2022124日 ペトロの手紙一51~7節 「教会をつくる」

 なぜ教会が必要なのか?教会では何をするのか?教会をつくるとは、どういうことなのか?今朝の御言葉によって、これらの大切な問いへの答えが語られています。

 私は、教会での立場として、牧師と呼ばれていますが、牧師というこの言葉は、羊飼いという、シェパードという言葉から来ています。そして、今朝のこの御言葉は、英語の聖書の言葉をそのまま使えば、Be Shepherd!という呼びかけで始められています。原文のギリシャ語でも、2節の一番最初の言葉が、Be Shepherd!です。つまり、あなたは羊飼いになれ!というのが、今朝一番に、聖書が私たち一人一人に語っていることです。

 羊飼いになるということは、どういうことでしょうか?皆さんの中で羊飼いをやっている方はいないと思いますが、ペットを飼っている方はいると思います。うちにも小さな室内犬がいて、その犬の飼い主をやっていますが、犬は自分で食事を作ることができませんし、水を出すことができませんし、自分で暖を取ることもできなければ、爪を切ることもできません。全部飼い主がやってあげないといけません。2節には、「あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを」と書かれています。神の羊の群れということは、飼い主は、所有者は、本当は神様なのです。4節に、大牧者、という言葉がありますが、大牧者である神様が、長老たちに、御自分が持っておられる神の羊の群れの世話を委ねられている、ということです。その神の羊たちが、群れを為して、週に一回集まってくる場所、それがこの教会です。

 ですからこの教会という場所には、集まってくる神の羊の群れの世話をする、言わば神様という大牧者の下請けになれるような小さな羊飼いたちが必要なので、その羊飼いになろう!そうなって欲しい!と言われています。

 主イエス・キリストは、教会のかしらであり、教会の中での最も力ある権威者であられますが、今は、主イエスは天に昇られて、天国から、一つの教会をではなくて、世界中の教会を用いて、そこに各地で興された神の羊の群れを送って、その羊たちがちゃんと食べることができ、水を飲むことができ、育つことができ、生きることができるように、それぞれの教会の中に、羊飼いたちを擁立してくださるのです。その羊飼いたちが、具体的には牧師であり、長老と呼ばれている人たちのことです。

 

 しかし、ただ教会に牧師がいて、長老がいるというだけでは、十分に神の羊の群れの世話をすることはできません。ですから聖書はここで、牧師や長老は、どういう動機でその務めを為し、どういったことを大事にしているべきなのかというところについて、もう一歩突っ込んで語っています。この部分の2節の後半から3節にかけての御言葉では、Not A, but Bという、AではなくBで、というかたちで、三つのことが語られていますので、そこを丁寧に読んでいきたいと思います。

 まず2節の後半には、「強制されてではなく、神に従って」とあります。これは、私なりにもう少し分かり易く訳しますと、「こうしなければ駄目だ、ではなく、神様が望んでくださっている私に、近づいていきたいという思いで」という言葉です。ここで問われているのは、牧師や長老の、教会と、そこに集う羊たちへの愛だと思います。本当はそれをしたくないのだけれども、嫌々羊の世話をするのではなく、神様を愛し、羊を愛している羊飼いは、きちんと羊の世話をするようにとの神様からの期待と、そして神の羊の群れの一匹一匹の羊の、尊い価値を知っていますので、羊を愛し、喜んで世話をする。その喜びと愛とが、何より羊飼いには必要です。

 次に、「卑しい利得のためではなく、献身的にしなさい」とも言われています。不正な稼ぎのために、あるいは利益を計算ずくで世話をするのでなく、真心から羊に仕えなさい、という言葉です。ここでも、羊への利他的な愛が問われています。自分のために、自分に何かのメリットがあるから、そうするのではなくて、羊飼いは羊のために、自分を捧げなさいということです。

 最後に3節の言葉です。「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」ここでも、これまでと同じように、羊飼いが最も大切にするべきは、羊飼いである自分自身ではなくて、羊飼いは羊を飼うためにこそ存在しているので、羊飼いにとって大事なのは、自分よりも羊なのです。「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。」牧師や長老に、自分が上だ、だから我々に従えと言ってしまえるような権威は、あってはなりませんし、そんなものは害にしかなりません。「むしろ、群れの模範になりなさい。」模範を示すということはどういうことか?それは、次の世代のことを考えているということです。自分自身や、自分の世代は中心ではなく、むしろ中心に来るのは次の世代であるので、牧師や長老は、次の世代のことを第一に考えて、次の世代の参考になるような模範を示し、そのための良いサンプルになる。そしてそこで、こうやらなければ駄目なのだぞというかたちで権威を振りかざすのではなくて、むしろ次の世代に学ばせ、考えさせ、次の世代の判断を尊重して、選ばせる。そういう羊飼いになりなさい、ということです。

 このような長老についての勧めの言葉は、もう一つの長老への勧めとして有名な、テモテの手紙一の3章にも、同じようなかたちで書かれていますが、そことここを見比べてみて改めて知らされることは、英語で言えばParently、親らしさ、とでも言うべきものです。テモテの手紙の方にも、32節から5節にはこうあります。3:2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。3:3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、3:4 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。3:5 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。」

 真心から子育てをすることができる良い親。そして、羊に真心から世話をする良い羊飼い。これは同じことを意味しています。ですから教会のリーダーにとって大事なのは、次の世代のことを考え、子どもたちのことを常に考える、親らしさであり、良い親心です。教会ではお互いのことを、神様によってつながれた兄弟姉妹と呼び合いますけれども、そのことからも分かるように、やっぱり教会は、血縁を超えた信仰の家族なのだと思います。そこには皆に仕え、皆をまとめる親のような、羊飼いのような良きリーダーがいて、それによって、教会に来る羊たちは、実家でくつろぐようにして、魂の腰を下ろし、天の父なる神様の前での、適切なお世話を受けて、心の疲れを癒すことができる。教会とはそういう場所です。

なぜ教会は必要なのか?その答えとして、たまには、少なくとも一週間に一回は、実家に帰って、適切なケアを受けて、羊飼いからおいしい草を食べさせてもらって癒されること無しには、神の羊たちは、健やかに生きていくことができないから、だから教会は必要なのだと、今朝の御言葉は答えています。

 

 続く56節をお読みします。5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」

 今朝の大切なキーワードである謙遜という言葉が出てきています。先程、権威を振り回してはいけません。という言葉が出て来ましたが、聖書が語る謙遜とは、謙遜の美徳と言われるような、日本的な奥ゆかしさや遠慮深さとは違う意味で、自分を小さく低くすることです。羊飼いになりなさい!という命令形で始まった今朝の御言葉は、6節の、自分を低くしなさい!という命令形に終わります。そして、羊のために自分を献げる羊飼いになりなさい!自分を低くしなさい!と聖書が命令してくるのは、これを読んでいる私たち読者が、自分の身を献げる羊飼いになることを嫌う上に、自分を高く上げようとはしても、自分を低くするなどということは、敢えてしようとしないからです。

 傲慢さは、自分を高く上げて、自分のことだけという自己本位を生み出し、競争を生み出し、排他性、閉鎖性へと導きますが、謙遜さは逆に、感謝と、大らかさと、人に対する愛と、開かれた優しさを生み出して止まないものです。

 

 しかもここでは、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、高めていただけますと、神様との関係の中での自分の低さが語られています。パウロは、「神様の力は、私たちの強さではなく、逆に弱さの中でこそ発揮される。だから、私たちは弱い時にこそ、実は主にあって強い」と語りましたが、それと同じことがここでも言われています。高く強い神様の前に、低く、謙遜な自分である時には、神様の大きな強い肩の上に乗るようにして、その力に支えられ、その力に導かれ、その強さを利用できるので、私たちは強くなる。けれども逆に、私たちが強くなろうとすると、神様の力や支えなどはそっちのけになってしまって、独力で進んで行こうとするので、自分だけで強くあろうとするような私たちの力は、その時には、反対に弱くなってしまうのです。

 私は昔、テニスが上手だったのですが、スペイン戦の堂安の同点ゴールもそうでしたけれども、やみくもに力を入れれば早く強いボールが打てるという訳でなくて、実際はその逆で、弾丸のような速いボールを打つためには、力が抜けて脱力している状態でなければ、それはできません。テニスのスイングも、サッカーのキックも、力を入れずに、肩の力を抜いて、体が柔らかになっていなければ、スイングスピードと可動域が上がっていかないのです。

 教会で私たちは、自分のことを、弱く小さな罪人であると認めています。自分を罪人として認めるということは、自分は主イエスの十字架なしには、一日たりとも生きられないと認めることです。そしてそういう人は、その分毎日、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、神様の力強い御手の働きに、毎朝毎晩アクセスして、それに支えられて、そこから来る自分の力や限界を超えた大きな神の力と愛を、毎朝毎晩存分に体に浴びて生きることになります。その時、弱い罪人であるはずの私は、神さの御手の力強さに支えられて、どんなに強いキーパーの手も弾き飛ばしてしまう程の、強い弾道を描くのです。

 

 お互いに謙遜な、肩の力の抜けた、神様の力で支えられ合う関係。老若男女、親が子どもを育み育てるような親心をもって、互いが健康であれるように、互いに世話をし合う、神の家族。

教会では何をするのか?教会では、謙遜に、皆で互いのことを支え合います。では教会をつくるとは、どういうことなのか?教会をつくるとは、実に、そうやってお互いのことを世話し合いながら、羊飼い的な、また親的な、羊や子どもを自分自身よりも大事にする心持ちで、家族的な一致をつくることです。そして同時にそこでは、その家族の一人である自分自身のことを、神様の力強い御手の下で、改めて発見し、そういう新しい自分を育まれて、改めてそこで、弱く低いけれども、神の力によって強くされた自分が、つくりあげられていく。つまりその意味で、教会をつくるとは、自分をつくるということなのです。

 

最後に、今朝の最後に7節の御言葉があることに感謝したいと思います。75:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」お互いが自分を低くして支え合うという、とても美しく、慎ましい、これなら間違いないなと思われるような教会の姿が、今朝の御言葉には描かれていますので、これはこれで文句はないのですけれども、いささか綺麗事過ぎやしないか?現実はそんなにうまくいくわけはない、という思いも頭をかすめます。

しかし今朝の御言葉には7節があります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」の、「お任せしなさい」という言葉は、こんな慎ましい言葉ではなく、放り出す、ぶん投げるという、いささかぶしつけな言葉です。ですからここは、思い煩いという、私たちの心のゴミ出しの仕方はこれだ!という話だと思います。よくやってしまうのですけれども、ゴミの出し忘れをすると、廊下や庭にゴミが積み重なって、溜まってしまうので、大変です。そして私たちのこの心にも、一週間の間に、色々な思い煩いが積み重なっていきます。しかし聖書は、「そのゴミを溜めておくな、そのゴミはここに出せますよ」と、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」と言うのです。

先週の最後の419節にも、「真実であられる創造主に、自分の魂を委ねなさい」という言葉がありましたけれども、そうなのか。思い煩いはすべて、何もかも、ここに出せばよかったのかという話です。なぜなら、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」思い煩いは、何もかも、教会に持ってきてください。逆に違うところに持っていくと、トラブルになってしまう可能性があると思います。大牧者であり、羊飼いの中の羊飼いであられる力強い神様が、あなたがたのことを心にかけていてくださいますので、ゴミは溜めないで、どんなものでもここに出すように。

こう考えると、教会は、他には無いような、とても助かる場所なのだと思います。今日もこの教会で、神様は、神の羊の群れである私たち一人一人のことを心にかけて、ねんごろにお世話くださいます。そんな素敵な教会を、皆様と共につくり、この場所にますます育み、引き継いでいきたいと思います。