2023年1月8日 ペトロの手紙二1章12~15節 「人生は仮の宿」
私たちは、年末年始という、ある特別な時間を過ごしました。時と永遠について語る、有名なコヘレトの言葉の3章を今朝の旧約聖書では朗読しましたが、時間の流れは不可逆的で、私たちそれを、止めることも、遅らせることも、早めることも全くできないということを、私たちは年末年始に、味わわせられます。普段は、カレンダーをチェックしたり時計を見やったりしながら、私たちの方が時間を管理し、制御しているような気になっていますが、年末年始には、もう少し待ってくれといくら言っても、そうやって時の流れにどんなに抗おうとしても、否応なしに年は暮れてしまい、もう2023年も二週目の1月8日まで来てしまいました。
「人生は仮の宿」という今朝の説教題は、今朝のペトロの手紙二のみ言葉に、出てくる言葉です。仮の宿と訳されている言葉は、仮設テント、仮設の仮の住宅、という言葉です。そしてペトロは、この私たちの体を仮設テントと呼び、この地上の人生を仮の宿と呼びますが、そこには二つの意味が込められています。
一つ目の意味は、先程の年末年始の話を通して、過ぎ去って行ってしまった2022年と、この一週間の時の流れを皆で感じたと思いますが、そこにも見出すことのできる、人生のはかなさという意味です。仮の宿は仮の宿ですので、仮の、一時的な宿に過ぎないのです。
仮の宿という時に思い出すことがあります。それは、神学校を卒業して仙台に赴任した当初、仙台カナン教会がちょうどまだ会堂建築中で、古い四畳二間のアパートを間借りして、そこに最初の二か月間滞在していた時のことです。家具も食器もなく、二つあるうちの一部屋はまだ開封できない段ボールで埋まっている、ちゃぶ台一つの、本当の意味での仮住まいでした。真夏でしたが当然クーラーもなく、居心地が良いとはちょっと言えない、ゆっくり落ち着いてそこに留まることがなかなか難しいような仮住まいでした。しかしペトロに言わせれば、それがこの人生だということであり、その不便さが、自分のこの体なのだ、ということです。誰の体も必ず、その老朽化したアパートのように古くなって、朽ち果てていき、時の流れには抗えませんし、それ故に私たちは、この人生の中で、この肉体という仮の宿で、永遠にそこにいて、落ち着いてずっとそこに腰を据えるということは、実際にできません。やはり、この地上の人生も、この肉体も、決して悪いものではないのですけれども、永遠にずっとということには耐えられませんし、その強さ、その力が、この体らとこの人生には、残念ながら、備わっていないのです。
けれども、「人生は仮の宿」という言葉に、ペトロはもう一つの意味も込めています。それは、仮の宿の先には、本宿が待っているという希望です。この儚い人生、時の流れは待ってはくれませんので、先の希望なしで、この過ぎていき、朽ちていく人生とこの体に、この仮の宿しか見ずに、これだけにすがって取り付いているのみでは、とても辛いことになってしまいます。しかしながら、実に二か月のアパート暮らしの先には、逆に広すぎて困るぐらいの、木の匂いのする、真新しい新築の教会が待っていました。その希望があるから、多少居心地が悪くても、それには全然耐えられる。この今の間にも、真新しい教会が、完成に向かって着々と出来上がりつつあるということを知っていましたので、むしろアパート暮らしの二か月を、私は、楽しく味のある日々として味わうことが許されました。
筋ジストロフィーという難病を患っておられて、残念ながらその病気に対する医療の問題で福岡に転居されて転会なさる保田広輝さんは、いつも私に、希望の大切さと、希望が持つ力を教えてくださる方ですので、これからも私は彼に学んでいきたいと願っているのですが、彼は、「今のこの人生は、やがて来る天国での神様との人生の、予行演習のようなものだ。」と言って、病気にも自分の人生にもしっかりと向き合って、力強く生きておられます。希望は、どんな人生であっても、それを明るい光で照らして、明るい色に塗り替えることができるのです。
ある説教者が、このペトロの手紙二のことを、「心を奮い立たせる手紙」と呼びました。それは、今朝の13節の御言葉を受けてのことです。13節にはこうありました。「1:13 わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。」奮起させると訳されている言葉は、覚醒させるという言葉であり、stir upという、かき混ぜるという意味の言葉でもあります。湯呑をかき混ぜて、下に沈殿しているお茶の葉をバアっと上に巻き上がらせるように、ペトロの手紙二は、私たちの下に沈んで沈殿している心を、奮い立たせる手紙なのだそうです。だとするならば、私たちのこの心は、どうやれば、湧き上がるように奮い立つのでしょうか?ペトロが、あなた方を奮い立たせるべきだと言い、また今朝の最後の15節でも、「これらのことを絶えず思い出してもらうように」と言っていますが、この思い出してという言葉も、これは特別な言葉で、これは、あることを心の支えとして、心の力として、記憶に留めるという言葉です。では何を記憶に留めたら、心は奮い立つのでしょうか?
先週、年末年始のスケジュールの隙間を縫って、横浜に帰省して、3年半振りに両親や妹家族と会ってきたのですが、やはりそこで大事なことだと改めて感じたことは、実際に人に会うということ、顔と顔を合わせるということでした。
ペトロは今朝の御言葉で、思い出せ、思い出せ、思い出せと三度も語っていますけれども、決して、ただ過去のことを思い出したからといって、それほど心は奮い立つようなものではないと思います。ただの思い出を思い出すだけでは弱くて、やはり、顔と顔を合わせた人格と人格の出会いこそが、心を熱くさせ、心を奮い立たせるのだと思います。
そして、思い出せ思い出せと語りながらも、この時ペトロの頭の中にあったもの、ペトロがこの時見ていたものは、単なる遠い過去の思い出ではなくして、昔も今も生きておられて、将来に至るまで永遠に生きておられる主イエス・キリストでした。
地上の人生は仮の宿と豪語するペトロが見ていた本宿とは果たして何か?そこには何があり、そこには誰がいるのか?それが、それは先週の1章11節の御言葉にはっきり語られていました。「こうして、私たちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」
これは単なる過去の思い出ではなく、本宿は、この人生という仮の宿の先に、そしてそこには、ただの永遠に崩れない、永遠に腰を据えて、荷物をほどいて落ち着ける本宿である、永遠の御国という建屋だけがあるのではなくて、そこには救い主イエス・キリストというお方が、生きて、しっかりとした人格として、存在としておいでになって、先週の言葉で言えば、私たちをその御許に招いてくださり、選んでくださっている主イエス・キリストが、天で私たちを待っていてくださるのです。
そしてペトロの頭の中からは、この、十字架の死から復活し、今も生きておられて、天の御国におられる主イエス・キリストの姿が、これは一瞬たりとも消えることがなかったのです。だからこそペトロは12節でこう言うのです。「1:12 従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。」ペトロが思い出させたいことは、忘れないでいさせたいことは、心震えないような遠い過去の淡い思い出とか、そういうものでは全くなくて、この主イエス・キリストとの、人対人の、人格的な、Zoomやオンラインを超えた、出会いなのです。そして、人格的で手ごたえのある出会いによってこそ、この心は、奮い立つ、立ち上がるのです。
主イエスに「あなたは人間をとる漁師になる」と声をかけられて主イエスの弟子になったペトロは、3年間もの間、主イエスと寝食を共にしました。色々なことがありました。特にペトロはたくさんの失敗をしました。主イエスが十字架にかかる直前、主イエスをその十字架から救うこともできたかもしれない程に、その近くにいたペトロでしたが、しかし彼は主イエスのことを知らないと三度も言い張り、主イエスを助けるどころか裏切って、主イエスの処刑の十字架の現場から逃げ帰ってしまいました。
主イエスは、ペトロが三度裏切る前夜に、彼に語ってくださいました。ルカによる福音書22章31~32節のみ言葉です。「22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」」
主イエスは、ペトロがサタンの誘惑に負けて裏切る前提で、たとえ裏切ったとしても、わたしはあなたの信仰がなくならないように祈ったと。そしてペトロが失敗しても、そのあとあなたはまた立ち直るだろうと。だから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい、と語ってくださり、そして、本当にそのままその言葉の通りになりました。そしてペトロの耳には、この主イエスの肉声が、生涯ずっと、このペトロの手紙二を書いているときもずっと、耳から離れない言葉として、ペトロの中にこだまし続けていたのだろうと思います。ペトロは失敗しましたが立ち直って、そして主イエスと同じをように、自分の後に続く教会の人々を、奮起させて、その身をもって、身を挺して、力づけているのです。
ペトロは、もう自分の先が長くないことを、この仮の宿を離れる時が来ることを自覚していますし、この手紙が書く教会に送られて回覧される頃には、ペトロはすでに迫害によって殺されてしまっていたと考えられます。しかしペトロのこの筆跡に悲壮感は感じられず、むしろペトロは明るく語るのです。なぜならペトロは今や、主イエス・キリストが示してくださった天の本宿への道筋をしっかりと受け取って、その本宿の真ん中にいて、続く者たちが天の本宿にチェックインしてくるのを待っているのです。
人生は仮の宿、本番前の予行演習。やがて来る素晴らしい恵みを受け取るための準備期間であり、主イエス・キリストに顔と顔を合わせて出会う前の、結婚式の祝福と恵みを夢見て期待して待つための、言わば婚約期間です。確かに儚い人生、人それぞによって内容も長さも違う、千差万別の人生ですけれども、儚くて小さくてだから無駄だということではなくて、この私たちの人生から、そして、この私たちの仮小屋のようなどんなに貧しい人生からでも、しかし、永遠に至る救いの花が咲く。主イエス・キリストが、すべての皆様の人生に、必ず、決してしぼまない素晴らしい花を添えてくださいます。さらに私たちは、この人生で、キリストによって添えられた花を、ペトロがしたように、さらに多くの、次の時代に生まれる人々の人生へと、配り手渡すこともできるのです。さらに、そういう私たちが集い集まる、この地上にあって、天の本宿に限りなく近い、本宿のような仮宿が、この板宿教会なのです。