2023年1月1日 ペトロの手紙二1章1~11節 「忘れてはならないこと」
改めまして、新年無事に明けまして、おめでとう、ありがとうございます。ちょうど元旦が日曜日になり、本当にこの礼拝をもって新しい2023年を始めることが許されていますことを、心より感謝いたします。
今朝よりペトロの手紙二の御言葉に入りますが、ペトロの手紙二がペトロの手紙一と違いは、この手紙が、教会内部の問題を扱うという点です。ペトロの手紙一の方には、具体的にはキリスト教への弾圧・迫害教会の外側の問題に対する向き合い方が語られていました。そしてペトロの手紙二が扱うのは、偽物の教師の存在であり、邪説を唱える異端との闘いを主とした、教会内の問題です。ですから私たちは、このペトロの手紙二を通して、この教会内部の問題と、同時に、私たち一人一人の内側にある問題についても深く考えて、問題を外部化せずに、反省と悔い改めへと導かれて、自分自身を正されたいと思います。そのように、ここに書かれていることを自分自身の問題として内面で受け止めていくということが、ペトロの手紙二の正しい読み方だと思います。
そこで今朝、私たち自身の問題として聖書から語りかけられていることは、私たち自身のアイデンティティーの問題です。アイデンティティーの問題とは、Who I am? Who we are?私たちとは、私とは、何者であるのか?という問題です。
本当に年初に相応しい、重要な問題提起が聖書によってなされていると思います。当然のことながらそれは、自分が何者であるのか?自分を何者と見るのか?ということが、私たちの生き方と行動や考え方や、さらに発する言葉までも決定付けるからです。そういう意味では、言わば私たちの2023年を方向付ける新年の抱負がここに表されています。
皆様は今朝、新年の元旦に当たって、それぞれどのような抱負を持っておられるでしょうか?新年の抱負を考えようとする時、私たちは自然と、昨日までの去年に、できたこと、できなかったことを思い返すのではないでしょうか?そして、今年こそは何とかこれを実現するぞと思って、抱負を掲げて、カレンダーを見やりながら、新たな計画を真新しい手帳に書き込む。そういう新年の儀式のようなことを、多かれ少なかれ私たちは繰り返していると思います。
そういう私たちに、1月1日に、神様が聖書を通して伝えてくださることは、あなたは神である私にとって、特別な存在だ。だからあなたは、今年これから、スペシャルな一年を歩んでいく。あなたがどんな抱負を掲げようが、神であるわたしはあなたに対する特別な計画を既に立てていて、その計画通りにあなたを導き、素晴らしい一年を必ずあなたに与える。あなたに対してそれをするのが、神であるわたしの今年の抱負である、ということです。
つまり、今朝聖書をから私が皆様に伝えたいことは、「おめでとうございます!あなたは神様に、特別な素晴らしい存在として選ばれました。だからこのことを、少なくともこれからの一年間、決して忘れないでいただきたい」ということです。
もう結論は申し上げてしまいました。ではそれを聖書の言葉と突き合わせて、確かめたいと思います。1節から4節を改めてお読みしたいと思います。「1:1 イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。1:2 神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。1:4 この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」
あなたは丸腰ではない、独りではないということです。詩編139編にも、他ならない、そんなあなたのことが記されていました。もう一度全部読みたいぐらいですが、先ほどの詩編139編1節から5節と、13節から16節をお読みします。「139:1 主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。139:5 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。139:15 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。」
どうでしょうか?この神様ですから、今年のあなたの歩みの全ても、神様には知られています。そして神様は、それを知ったうえで、そのあなたの2023年に、あなたを送り出し、生かしてくださいます。
神様が皆様を選んで、神様の立ててくださっている計画に従って導いてくださる時の、忘れられてはならない持ち物は、ペトロの手紙二1章3節に「1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」とありましたように、命と信心です。信心と訳されている言葉は、神様への認識という言葉です。そしてペトロの手紙は、これを信仰と呼んでいます。1節にも、「わたしたちと同じ尊い信仰」という言葉が出てきます。私たちのアイデンティティーの土台は、信仰です。同じ尊い信仰を私たちは互いに神様から与えられていますので、今朝もこうして一緒に礼拝ができる。ここに集まれる。一つの教会となれるのです。逆に言えば、共通した同じ信仰以外に、私たちの互いの心を通わせて、結び付けているものはありません。でも信仰があれば、単なる仲良しとか、神戸市民同士ということを超えた、世界を跨いだ、また歴史を跨いで2000年前のペトロともつながることができ、神様とも結び合える、共通の土台を得ることができるのです。
5節から7節には、今朝の御言葉の中で一つ目の命令形が語られています。それは加えなさい。という命令形の言葉です。5節から7節「1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
私たちが今年するべきことは、神様に向き合い、神様を認識するという信仰を何よりの土台として、その信仰の上に、さらにそこからこそ出る良きものをプラスしていくということです。信仰抜きの、神様との関係を抜きにしたところでの徳も、自制も、知識も愛も、それはありませんので、やっぱり信仰というものを、私たちは失ってしまってはいけませんし、ないがしろにしてしまってもいけませんし、むしろ自分の内に与えられている信仰を大切にし、よりそこを磨いて、そこから、醸し出されてくる徳や自制や忍耐や愛を加えて、自分の内面の問題解決のために、あるいは自分の退廃、怠惰、自制や愛とは逆に進んでしまう部分に、本当に自分自身の問題として、ストップをかけなければならないと言えます。
そのことが、続く8節から10節に言われています。「1:8
これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。1:9 これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。1:10 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。」
忘れてはならないことが、10節にはっきり語られています。だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。
自分が神様に召されている、呼び出されている、そして選ばれているということを確かに知るということは、人生においてのとても大きな力です。それは船に付いている錨のような大きなもので、それによって私たちの人生は、容易にはぐらつかなくなりますし、波に流されさらわれなくなります。
逆に自分が神様に召し出されていない、選ばれていないということになってしまったら、それはものすごく孤独で、自分に自信が持てなくなることで、その場合には神様の後ろ盾に代わる何かで、自分を支える必要が必ず出てきます。お金とか地位とか外見とか、そういう自分に自信と力を与えてくれるようなもので武装を固めなければ、とても安心して生きて行けません。
けれども、神様に選ばれているということは、神様が私の人生に、私の生まれる前から死んだ後に至るまで、全面的に関与して、目と留めてくださっていて、責任を持ってくださっているということですので、それはとても心強いのです。
この1章の少し先に進んだところの17節に、先週のクリスマスに、マルコによる福音書1章から読んだ御言葉が出てきています。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」主イエスの洗礼の時に天の神様から届いたこの声を、ペトロも目撃者のような立場で知っていたのです。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」「あなたは特別だ。あなたは大丈夫だ。本当にあなたを愛しているよ。」という、まさしく私たちの人生に対する神様からの太鼓判です。
この選びをますます確かなものにし、忘れないために、私たちは今年も日曜日にはここに来て、あなたはわたしが選んだ、わたしの愛する子だ!という天の神様の声をしっかり聞くのです。
ゴールも11節の言葉にはっきりあります。「1:11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」
私たちが新年の抱負を掲げる時には、それはいわゆる努力目標ということですから、その計画の実現に向けて自分で努力して、それで今年を作っていかなければなりません。そこには、大変さがあり、去年もそうだったように、どうしてもやり残してしまうことも出てきますし、後悔や、計画通りに行かない挫折も伴います。しかし、この神様の計画に導かれて歩む時、苦難や、病や、たとえどんなことがあったとしても、それは挫折になりません。なぜならその時私たちは、「この道こそが、選ばれた特別な私に、特別に備えられた道ではないか!この苦難や病を味わいかつ乗り越えて生きるという人生へと、私は神様に選ばれ導かれたのではないか!」と、天を見上げながら言えるからです。信仰の道には、祝福のない道も、不当な遠回りも、行き止まりもありません。そこには、神様に選ばれ愛されているあなただからこその、それぞれにとって特別な唯一無二の、そのあなたの道しかないのです。ですからそこを進んでいくしかない。必要な命と、信心、神様について知らなければならない認識は、もう皆様お持ちです。この神様に選ばれた皆様に、尊い信仰を受けている皆様に、今年も神様からの大きな恵みと平和が、ますます豊かに与えられますように。アーメン。