2022年12月11日 ペトロの手紙一5章8~11節 「ひとりではない」
今朝、「ひとりではい」という説教題を掲げました。「ひとりではない」。今朝、このことに御一緒に励まされたいと思います。
生きていると、本当に辛いこと、思い通りに行かないこと、苦しいこと、しんどいことが多いと思います。若い時、自分一人の事だけを考えて生きていた時には、自分の失敗や未熟さから来る苦しみは知っていましたが、同時に楽しいことや嬉しいことも経験しながら、たまに悲しみまた喜んでという風に、自分の事だけなら、ただそれに一喜一憂していれば良かったのですが、牧師になって、自分の事だけでなく、自分の家族や、年老いていく親や、親類や、教会に集われる一人一人の方々と出会わせていただいて、またそのご家族のことなどを知って、いつもその方々のことを思い巡らし祈る中で、さらに国内外の情勢、社会状況、政治などのことも重く考えるようになり、さらには、今世界を同時多発的な危機に陥れているコロナウィルス禍という厄災の時代を生きているということも相まって、今私たちは、本当に皆が、誰もかれも大変だなと、苦しみつつ、大変な思いをして生きているのだなと、本当にひしひしとその苦しみを日々感じています。
この手紙の執筆者となっているペトロも、同じような思いで、世界と、人々と、教会の苦しみをひしひしと感じ、それを見つめ、思い巡らして、この手紙を通して語っているのだと思います。この手紙はペトロの手紙ということですので、執筆者はペトロなのですが、宛名、宛先はありません。アジア・ガラテヤ地方、今で言うトルコの国がある広い地域に点在している、不特定多数の教会に向けて、この手紙が誰に読まれるのかという、そこまでは特定できない状態の中で、しかし、誰にでも起こる苦しみを思い、誰の人生であっても抱えている苦しみを見つめて、ペトロはそこに宛てて手紙を書いているのです。
去年公開されて、カンヌ映画祭で賞を取り、アカデミー賞にもノミネートされるなど、高く評価された『ドライブマイカー』という映画がありました。映画のネタバレになってしまうので申し訳ないのですが、その映画では、チューホフの『ワーニャ叔父さん』という戯曲が取り上げられて、それと共にストーリーが展開されていきます。そしてラストには、死にたいほどの失意の中で、しかし死ぬこともできずに打ちひしがれているにいるワーニャ叔父さんへの、彼の姪である若いソーニャの言葉が語られます。
「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ、そして、ワーニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ。あたしたちはうれしくなって、うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返るの。そうしてようやく、あたしたち、ほっと息がつけるんだわ。伯父さん、あたし信じているの、強く、心の底から信じているの。」
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(光文社古典新訳文庫、2009年)、127頁。
苦難の中でも生きていこう、というメッセージがそこにはあり、孤独な登場人物たちへの慰めが、そこでは表現されるのですが、今朝の私たちの御言葉には、さらにそれ以上に力強い励ましが、そして励ましだけでなく、祈りが、込められています。
今朝の8節の出だしの言葉は、まさに先の映画のメッセージと重なるような、今を生きていこう!という呼びかけです。「身を慎んで、目を醒ましていなさい。」
「身を慎んで」という言葉は、しらふで、落ち着いて、という意味の言葉です。しらふで、落ち着いて、目を覚ましていなさい!なぜこういう命令形が語られるのかというと、私たちはしらふでではなく、酔っぱらうようにして、何かにこの心が乗っ取られたように、うつろになってしまうことがある。落ち着いていられず、焦って、慌てふためいてしまうことがある。そして眠ったように、無感覚に、心の目を閉じて、布団に潜り込むように、殻に閉じこもって動かなくなってしまうことがある。何故か?苦しみ故です。先週の最後の7節にも、「思い煩い」という言葉が出ていましけれども、苦しみや思い煩いが、言わば、私たちの心の傷口になるのです。
そして、そこで何よりも大事になるのは、その苦しみや思い煩いによって傷を受けてしまった心の、その後の扱い方であり、持って行き方です。なぜなら、8節の後半に語られている現実があるからです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」苦しみと思い煩いによって傷を受けた心の、その傷口から、悪魔が入ってこようと狙っていて、あなたの心の周りを徘徊している。あなたの弱った心にかぶりついて、ひと飲みにして食いつくしてしまう、吠えたける獅子のごとき悪魔が、今その獲物を、あなたの側をうろつきながら探し回っているからだ。怖いですね。先週旭山動物園の、ライオンの飼育員の話をテレビ番組でやっていましたが、聖書に言わせれば、私たちは今、ライオンの檻に丸腰で放り込まれたような形なのかもしれません。悪魔が、私たちのこの心を、食い尽くそうと探し回っている。しらふではない状態で、ふらふらヨタヨタしていたら、ひとたまりもありません。
だから9節です。「5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」踏みとどまるとは、stand firm固く立つ、という言葉です。獅子のような悪魔に食い尽くされないように、どこに固く立つのでしょうか?stand firm in the faithと、信仰に固く立つと言われていますが、さらにもう一歩進んで、10節の御言葉には、in Christという言葉が語られています。10節の前半をお読みします。そこに、「5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、」とあります。このイエス・キリストを通してという言葉が、in Christという言葉です。直訳的に言えば、キリストの中にある永遠の栄光の中へと、恵みの源である神が、あなたがたを招いてくださっている。固く立つとは、10節のこの事実に固く立つということです。
苦しみや思い煩いに悩まされる時、私たちは、その時にこそ、神様の恵みの中に、イエス・キリストの中に、信仰の中に、固く立つべきなのですが、それができずに、流されてしまうのです。悪魔の猛攻に耐えられなくなると、大雨の濁流に橋が飲み込まれて流されてしまうように、信仰の中に固く踏みとどまることも、悪魔に抵抗することも、できなくなる。悪魔は私たちの心を食い尽くしてどうするのか?酔わせて、酩酊させて、目を回させて、目覚めるどころか、目が開けられなくするのです。そうなると、そこに固く立つべき神様の恵みが見えなくなって、「神様は、私を恵んでなんかくれない。意地悪で、悪質な、恨むべき神だ」という風に考えるようになります。そして、イエス・キリストの中にも立つことができなくなると、そこから離れて、キリストの外に出てしまう。数週間前に、私たちにとっての苦しみの意味とは、それは私たちが苦しみの中で神を見上げて、イエス・キリストの十字架に出会うための苦しみであると学びましたが、それが分からなくなり、苦しみによって逆にイエス・キリストから離れて、主イエスのことなど考えなくなる。そして、イエス・キリストを通して、私たちが永遠の栄光へと招かれていることが忘れられて、永遠を思えなくなって、すぐ目先の事ばかりに囚われてしまうようになる。そこでは、最初に言われていたしらふで居ることのできる落ち着きは、失われる。その時、無抵抗に、あるいは自らすすんで神様から離れて、悪魔に流されて、悪の中に入りこんでしまうという、狂気と正気を全く履き違えるようなことを、私たちはしてしまうのです。本当に、誰もがこの身に覚えのあることだと思います。
まさに恵みの神様と、ほえたける獅子のような悪魔が、私たちの心をお互いに奪い合うようにして、戦っているのです。そしてその戦いの場、その主戦場は、この私たちの胸の内です。神を信じる。そして神への信仰を持つということは、そういう戦いであり葛藤を、自分の心の内側に呼び起こすものです。皆そうなります。その葛藤を味わわない人はいません。改めて9節を読みます。「5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」苦しみは細かく見れば一人一人、違った苦しみを経験しているようですけれども、しかし決して私たちは一人ではなく、本質的には、ここにる皆は同じ苦しみに遭っている。あるいは、今世界中で生きているすべてのキリスト者は、あるいはもっと、この聖書の時代からの、過去に生きたキリスト者と、そしてこれから先の時代に生きるキリスト者も含めて、その意味でも皆が、同じ苦しみに遭っているのです。
しかし、10節以降をお読みします。「5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。5:11 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」
この10節から11節は、祈りの言葉です。つまりペトロは、しらふで、目を覚ましていなさい!悪魔に乗っ取られ、食い尽くされないように、固く立て!と激励しながら、今朝この御言葉を受け取っているこの私たちのために、祈り始めるのです。イエス・キリストとの出会いで、あなたがたは、神によって永遠の栄光へと招かれた。このことと、その後の、しばらくの間の苦しみ、という言葉が明らかに対比されています。あなたがたの間には大変さがあり、苦しみがあり、信仰を持ち、主イエスと歩むことを決意したその心の中にも、戦いが起こるだろう。しかしそれは、永遠の栄光に比べたら、英語の聖書ではa little while、つまり僅かの、ほんのちょっとした間に過ぎない。そして神は、苦しんだあなたがたを、完全な者とし、この言葉は、再生させるという意味です。そしてさらに、強め、力づけ、揺らぐことのない、つまり、永遠なる神様に中に、未来永劫固く立つことができるようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。ペトロは、聖書は、その今のあなたの心が、永遠に守られるように、それが永遠に主イエス・キリストのところにしっかりと離れず固く据えられますようにと、今朝のあなたのために、祈りを捧げてくれているのです。
どうでしょうか?確かに苦しみや、思い煩いが、すべて消えてなくなるということはありません。しかし神様の恵みと、イエス・キリストのあなたへの愛の方が、もっとずっと永遠に、あなたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださいます。それを有言実行するために、主イエス・キリストはクリスマスにお生まれになり、この地上の土を踏んでくださり、インマヌエルという、神が私たちと共におられるということを、具体的に見せ、私たちに味わわせ、分からせてくださる神の御子としてまた一人の人間として、私たちが先週味わった、この一年間味わってきた、苦しみ、悩み、思い煩い、葛藤、痛みを、同じように味わってくださり、さらには、この私たちよりももっと十字架で、私たちの分まで苦しんでくださったのです。ですから先週の7節で語られたことは、今朝の私たちにも、ぴったりと当てはまります。「5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
ひとりではない。苦しい、世知辛いこの世の中、皆が、たくさんの苦しみを抱えて、今ここに集われていますが、私たちがこの日曜日に教会に来て礼拝しているこのことは、ある意味ものすごくだれよりもしらふで、正気で、落ち着いていて、何が大切なのかということに本当に目覚めさせていただけているからこそここで起こっている、奇跡のようなことです。これは私たちが、お互いに揺らがないように、神様にお互いが向かうように支え合えているからこそ、できることなのだと思います。つまり本当に、私たちは、ひとりではないです。だから生きていける。さらにこの私たちを励ます聖書もここにあり、何より私たちの救い主、クリスマスに人間になってくださった、神の御子イエス・キリストが永遠に、私たちと共におられます。だから大丈夫です。私たちは、ひとりには、どうやってもなりえません。私たちは今、皆で共に味わう、神の恵み中いる。だから、生きていきましょう。生き抜きましょう。主イエス・キリストの中で、永遠に生き続けましょう。