを、水で洗い流すのが洗礼という儀式なのだと理解しがちですが、そうではないと聖書は言っています。もともと洗礼を意味する、ギリシャの語バプティスマという言葉は、水に沈めるという言葉です。洗礼という儀式の本質は、洗い流して綺麗にすることなのではなくて、水に沈めて、一度殺すのです。初代の教会は洗礼式を川で行っていました。そこでは古い罪ある自分が川の水に沈められることで溺れて死に絶えて、そして次の瞬間、水からバッと上がってきた時に、そこから生き返って、新しくされた人生を新たに歩み出すのです。これが洗礼の意味です。22節最後の、「正しい良心を願い求める」という言葉は、正しい良心を保証されるという言葉です。私という黒いオセロが、水に沈められることで一旦死んで、今度はイエス・キリストの赦しを魂に受けて、真反対にひっくり返って、白くされて生き返る。その時私たちの心は、正しい良心として、神様に保証され、あなたはこれで救われるとの承認を受けるのです。
20節以降にノアの箱舟の話が出ているのは、洗礼による古い自分の死と、そこから始まる新しい命という話に、それが結び付いているからです。洪水によって、ノアの家族の8人以外は皆水の下に沈められた。でも、それによって8人以外の全人類が、ただただ死滅して、陰府にくだったのではないと、聖書は言いたいのではないかと思います。なぜなら、ノアの家族8人以外の全人類を飲み込んだ陰府の底にも、主イエス・キリストは下って行って、そこに届いてくださったからです。
さらに、今朝の最後の22節にありますように、「3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」使徒信条にも同様の言葉が書いてあります。つまりキリストは今、天国の中でも、その一番上の、父なる神の右の座に着いておられるのです。
従って今朝、聖書の言葉から皆様に知っていただきたいこととは、このことです。つまり、地獄の底の底から、天国の上の上まで、主イエス・キリストは、どこにでも行く。どこにでも、どこまででも届く、ということです。そして、この方が届かない場所はないゆえに、この方が把握しておらず、この方の目に入らない人間は、過去においても、現在においても未来においても、誰一人いないということです。
このことは、紀元前1000年を数えるほどの昔に読まれた、3000年前から今まで、ずっと引き継がれてきた、説教の前にお読みした詩編139編の7節から10節にも、はっきり語られています。「139:7 どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。139:9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも139:10 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
これが神様です。祖父が洗礼を受けないまま亡くなった数年後、祖母がどうやってその事実を乗り越えて、洗礼にまで至って、神様を信頼して、自分の死後のことも全て含めて、全てを神様にお委ねして、神様を信じて生きるという決断にどうやって至ったのかは、祖母がその後痴呆になってしまいましたので、直接その深いところを聞くことはできませんでしたが、しかし私は、祖父と祖母が二人とも天国に行って、今そこで、しっかりと相まみえていると信じていますし、私は、自分や父親の名前よりも、祖父の名前で長男を名付けたというおじいちゃん子でもありますので、そこは、主イエス・キリストが何とかしてくださると。私たちの死も命も、そのすべてを支配し、握っておられる。正しい方であるにも関わらず、正しくない私のために苦しみの十字架に架かってくださるほどの、優しい、愛の、主イエス・キリストが、必ず最も良いように取り図らってくださって、私も、天国で祖父とまた会えるように導いてくださると、信じています。
詩編が語っていますように、本当に、どこに行っても、どこに逃れても、主イエス・キリストの神の霊から、私たちが離れることはできず、逃げることもできず、神様の顔を避けることもできず、どこに行っても、神様もそこにいて、神様は、力あるその右の手で、あなたをとらえて、離さないでいてくださいます。
真っ黒な私たちを、真っ白に裏返してくださる神様、その神の御子イエス・キリスト。私たちの心からの賛美を向けるのに、これ以上ふさわしい方はおられません。