2022116日 ペトロの手紙一4章1~11節 「覚悟」

 今朝私たちには、私たちが今日から、どういう覚悟をもってこの先の私たちの人生を生きていくのかという、抜き差しならない大事な事柄が問われています。

 今朝のこの覚悟という言葉が、どこから来たのかというと、それは、今朝の41節です。そこに、「あなたがたも同じ心構えで」という言葉があるのですが、この心構えという言葉を、古い日本語訳の口語訳聖書が、「覚悟」と訳していました。素晴らしい翻訳であると思います。

 

 このペトロの手紙は、今のトルコ周辺に広がる諸教会で、異宗教の中で迫害を受けながらも、洗礼を受けてキリスト者となった人々に向けて宛てられた手紙です。そうやって世間とは異なる宗教をもってクリスチャンとして生きるということは、この私たちの日本でもそうですが、覚悟のいることです。しかしなぜ、ある意味で悲壮な覚悟をしてまでも、洗礼を受けて、クリスチャンになるのでしょうか?

 その理由が、23節に記されています。4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」

 ペトロは手紙の読み手である私たちに、それぞれが歩んできたこれまでの人生を思い返させています。かつて、洗礼を受ける前、あなたがたはどう生きて来たのか?先程の口語訳聖書では、3節の「偶像礼拝」という言葉の前に、「気ままな」という言葉が入っています。かつて洗礼を受ける前の私たちは、我が気の向くまま、我がままに、神を知らなかったために、神ではないものを神であるかのように礼拝し、崇拝し、重んじて、偶像礼拝をしていた。そこでは、お金や人や、色々なものがアイドルになり、偶像に成り代わるのですが、何よりもそこで力を持っていたのは、2節の始めにはっきりと語られています、人間の欲望、自分自身の欲望でした。それこそが、最も最優先する崇拝の対象になっていた。でも、そういう「気ままな偶像礼拝は、もうそれで十分です」と聖書は語るのです。そしてそれは、2節において、しっかりと重い言葉で語られていますように、「肉における残りの生涯をどう生きる」のか?を考える時に、この生涯の今までとこれから、ということを考える時に、真剣な問題となります。

 もういつぞや終わるか分からないこの命です。WHO(世界保健機関)によると、この2年間にコロナの影響で亡くなった世界の超過死亡者は約1500万人にのぼったそうです。それは世界戦争が現在進行形で起きているようなもので、私たちはそういう時代に今生きています。肉における限られた残りの生涯をどう生きるのか?ましてや、私たちは今、キリスト教会に来ています。本当に、誰もが、私たち皆が悠長なことを言っていられる場合ではないと思います。先週は三位一体の話をしましたが、この三位一体の神様がおられるのに、残りの生涯いくばくか、という時間のない今この時に、神様を無視し、自分のやりたいように神様なしで生きるのは、さすがにもういいだろう、ということです。

 

 でもそんな風に、私たちは教会に来て、洗礼を受けたのだから、スパッと覚悟を決めて、自分の欲望にではなく神の御心に従って、バシッと生きれるかというと、なかなかそうなれない現実があるわけです。それが4節に語られています。4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。」あの者たちとは、まだ洗礼を受けていない人々のことです。そういう人たちは、教会に通うようになったあなたたちを、不審に思い、そしる。この「不審に思う」という言葉は、外国人という言葉がから来ています。つまり、社会一般から、そしられ、のけ者にされ、外国人扱いされる。洗礼を受けることによって、その社会で生きていく中で、社会的に、またきっと経済的にも、とても不利な境遇に立たせられる。そうやって、社会が与えてくれる幸せや、社会で考えられているところの立派な人、間違いのない人、重んじるべき重要な人という枠から、クリスチャンは外れていくのです。それが怖い、それは困る。それには耐えられないと思う時に、覚悟が揺らぐのです。

 

 でも、外国人なら外国人で、キリストのためにそしられるなら、それはそれで、良いのではないでしょうか?自分がそしられても、11節にあるように、それによって神様が栄光をお受けになるなら、それこそが、自分の酷くてまた加害的な欲望なんかを満足させるために生きるよりも、ずっと人間らしい、人間として私たちが与えられたこの命とこの時間の、これ以上ない用い方なのではないでしょうか?信仰とは、そして目に見えない三位一体の神様をしっかり信じて生きるということは、実にそういうことだと思います。

 

 水曜礼拝で話しましたが、森有正は、「信仰と信頼は違う。信頼とは、結局のところ何かを当てにすることだ。」と語りました。つまり信仰は、何かを当てにする信頼とは違いますので、何も当てにしないのです。その意味では、信仰においては、結果は関係ありません。そして信仰において大事なのは、アブラハムという人物がまさにそうであったように、出発することです。結果ではなく、信じて踏み出すという、ただスタートだけが、信仰において問題とされることなのです。

 私たちもそうです。信仰において、私たちは結果にコミットできません。今年、今日まで11か月をかけて26人が聖書通読をすることができたということは、本当に尊い結果であり励ましですけれども、しかしその一方で、信仰生活について良い結果を得られた、達成できたと、自信を持って言えることというのはなかなかないのではないでしょうか?覚悟をもって、これをやり切りますという風には、とてもではないけれども豪語できない、私たちの現実があります。この手紙の著者であるペトロも、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との主イエスの言葉を聞いた時、漁師の網を捨てて、すぐに従いました。アブラハムにもペトロにも、ただ覚悟だけしかありませんでした。その従って行った先で何が起こるのかは、彼らには見えていませんでしたが、しかし彼らは信じ、とにかく従いました。そして信仰とは、これで良いのです。先のことは分からない。ただ覚悟だけしかない、この思いだけしか、神様の前に差し出せるものがない。信仰は、それで十分です。

アブラハムもペトロも、スタートの覚悟と信仰はありましたが、その後失敗しました。ペトロの方は、主イエスが十字架に架かる日の朝に、3度主イエスを知らないと言って、3度主イエスを裏切って、信仰を失いかけました。しかし主イエスは十字架の死から復活された後、ペトロにまた出会って、「あなたは私を愛するか」と3度尋ねて、「はい、主よ。」と、ペトロに答えさせて、3度の裏切りを取り返させてくださいました。そしてその後、主イエスはペトロに、ヨハネによる福音書21章で、こう答えられました。21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」

主イエスに従うと、ペトロは、自分の行きたくないところへ連れていかれて、伝説では、逆さ十字架に架かって死ぬのです。つまり、信じて従うならば、自分の行きたいところに行けず、自分の好きなところで生きることもできなければ、死に場所を選ぶことさえも叶わない。死に方を選べないということは、自分の老後はゆっくりと、これからは自分のペースでのんびりと、という訳には行かないということです。主に従う者には引退がないので、そういう老後はないと思います。でも、神を信じ従って生きるなら、自分の欲望に従っては生きられませんが、しかし、神の御心に従って、今日からの残りの生涯を生きることができます。そして信仰をもって、自分の欲望よりも神様の御心に引っ張っていただいて、結果は神様にお任せで生きる方が、必ず自分の体にも心にも優しく健やかです。

 

では、今日からの残りの生涯をいかに生きれば、私たちは神の御心に従って生きることができるのか?それが今朝の後半の7節以降に、具体的に書かれています。4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」

私たちにはそれぞれ、神様がその御心によって、為すべきことや、賜物、能力、得意なこと、好きなことを与えてくださっています。でも、ただその神様から授かった自分の得手を伸ばすことだけが、神様が私たちに願っておられる御心なのではありません。8節に、何よりもまずすべきことが語られています。「4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」この御言葉の背後に、今こうして私たちが集っている教会の姿が見えて来ます。神様を信じ従うということについて、全く実績もなければ、その道の勝算もなく、信仰をまっとうしていくための算段も立たない私たちです。従うと言っても、そう口が語った先から背くような私たちですから、実際には信仰生活も断片的で、日曜日だけは何とか体面を保っているかもしれませんが、実生活全てを覗かれるならば大変です。隠された罪を、欲望を、偶像礼拝を皆持っています。だからこそここに、4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」と書いてあるのです。ただ愛し合うのではく、心を込めて愛し合いなさい。愛は罪をではなくて、愛は、多くの罪を、覆うからです。

神様から与えられている能力を、何のために使ったらいいのか?残りの生涯を、どんな風に生きようとする覚悟が必要なのか?聖書は私たちに、心を込めて愛し合い、その愛によって、多くの罪を覆い合いなさい、そういう風に残りの生涯を生きなさいと言います。

 覚悟はあっても罪を犯す。覚悟しようにも、人から不審に思われたりそしられたりすることに、自分の覚悟の力が堪え得ない。そういう私たちだからこそ、みんなで教会に来て、心を込めて愛し合い、お互いの中にある多くの罪を、自分が持っている多くの罪を、覆い合い、覆ってもらわなければ、そういう教会の支えがなければ、この信仰という覚悟を維持できないのです。そして聖書は、そういう風にしてあなたがたは支え合って、罪を覆い包み合って歩んだらいいし、実際それしか道はないと語っています。そしてそこに、教会とその教会のかしらとして、教会の要として居てくださっている主イエス・キリストが見えてきます。

 

 今朝の御言葉では、私たちが、覚悟をもって神様に従い得ているのかということが問われて、しかしそんな私たちは、それぞれに皆が持っている違う賜物や能力を互いに出し合って、罪を互いに愛によって覆い合って、教会として皆で歩んでいくようにと導かれたのですが、しかし何より、そういう私たちとこの教会は、限りなく深い愛で私たちの罪を赦してくださる主イエス・キリストによって、大きく覆われています。だからこの自分に、この教会に、覆い隠さなければ立ち行かない、どれだけ多くの罪があっても、またそれを互いに覆い合うために必要な愛の、どれだけ多くの不足があっても、それよりもさらに大きなキリストの愛によって、私たちは覆われているのです。

 

 11節の最後に、アーメンとあります。アーメンとは、必ずそうなりますという意味の、言わば私たちにとっての決意と覚悟の決め台詞です。しかし、神様にいつも祈り、いつも、今日のこの礼拝でも、何度もアーメンと繰り返しながらも、本当にそのほかには何も持たないない、アーメンと言うだけ言って、ただその決意だけしか持たないような私たちです。

けれども主イエス・キリストは、この私たちのアーメンを、本当にその通りに、額面通りに、それ以上に受け取って、応えてくださいます。生かされている私たちのこの命、どうせ生きるなら、神に従い、互いを愛し、互いの多くの罪を覆い合って生きることに使いたいと思います。そんな私たちを覆い包んで、支えてくださる、三位一体の神様に、栄光と、力とが、世々限りなくありますように。アーメン。