2023115日 ペトロの手紙二11621節 「明けの明星はここに」

 ペトロの手紙は、キリスト者に対する迫害という状況下で書かれました。また、既に申しましたが、ペトロの手紙Ⅱは、教会外ではなく、教会内部の問題について語りますので、その意味でこの手紙は、私たち信仰者の内面の問題に光を当てます。そして、迫害下にある信仰者が、その内面において最も陥ってしまいやすい問題とは、もう駄目だと諦めてしまうことです。信仰なんて持っていても無駄だ、迫害されるなら、こんな信仰、こんな神様なんか捨ててしまおう。ここには希望なんてないと絶望してしまう、そういう困難がそこには生じます。

 そしてこの問題は、私たちが現在置かれている状況においても、時代と状況が違うからということで、簡単に退けることができるような問題ではなく、とても現代的な問題です。日本にはキリストを信仰したら殺されてしまうというほどの迫害は、かつてはありましたが今はないわけですが、しかし社会的少数者である信仰者に対する無視、無関心、冷ややかさは存在しますし、コロナウィルス禍という、大きな挫折を私たちは味わいました。この私たちの間でも、諦め、神様と、神様への信仰の放棄、希望への諦め、信仰的無力感と疲れという問題は、常に付いてまわる問題です。確かに、信仰をもって歩んでいたって、それだけでは食えませんし、感染もしてしまいますし、それで免疫力が増すわけでも、それが成功者への道だというわけでもありません。こういう時代の中でわざわざ信仰者になって、キリストを信じ、キリストに従って生きるということは、はたから見れば、一つのリスクであり、一つの面倒を抱え込むということなのかもしれません。そうであれば尚更、今のこの私たちは、信仰を捨てたり、神様を見限ってしまったり、神様から、教会から距離を置いてしまったり、というような、内面的な問題に、ペトロの時代に負けず劣らず直面していると言えると思います。本当に、今のこの世の中で、この世の中の趨勢に抗って信仰を持って生きるということは、それはある意味、激しい戦いです。先月のクリスマスに洗礼の恵みを受けた方がおられ、そこでは、生涯この神様に信じて付き従いますという誓約が為されたのですが、その誓約をした本人も、またそれを目撃した私たちも、この先本当にあなたはこの信仰を失わないのか?と問われたら、私たちも人間ですから、このような弱いそれぞれですから、はい。絶対に失いませんとは言い切れず、ちょっと口ごもってしまう頼りなさ、不安感が、実際にあるわけです。

 しかしこのペトロは、こういう私たちが抱えている信仰的な困難に、深く共感することのできる人物なのだと思います。そして、このペトロは、決して上から目線でではなく、自分もその困難の只中に立つ者として、それは本当に骨の折れる大変なことだけれども、あなたは希望を捨ててくれるな!信仰を捨てるな!神様を諦めるな!そして、教会を諦めて、見限ってしまうな!と、これはもう、ほとんど涙目になるようにしながら、今朝の御言葉で、私たちに本当に強く熱心に訴えてくれています。ですから今朝も、私たちは努めて真っすぐに、このペトロの言葉を御一緒に受け止めたいと思います。

 

 まずペトロは、私たちの信仰と希望を根元からへし折ってくるような敵として、「巧みな作り話」という言葉を語っています。そしてこの、巧みな作り話という言葉は、寓話とも訳せる言葉です。そして寓話とは、ウサギと亀が競争したり、アリとキリギリスの勤勉さ比べなどを描く、イソップ物語のような、つまり、およそ現実ではない、教訓的な話を意味します。

 信仰を諦めさせ、神様への信頼を無駄なものと思わせ、そこからくる希望を失わせるのは、主イエス・キリストの存在と、その具体的な救いの御業を、おとぎ話のような寓話に仕立てて、現実のことと見ないという考え方から来るのです。そしてペトロは、そういう寓話に真っ向から反対して、「これは作り話だなんてとんでもない、私は主イエス・キリストをこの目で見たのだ!主イエス・キリストが神の子であるとの父なる神の言葉を、この耳で聞いたのだ!だから、その主イエス・キリストのリアリティーについては、だから絶対に疑う余地はないのだ!」と、寓話を全否定します。1618節を改めてお読みいたします。1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。1:17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。1:18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」

 16節に、「来臨」という言葉があります。これはパルーシアというギリシャ語で、将来、罪と死が滅ぼされて世界が完成される終末の時に、主イエスがあのクリスマスの時のように、天からまたこの地上に来られる再臨を意味しています。そしてペトロは、マタイによる福音書で言えば、17章に書かれています、主イエスの山の上での変貌の場面で、自分が実際に見聞きしたことを振り返って、主イエスは、神様から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という、神の御子としての太鼓判を受けたのだ。だから、当然のこととして、主の日には、終わりの日には、あの主イエス・キリストが再び来臨されるのだ。そこには一切の寓話的要素はないし、「もし信じて待っていても、結局キリストは来ないかもしれない。だから神を信じてそこに希望を置くことは、もしかしたら無駄骨になるかもしれない」という、そういう懸念や不安は一切ありえないと、ペトロは声を大にして訴えます。

 そしてペトロは、さらにもう一歩進んで語ります。それが、今朝の御言葉の中心となっている19節です。1:19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」

 この19節について、翻訳が不十分だと思いますので訳し直したいと思うのですが、より正確には、19節はこうなると思います。「また私たちは、より一層の完璧な信頼に値する預言の言葉をもっています。だから、絶対にその言葉に注意を払うべきです。暗い所に輝く光、そして、あなたの心の中に明けの明星として。」

 ペトロは、自分自身の目撃証言よりも、より一層の完璧な信頼に値するものとして、聖書の御言葉を、あなたたち教会は持っていますよね、と言います。だからこそ、絶対にその言葉に注意を払うべきだと言います。なぜなら、その聖書の御言葉が、暗い所に輝く光に、そして、あなたの心の中の明けの明星になるのだから、と語りました。

 この明けの明星と訳されている言葉は、聖書の中にもここに一度しか出てこない特別なギリシャ語です。暗い所に輝くともし火、光、という言葉もそこに並んで付されていますが、明けの明星とはまさに、暗い所に輝く、朝の一番明るい一番星です。初日の出を見る時のように、太陽が出てきてぱあッと空全体が明るくなるのとは違います。明けの明星が輝くとき、空はまだ真っ暗で、太陽は昇ってきていないのです。しかしその状態で、空高い所に輝く一つの星だけが、地球の裏側にある太陽の光を先んじて受けて、一つだけ高く明るく輝いている。そして煌々と輝くその明けの明星は、暗闇の中にありながらも、夜明けがすぐそこまで近づいて来ているという希望を、確かに指し示すのです。明けの明星という言葉の、もともとの意味は、光を運んでくる者という意味で、それは山中湖にトーチベアラーズという、その名前の付いたクリスチャン向けの宿泊施設がありますが、トーチ・ベアラー、松明を持つ者という意味も持ち、さらにはその言葉はそこから、文明の先駆者という意味をも持つようになりました。そして、その文明の先駆者、光を運ぶ者とは誰のことを指すのかというと、ヨハネの黙示録の2216節では、そこに出てくる主イエス自らの言葉として、22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」と語られていますように、もちろんこれは主イエス・キリストのことを指します。

 

 かつてペトロは、ペトロの手紙一の18節で、1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」と、キリストを見たことがないのに愛し信じ、喜んでいる信仰者をたたえる言葉を残していますが、主イエス・キリストを目撃していなくても、あなた方には、私の目撃証言よりも、もっと信頼に値する主の御言葉がある。その御言葉によって、あなたがたの心にも、主イエス・キリストという明けの明星が昇り、あなた方は今見なくても、キリストを信じて、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れることができる。すなわち、目で目撃しなくても、それよりももっと強く確実に、あなたはその心で、イエス・キリストという明けの明星を目撃できると、ペトロは訴えているのです。信仰とは、目に見えないものを、目に見えるものを超えて、確実視することです。心で、キリストの光を目撃し、その言葉を聞くことです。

 

 そしてその、主イエス・キリストのことが実際に目撃するよりもよく見えて、その言葉がこの耳で聞くよりも、御言葉によってよく聞こえるという状態だけが、神様を見失い希望をなくすということから、私たちを守るのです。

 そしてここには、本当に二つに一つしかない分かれ道があります。今朝の最後の2021節には、大事な事柄として、以下のように付け加えて語られています。20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」

聖書の御言葉は神の聖霊に導かれた預言者たちによって語られたものであり、それは人間の意志ではなく、神の意思に基づいていると語られています。よって、その聖書の御言葉に沿って歩まない道には、神様の道とは反対の人間の道があり、そこには巧みな作り話に過ぎない自分勝手な聖書の解釈があり、神様の御心に適うよりも、反対に人間に取り入り、人間の心に適う道を生きるということが、そこから起こってしまうということです。旧統一協会も、原理公論という、聖書に似たものですけれども、しかし全く違う、まさに作り話と人間による全くの自分勝手な聖書の解釈に基づいた本を経典とすることによって、キリスト教とは全く似て非なるおぞましいものに行き着きました。そして本当にこれは、私たちキリスト教会にとっても気を付けなければならない事柄です。こういう腐敗は、聖書に逸れるというところから始まる。本当に二つに一つしかありません。聖書を本当に重んじ、そこに証しされている主イエス・キリストという、明けの明星を目撃し、その方との具体的な出会いをこの心に信仰によって引き起こして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の神様からの愛の言葉をしっかりと受け取れるように読むか、それとも、反対に人為的に恣意的に、神の心ではなく人の心に適う仕方で自分勝手に解釈して、挙句、主イエス・キリストという一番大事な方が分からなくなり、希望から逸れて、明けの明星の光を見失うか、実にこれは二つに一つの道です。

 ですから私たちは、今年も、これからもずっと、ペトロの時代と同じく、まだキリストは再臨されていませんし、依然としてあたりは暗いのですけれども、キリストの家であり、キリストの体である教会で、暗闇の中に輝く、主イエス・キリストという明けの明星を、毎週目撃し続けたいと思います。そして神様から主イエスが受けた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を、私たちも毎週受け続けたいと思います。そしてそういう私たちが、そういうこの教会が、この世の中を照らす小さな光となり、トーチベアラーズ、松明の光を携えて、イエス・キリストにこそ希望があるということを示す、先駆者たちになるのです。