2022年11月27日 ペトロの手紙一4章12~19節 「とにかくイエス・キリスト」
ここには、私たちそれぞれの人生に必ず伴って起こってくる、苦しみの問題が扱われています。
この手紙の著者ペトロには、ローマ帝国によるキリスト教迫害と、彼自身の殉教という、キリスト教徒であるがゆえに引き起こされた苦しみがありました。そして、そのキリスト教迫害という苦しみは、それによって腹の空かせたライオンと戦わされて、餌にされて殺されてしまうという、これは本当に事実としてこの時代に行われていたことですが、この聖書の時代の当時の激しいレベルまでにはいかにとしても、無視や、無関心、多くの人に素通りされてしまうという意味での迫害は、今の私たちの現実においても起こり続けています。
また、それに加えて今私たちの世界には、新型コロナウィルスという、世界全体を覆い包んでいる大きな苦しみがあります。
今朝の御言葉の最初の12節は、こう語っています。「4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」火のような試練、とここにありますけれども、これは、火で燃えている苦しい体験、とも訳すことができます。軽くそれを受け流すというようなことはとてもできないような、重い、火で燃えているような、人に容易に言えないような、言葉にし切れないような苦しい体験が、今朝ここにおられる全ての方々の人生に存在していることを、一つの教会として共に歩んできた私たちは、お互いに知っています。それぞれに、毎週、色々な事が起こります。私たちのそれぞれの人生の中で、何の苦しみもない状態というものは、もしかしたらほとんどないのではないかとさえ思います。それは消えない火のようであり、私たちの心の中を焦がし、この心の中で暴れて、それは心の中のまだみずみずしい部分まで侵入して、心を干上がらせてしまう力を持っています。常々、私たちの心は、その火のような試練によって悩まされ、痛むのですけれども、しかし聖書はそれを、「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」と、すべてを丸く受け止めてしまいます。
本当にこれはすごいことで、これは、下手をすれば、苦難続きの、苦しみの連続だと思っていた人生が、丸ごと変わってしまうぐらいのことです。そしてその通り。聖書は、この私たちの人生を、丸ごと変えようとしているのです。
さらに聖書は、13節を語ります。「4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」13節の終わりの、喜びに満ちあふれる、と翻訳されている元の言葉は特別な言葉で、訳し変えますならば、「非常に嬉しく、幸せだと感じる」と訳せる言葉です。そしてこの言葉は、聖書のほかの個所では、ルカによる福音書1章47節の、クリスマス前夜の場面で、主イエス・キリストをお腹に宿したことを知ったマリアが、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と言って、神様を褒めたたえる場面でも使われています。その意味では、今日からクリスマスを望み待つアドベントですけれども、今朝の御言葉は、丁度アドベントの始まりに相応しい御言葉であるとも言えます。
そして、この今朝の私たちの御言葉で語られていることとは、それは、苦しみの意味であり、苦しみの、その先にある結果の話です。
意味の分からない苦しみ、結果のさだかならない苦しみに、私たちは耐えることができません。それが火のような体験であればなおさらです。いつまで続くのか分からない苦しみに、ずっと耐えていることはできませんし、この苦しみに耐えた結果、その先に良くなる見込みと兆しの全くない苦しみでしたら、それも耐え難いものです。そういう場合には、もうすべてどうでもいい、どうにでもなれと、私たちは自暴自棄になって、人生を投げ出してしまったり、どこに向かうともしれない怒りと恨みの塊のようになって、周りに当たり散らして、自分と人とを傷付けて回るようなことをしてしまう恐れがあります。その意味で、今朝の15節に、「4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」と、ピシャリと言われていることについては、リアリティーがありますし、ドキッとします。もし、苦しみの意味も分からないままに、自分がずっと、人生について離れない苦労や、火のような試練に、ただただ焼かれているだけだったとしたら、この自分が何をしでかすか、それが人殺しなのか泥棒なのか、自分自身でも分かりません。
では果たしてどうしたら、火のような試練から、大きな喜びに満ち溢れることへと移っていけるのでしょうか?無責任な言葉によっては、また、何の根拠もない、ただのプラス思考のようなものでも、決してその変化に至ることはできません。そこで聖書は、試練と喜びの間に、13節前半の言葉を語っています。それは、こういう言葉です。「4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」この13節前半も、原文のギリシャ語に沿って訳し直したいと思うのですけれども、13節の前半は、原文に即して訳すと、「むしろキリストの苦しみに参加する限りにおいて、喜びなさい」となります。
そしてこの、キリストの苦しみにあずかる、参加するということこそが、苦しみの意味であり、かつ目的となるものです。何のために、火のような試練はあるのか?それは、キリストの苦しみにあずかり、参加することのためにあると、聖書は断言するのです。
では、イエス・キリストとは何でしょうか?誰でしょうか?まさしく今日の今日からがアドベントなのですけれども、アドベンチャー、冒険という言葉は、今日から始まるアドベントから生まれました。つまり、主イエス・キリストがクリスマスにこの地上にお生まれになったことが、真のアドベンチャー、真の冒険を意味しているからです。冒険には危険や困難が伴いますが、主イエス・キリストは、神であることをかなぐり捨てて、どんな人のところにも届いて、どんな人の腕の中にも、簡単に抱かれてしまう、弱くて無力な赤ん坊になってくださいました。その目的は、自分を与えるためです。そこまで神様が、冒険をして、私たちのこの腕の中に赤子になってまでして飛び込んで来て、命も含めて、御自分のすべてを丸ごと相手に与えてくださった、これがクリスマスの夜に起こった冒険です。そして聖書はこれを、愛と呼びます。
馬小屋で生まれた主イエス・キリストは、ユダヤ人の大工ヨセフの息子として、御自身も大工として30歳まで歩まれました。汗水垂らして労苦をし、人に何かを教えてもらい、世話になり、人のために働くことをナザレの片田舎で経験されました。その中で、飼い主のいない羊のように、疲れ果てて倒れ果てている、破綻した人間の姿を見て、それを御自分が担って解決するべき重荷として受け止めて、約33歳でそれを経験したと言われる十字架への道を、人に愛を与え、命を与え、御自分の全てを与えるために、引き受けられました。人の癒しと救いのためには、奇跡を起こす力をいかんなく発揮された主イエスでしたが、御自分のためにはそのような力を一切使わずに、私たちと同じ一人の人間として生きてゆかれ、その中で迫害され、仲間であるはずの弟子たちからも裏切られ、十字架の前夜には、大きな叫び声をあげ、涙を流されながら、祈りと願いを捧げられました。そして主イエスはそういう中で、やがて私たちも経験する死を死なれ、黄泉の、地獄の底にまで下られました。ですから主イエスは、人間として私たちが味わう試練や、苦しみ、孤独、それをすべて知っておられ、私たちが経験する死も経験し、天国から地獄の底までの全てとそこで起こる全てのことを、舐め尽くされました。
主イエス・キリストは、苦しみを知らない、痛みを知らない、ただ天の高いところに居てそこから地上を眺めておられる高い神ではなく、天国からの命を投げ打つ冒険をして、この地上に届いてくださった、私たちの足元におられる神の御子であられますので、私たちがただ上を向いているだけでは、出会うことができないのです。しかし逆に私たちが、火のような試練の中で、よろめかされ、倒されて、地面に突っ伏す時に、自分は一人ぼっちで、一人孤独に倒れているのだ、もうダメだと思うその時その場所でこそ、主イエスの姿がはっきり見えて、主イエスは私たちに出会ってくださるのです。
12節から13節を改めて読みます。「4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」
私たちが経験する試練や苦しみは、イエス・キリストを、より良く分からせ、イエス・キリストと私たちをより良く出会わせるためにある。これが今朝の答えです。そしてイエス・キリストとの出会いが人生において起こる時、キリストは、持てるすべての命と愛を、私たちに注ぎ込んでくださる方ですから、それによって私たちが経験する試練の大きさ以上のキリストの愛で、その時試練が塗りつぶされて、大きな喜びが、人生に満ち溢れるのです。
時間と説教の分量の関係で、途中を飛ばしてしまうことをお許し願いたいのですが、最後に、今朝の終わりの19節の御言葉に、御一緒に目を留めたいと思います。19節をお読みします。ここが今朝の結論の言葉となっています。「4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」
創造主という言葉が出て来ました。驚くべき言葉です。苦しみが、主イエス・キリストだけでなく、私たちを創造主とも出会わせる。創造主を考えるということは、この自分の命を考えるということであり、自分の生まれと、これまでの育ちと、これから先の死までの人生の全体を考えるということです。確かに苦しみは、自分の人生を顧みさせる大きな要因となります。大きな苦しみに出会う時、もう死んでしまう、死にたいとさえ思いますし、逆に、こんなに苦しむ自分は、なぜ、何のために生まれてきたのだろうか?と、問わざるをえません。
27年前、地震で6432人が亡くなったこの神戸の地に立って思ったことも、また11年前も、仙台の海岸線までわずか8キロ、津波は5キロ地点まで到達していました。原発からはわずか80キロの場所で、東日本大震災に被災して思ったことも、なんで自分は死なずに、まだ生きているのだろう?生き残ってしまった。果たして自分は、生きていて良かったのだろうか?という問いでした。こんな私たちに、聖書は答えます。「善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」
善い行いをし続けて、とは、あなたはきっと幾多の苦しみに直面し、その時深く悩み考えるであろうが、しかし、あなたは人生を諦めるな!決して、人生を投げてしまうな!ということです。
さらに、その次の真実であられる創造主とは、誠実な創造主という言葉です。つまり、誠実な創造主である神様は、あなたをこの世に生まれさせ、幾多の、死ぬような危険や、病や苦しみが、あなたの人生にはあったけれども、そこであなたを死なせなかった。それはなぜか?それは、神様が誠実に、懇切に、あなたを見守り、愛し、今日この朝も、神様はあなたが生きていることを願っているからだ。そしてあなたが、今まで経験してきた苦しみを通してイエス・キリストを知り、誠実なる神に出会うことを、神様自らが、何より願っておられる。
今ここにいて、今日この朝を迎えることが許された私たちは、今日生きることを神様に許され、今日も生きていることを、私の命を生み出した神様に、強く願われているのです。
「創造主に自分の魂をゆだねなさい。」と、終わりに言われています。これは、あなたは孤独に生きるのではなく、あなたに対して真実であられる、あなたの創造主に、魂を、あなたの命を委ねて、この神様と人生を歩んでいきなさい、ということです。
いかがでしょうか?神様は、苦しみを、試練を、一人で耐え抜き、我慢し通しなさいとは言われません。むしろ、あなたが苦しむ時、試練に遭う時、そこで「わたしはあなたと会おう」と言われるのです。そして主イエス・キリストはクリスマスの日、おとめマリアだけでなく、私たち皆を、喜びに満ち溢れさせるために、天から、苦しみ多きこの地上に、本当に会いに来てくださいました。これからのアドベントの1か月、私たちの苦しみの只中に舞い降りて来てくださる、救い主主イエス・キリストを、また新しい思いと期待をもって見上げて、待ち望みながら、この季節を御一緒に歩んでゆきましょう。