20221218日 ペトロの手紙51214節 「ここに平和を」

およそ半年にわたって、ペトロの手紙一を読んできました。来年からペトロの手紙二に進みますけれども、今日でペトロの手紙一は、締めくくりです。そしてこの結びの言葉で、この手紙が何のために、何を目指して書かれた手紙なのかが改めて確認されています。

 そしてこの手紙が、最後にまた改めて私たちに問いかけていることは、あなたは、どういう世界に生きるのか?この世界は、果たして、どういう世界なのか?という問いです。

 世界観と言われたり、最近では世界線とも呼ばれたり、人生観と言い換えることもできる、私たちが生きていくうえで、その人生を左右してしまうような大事なことが、実はこの手紙で語られ、問われてきたことです。

 どういう世界観で生きるのかということによって、人生は変わります。世界観によって人生の景色も一変します、それは、違う世界観によって世界が違って見えるという視覚的なことではなく、見た目は同じで、現象として、また現実としては変わらなくても、世界観人生観が変われば、その受け取り方が変わる。意味が変わる。それによって人生の景色が一変するのです。

 話は逸れますが、ワールドカップでベスト8に上がれなかった日本代表の選手や監督が、「新しい景色を見せることができず申し訳なかった、とても残念だった」と口々に語っていたのが印象的でした。世界中の国々の中で、上位8チームに残れるか残れないかという差は、私たちサッカー素人が考えるよりも、実際にはずっと大きな差として現れてくることなのだと思います。事柄はもちろんそんなに単純ではないにしても、日本がワールドカップベスト8に入るということは、例えば、世界でサッカーがうまい上位8名を選ぶ時、その中に日本人が一人は入るということです。ワールドカップベスト8ということは、そういう世界が開けるということです。もしベスト8に入っていたら、日本代表の選手たちは今までよりもさらに高く評価されて、それぞれがもっと強い、世界有数のクラブに引き抜かれていくでしょうし、4年後の次のワールドカップに向けて、ベスト16が限界だった今までの4年間とはまた違う、さらにベースアップした4年間をこれから積み上げていくことができるのです。たかが一勝するかしないかなのですけれども、4年に一度しか訪れない大勝負ですので、そこで勝つか負けるかによって、そこには全く別の景色が展開され、もし勝てば、別の世界観が広がり、次のワールドカップまでの、これまでとは全く違う4年間が付いてくるということになっていただろうと思います。だからこそ、選手や監督は、そこに行けなかった悔しさを、あれだけ強く表したのだと思います。

 話を戻しますと、世の中には、神様抜きで考える無神論的世界観があり、人は皆天涯孤独で、出会う人皆敵なのだとする弱肉強食的世界観などもあり、実に様々な世界観がありうる中において、ペトロはこの手紙を通して、もちろん神様ありきで考える有神論的世界観を訴えて、それを大前提としながら、さらに彼は、人生とは苦難の連続の中を行く、暗く辛いものであるのか、それとも、恵みの中を行く明るいものであるのかという二つの人生観を対立させて、後者の、明るい人生観をこそ真実だと結論し、そこに、私たち読者を立たせている、と言うことができます。

 その証拠に、日本語の聖書で数えると、苦しみという言葉が、この手紙の中には10回出て来ます。それに対して、恵みという言葉が9回、喜びという言葉が2回、平和と言う言葉が3回出て来ます。

 そしてこの手紙の結びでペトロが改めて強調していることは、それは12節の終わりに語られていることですが、「恵みにしっかり踏みとどまりなさい」。英語で訳せば、命令形で、stand fast in grace!恵みの中に堅く立て!ということなのです。

 私たちが一体、どこに立つのか?このペトロの手紙を、この聖書の時代の当時に受け取ったトルコの地域の諸教会が、とても苦しい状況にあったのは確かです。彼らクリスチャンたちは、社会の中で少数派であり、侮辱や、あるいは言われもない誹謗中傷を受け、信仰のゆえに差別されるという、迫害に直面していました。夫や妻や家族、仕事先や周囲の人々がクリスチャンであることは少なく、信仰者たちは苦しみと恐れに取り巻かれている状況でした。

 さらに、今朝の御言葉には驚くような言葉も見受けられます。それは13節です。そこには、5:13 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」急にバビロンという言葉が出て来ます。バビロンという地名は、口にするのも憚られるような、憎き仇であり、この当時から数えて600年前に、遠くメソポタミアの地方からイスラエルに攻めて来て、神の都エルサレムを破壊し、奴隷として男性たちを根こそぎ国に連れ帰って、イスラエルの国を滅ぼし尽くした、バビロニア帝国によるバビロン捕囚、あのバビロンという言葉が突然出て来ます。ローマで逆さ十字架に架けられて殉教したと言われているペトロは、自分を神と称する、反キリストの権化のような皇帝が君臨するローマを、かつてのバビロンになぞらえて語っています。しかし同時にそのことで、今自分もローマに居て、バビロン捕囚に遭うような痛みと苦しみを味わっているけれども、この苦しみは、手紙の読み手である諸教会においても共通している。その意味で、私たちは、ローマとトルコと言う場所の隔たりを超えて、お互いに同じ苦しみを味わっている同士なのだという連帯感をも、ペトロは間違いなくここで表現しています。そしてこの連帯感は、今の時代に生きる今朝の読者である私たちにも届く、連帯感なのだと思います。

 今の時代のバビロンとは何か?それはロシア・ウクライナ戦争でもあり、その背後で覇権を握るアメリカだと言うこともできると思います。また、そのことに対する悪い反応として、臆面もなく軍事費を倍増しようとしているこの日本のあり方も十分にバビロン的ですし、ある牧師は、コロナウィルス禍に取り巻かれて、これまでのような礼拝を捧げることができなかったこの数年のキリスト教会の状態を、これは現代の教会を襲ったバビロン捕囚だとも語っていました。そういう色々な事を考えれば考える程、このバビロンという言葉によって、ペトロと、ペトロの時代の教会と、今朝のこの私たちは、繋がっている。連帯していると思うのです。

 けれども、このペトロも当時の教会も、私たちも、ただただ、バビロン的な苦しみの現実に直面しているということではありません。13節の始めには、「共に選ばれて」という大事な言葉があります。誰に選ばれたのか?この手紙が、1章の出だしから、「各地に離散し仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」と語るように、もちろんそれは、神様によって、ペトロも、初代教会も、私たちも同じように共に選ばれて、そして神様によって、バビロンで生きるようにと、そこに置かれたのです。それはなぜか?それは、バビロンのごとき苦しみに直面しながらも、14節で「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。」とペトロが言うように、お互いに親しく励まし合いながら、stand fast in the grace!みんなで、恵みの中に固く立つため。そして、12節にはっきりと言われていますように、「神のまことの恵みを証しするためです。」

 パウロが、フィリピの信徒への手紙2章で、「そうすれば、(あなたがたは)とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」(フィリピの信徒への手紙21516節)と語っていますが、曲がった、困難な時代の中で、神の子として、星のように輝くために、そのために、キャンドルの光を暗闇の中に灯すようにして、神様が私たちを、また私たちの教会を選び、バビロン的な苦しみの場所に、置かれたのです。

 クリスチャンとして、どのように生きることが必要なのかと、私たちは常に自問自答するわけですけれども、細かく見れば、具体的な生き方は、私たちの中でも千差万別、みんなバラバラで、それぞれです。同じ色ではないそれぞれの人生を、私たちはとてもカラフルなかたちでそれぞれ様々に生きていくわけですけれども、決して外してはならないことは、恵みの中を生きるということです。

 先程も少し言いましたけれども、実に色々な世界観・人生観があるわけで、さらに、私たちは何の人生観も世界観も持ち合わせていないという状態にはなれませんので、どうしたって何かの世界観なり人生観があって、それに基づいて生きているわけです。弱肉強食モードで生きる。誰かへの復讐のために、怒りをエネルギーにして生きる。見返してやるという反骨心で生きる。神様に反抗心を燃やして、神などいるものかと、神を否定するために生きる。逆に神が恐ろしいので、常に神様の目から逃れ逃げるようにして、恐れの中を生きる。あるいは、人生には何の意味も価値もないのだから、自分の事でも何か他人事というようなゲーム感覚で、無感覚に、無感動に生きる。本当に色々な見方がある中で、しかし、ペトロ曰く、1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」と、ペトロはこういうかたちで何度も語ります。そしてだからこそ、「この恵みにしっかりと踏みとどまりなさい。」「恵みの中に固く立ちなさい。」ということなのです。

改めて、私たちが立つべきところも、本当にここなのだと思います。なぜなら、この私たちにとっての一番大きく危険な罠は、「わたしは神の恵みの外にいる」「わたしは神の恵みの中にはいない」と考えて、恵みの外で生きてしまう、神様から与えられる恵みということ抜きで生きようとしてしまうことだからです。神様からの恵みがないということになれば、人は、自分自身の力で、自分にはない、自分の欲する恵みを、人から奪うなりして何とか掴み取って生きる以外になくなります。そしてそれは、本当に苦しく辛い道です。そもそも世の中の悪はどうやって作られるかと言うと、それは、私たちの一人一人の心から始まります。悪魔それ自身には、いきなり火山を爆発させたり、隕石を落下させたりというような、天変地異を来たらせるようなことは許されていませんし、私たちの心を自由に操る力も与えられていません。ただ悪魔には、アダムとエバの時がそうだったように、ただ心の隙をついて誘惑し、悪にいざなうことしかできません。確かに大きな悪や、神を全く考えないという大きな力を持った世界観は存在します。しかしそれも、実のところは、一人一人の心のあり方が積もり積もって出来上がっているのです。

であればこそペトロは、私たち一人一人の心に向かって、そこに堕ちるなと、恵みの神様を見誤るなと、大きな、多くの、苦しみの時にこそ、それを、恵みを見失い神様から離れる機会にしてしまってはならないと、訴えています。

14節の終わりに、「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。」という、手紙の最後の結びの言葉があります。平和があるように、平和、エイレネーという言葉、これは、主イエスが、弟子たち皆に裏切られ、神様からも見捨てられておかかりになった十字架の死から三日後、弟子たちの真ん中に突然現れてくださった時に語られた、主イエスの第一声です。主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そしてこのペトロは、その時その場所で、その主イエスの言葉を実際に耳で聞いていました。人々からも神からも見捨てられ、十字架を忍んで、黄泉に降り、地獄にまで落とされた主イエス・キリスト。全世界の全人類の苦しみを一手に受けたこの方は、地獄から地上に舞い戻ってきた時のその第一声で、「よくもやってくれたな。ああ辛かった」とは言われませんでした。苦しみは、主イエスを神の恵みから引き離す力を持たなかった。主イエス・キリストの平和は、どんなに大きな苦しみも、地獄の痛みさえも、全てのみ込む強力な平和です。このキリストに結ばれている私たちには、消えない、消せない、平和があります。

 

 最後に、エフェソの信徒への手紙のパウロの言葉をお読みしたいと思います。パウロも今朝のこのペトロと、同じことを語っています。3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、と言われています。ここからイメージするのは、地球のような丸い惑星です。そういう広く、長く、高く、深い、キリストの愛と恵みの球体のど真ん中に、私たちは今、すっぽりと入れられています。この恵みの星地球で、人間として、今生きていて、今朝も神様が与えてくださる陽の光を浴び、主イエス・キリストの教会に集い、お互いに挨拶を交わし、聖書の中の教会とも、聖書を通してペトロとも、膝を突き合わせ、肩を組んで歩む。私たちは今、広く、長く、高く、深い、キリストの愛と恵みに大きく包まれていますので、もうどうしたってそこから外に出ることは決してないのです。Go in peace!だから、この平和の中で、恵みの中で、イエス・キリストの中で、私たちは今朝からの新しい一週間に、安心して出発していくことができるのです。