2022年12月25日 マルコによる福音書1章1~11節 「クリスマスのターゲット」
今朝は、クリスマスでは恐らくほとんど読まれることがないであろう、マルコによる福音書の御言葉をお読みしました。なぜマルコによる福音書がクリスマスに読まれることがないと言えるのかと言うと、この福音書には、クリスマスが書かれていないからです。マルコによる福音書には、主イエスの母マリアの受胎告知もなく、主イエス・キリストが馬小屋で生まれたということも語られず、主イエスの誕生を目にした羊飼いたちも出てこなければ、東の国から来た博士たちも出て来ません。このマルコによる福音書は、その主イエスの生まれと、またその後の幼少期の様子を一切語らずに、一言、「1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。」とだけ語ります。ですから、その意味では、ちょっと無理矢理かもしれませんが、この1章1節と、それに続く言葉がによって表されている主イエス・キリストの登場シーンが、このマルコによる福音書にとってのクリスマス物語なのだ、と言えるのではないか?そういう読み方ができるのではないかと思うのです。
ですので今朝は、このマルコによる福音書が語るクリスマスを、御一緒に受け取りたいと思いました。
そして、このマルコによる福音書が語るクリスマス、主イエス・キリストの登場シーンによって語られていますことは、主イエス・キリストの到来は、誰の、どんな人のための到来なのか?ということです。つまり、このマルコによる福音書冒頭には、主イエス・キリストの到来の、この今日クリスマスに起こったことの、それが誰のためのものだったのかという、ターゲットが明らかにされています。
マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り出します。そしてその後に出てくるのは、イエス・キリストではなく、洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは何をしたか?ずばり洗礼者と呼ばれているように、人々に洗礼を授けました。しかしそのヨハネのスタイルは独特で、ある意味で主イエスとは真反対の部分がありました。
3節~5節にこうあります。「1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」
イザヤ書の引用を通して語られている、主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。とは、その言葉の通り、交通整理をすることです。ちゃんと神様の方に向かって、正しい道に真っ直ぐ向かえるように、行列を誘導する係員のようになって、まっすぐに列を整える。その洗礼者ヨハネは、荒れ野に現れたと書かれています。荒れ野というのは、イスラエルの地域の砂漠の事であり、実際に行ったことのある先生が言っていましたが、イスラエルの砂漠地帯を観光する時には、ひとりずつに、2リットルのペットボトル2本が手渡されるそうです。そしてそれを軽く全部飲み干してしまうと。それぐらい厳しい渇きのあるところが荒れ野であり、それは人を死に追いやる程の過酷な場所です。しかも荒れ野と訳されている言葉には、孤独という意味もあります。洗礼者ヨハネはそういう荒れ野という場所に孤独に立っていた。そこで何をしていたのかと言うと、悔い改めの洗礼を授けていた。そしてそこには、ユダヤの全地方とエルサレムの住民が皆集まってきて、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けていた。
悔い改めとはどういうことでしょうか?罪を告白し、という言葉もここにあります。これは一言で言えば、反省するということです。なぜ反省をするのかと言うと、悪いことをしたから、罪を犯したからです。悪いことをして、人に何かをしてしまって、赦されることが必要な状況に陥った時に、その人は、反省して、悔い改めて、罪を告白し、赦しを請うのです。
マルコによる福音書がその始まりから描くのは、そういう人々の姿です。罪を抱えて、赦しを求めて、そういう人が全土から寂しい荒れ野に集まってくる。心も体もカラカラに渇き切っている人々の群れ。
体がカラカラに渇くと聞くと、四団体王座統一チャンピオンとなったボクシングの井上尚弥選手が思い浮かんでしまうのですが、あんな鋼のような重そうで強靭な筋肉を全身にまとっていながら、減量をして体重を絞っていくというのは、並大抵のことではないと思います。誇りまみれのラクダの毛衣を着、まずいイナゴと野蜜だけを食べて、砂漠で孤独に、人々の罪を問い、悔い改めの洗礼を授け続ける洗礼者ヨハネの姿は、ストイックな減量中のボクサーを思わせます。
そして、こういうところで、神の子イエス・キリストの福音は初まるのです。成功している人ではなく、失敗して反省している人。自分で何とかできるしっかりした人でもなく、簡単に取り返せるようなものではない、もう自分ではどうにもできない罪を犯した人。悔い改める必要のない人ではなく、悔い改めをする人。自信のある人ではなく、不甲斐ない自分に罰を与えるかのような気持ちで、切羽詰まって、孤独な荒れ野に人生の答えを求めに来る人。元気で潤っている人ではなく、心も体もくたくたな、もう渇き切ってしまっている人。その人が、福音のターゲット、クリスマスのターゲットです。
洗礼を求めてヨハネのもとに押し寄せてくる人々に対して、彼は言いました。7節8節です。「1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
聖霊で洗礼を、とはどういう意味か?聖霊による洗礼とは、言わばゴール。完全なる、神様との出会いと完全なる神様との結び付き、インマヌエルの実現というゴールにたどり着くことです。
変なたとえで申し訳ないのですが、元町にいつも行列ができている、豚まん発祥の店と言われている老祥記という店があります。おいしい豚まんを求める人々によって、いつも長蛇の列ができていますので、そしてあの場所は人通りも多い所ですので、どこが最後尾なのか、どこに並んだら良いのか、パッと見では分かりません。ヨハネは言わば、誘導係として、人々を正しい方向に導く、そこじゃなくてここだ、そっちの方向では店に辿り着けない。こっちだと、道を示して、しっかり列に並ばせる。ヨハネができるのはそこまでで、人々はヨハネによって方向を正されて、正しい列に並んだら、じっと待たなければならない、ストイックに、列を外れないようにしなければならない。そしてその先に至って、ようやくゴールに至っておいしい豚まんを手にする。そのゴールと、喜びと、報いを、祝福を与えてくださるのが、聖霊による洗礼を与えてくださることのおできになる、神様と直接結びつかせてくださる、神の子イエス・キリストなのです。
今朝、二人の洗礼受洗者が与えられ、神様に永遠に結び付き、神様の救いに与った神の家族が、ここで新たに2名加えられたということは、本当に素晴らしいことですし、これは、クリスマスに本当に相応しいことです。なぜなら、単に神様の方向を向いて、その列に加わって並ぶだけでなくて、この聖霊による洗礼という、このゴールであり、罪の赦しの実りであり、言わば命の豚まんを、私たちに得させてくださるために、神の子イエス・キリストは、クリスマスに地上に降り立ってくださったからです。
厳しく孤独な荒れ野に立ったヨハネのようではなく、ヨルダン川の水源であるガリラヤ湖畔の豊かな牧草地から出て来られた主イエスが洗礼を受けられた時、その時に、本当に、私たち皆が待っていたものが、カラカラに渇いている私たち皆が、心の底から欲しているものが、潤いが、力が、そして孤独の真反対にある、神と人とのインマヌエルが、洗礼の瞬間に確かに実現したと、今朝の聖書に書かれています。
9節~11節をお読みいたします。「1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」
聖霊を受けて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、天からの、神様の声を聞くこと。これが、私たちのあらゆる渇きを満たし潤すことのできる、また私たちが抱えるあらゆる罪と、そこから来る罪悪感と、こんなことをしてしまう自分は、もう生きていてはいけないのではないか、生きている資格がないのではないか、自分が恥ずかしい、もう消えてしまいたい、そういう思い、焦燥感、明日を迎えたくないと思うような絶望、苦しさ、心のズキズキとした痛み。これを全部かき消して、柔らかな希望に変える力があるのが、この「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という呼びかけを、洗礼を受けることを通して、天の神様から聞くことなのです。
「あなたは素晴らしい。あなたはわたしの愛する子どもだ。今のあなたの全て、そのあなたそのものが、わたしの心に適うのだ。あなたはダメではない。悪くはない。居ない方が良い人間なのでは決してない。なぜならあなたは、わたしの霊を受けた、わたしが愛する。わたしの大事な子なのだから。」
今日の洗礼式を通して、この場所でも今天が開き、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、この天からの声が、永遠に消えない約束として、今朝新しく二人に与えられました。私たちはそれを見て、またその神の声を、御言葉を通して共に聞きました。この癒しの言葉は、同じように、私たち一人一人それぞれにも、天から与えられています。その中を、私たちは今年一年も生きてきましたし、この神様の愛の声の中で、来年も共に歩むのです。