2023年1月22日 ペトロの手紙二2章1~9節 「最大の嘘」
ちょうど三年前の一月下旬に、ダイヤモンドプリンセス号に、日本人最初のコロナ感染者が出て、早三年が経ちました。この三年間を振り返るときに思うのは、コロナウィルス禍によって、私自身も教会も、この教派も、大きく信仰的な揺さ振りを受けたということです。教会も、そして自分も、コロナウィルスなど恐れるに足りないと思う時と、とても怖く不安だという時とがあり、コロナウィルスという目に見えないものに対する認識が、そのように大きくいったり来たりしました。認識という言葉が、先日のペトロの手紙二の1章にも出てきましたが、認識とは大切なもので、私たちの認識の在り方が、私たちの生き方や行動を決定付けます。そして、この三年間は、私たちはウィルスに対する認識如何によって、自分の行動と、また教会、教派の活動が大きく左右されるということを経験しましたので、改めて反省させられています。
そしてコロナウィルスに大きく左右されてきたということは、コロナウィルスのことをいつも念頭に置いて、ウィルスに向き合って生きてきたということになります。ですからそういう私は、果たして信仰的に健全だったのかなと、本来、主なる神にこそ左右されて、神様にこそ向き合って生きるべき私は、果たして本当にそう歩めていたのかと、改めて、あるべき仕方でそうできていなかった時のことを、今思い出しています。
輝く明けの明星という言葉が先週語られました。そして、主イエス・キリストという、暗闇の中に光る明けの明星をしっかりと見届けるためには、聖書にしっかりと立つ他なく、聖書から逸れるということは、神様とは反対の、人間的な自分勝手さに落ち込んでしまうことだと学びました。
そして、今朝の御言葉でもペトロは、そのことをまた一段と深く語り込んでいきます。そしてその目的は、輝く明けの明星を私たちに見せるため。あなた方は神に呼び掛けられて召し出され、選ばれたのだと、この私たちに語ってくれるペトロが、その私たちとこの教会を、明けの明星主イエス・キリストに、しっかりと、揺るがないように深く、つなぎとめるためです。
そしてペトロは、神様から私たちを逸らさせる、その恐ろしい元凶として、異端の存在を取り挙げています。この手紙の執筆年代については諸説ありますが、この手紙をペトロが死の直前に残した遺言と取るならば、その時には、今私たち難なく読んで、キリストについて知ることのできる福音書が、まだまとめられていませんでした。パウロやペトロは何とか存命中で、特にパウロは様々な手紙を書き残してそれが回覧されていたと思いますが、福音書がちゃんとまとめられる前の時代ということであったならば、巧みな作り話という言葉も先週出てきましたが、主イエス・キリストの生涯とその十字架と復活についての、確かで客観的な記録と証拠が、どうしても弱い状態でした。ましてや、私たちが今手に持っているような新旧約聖書が合本されて一冊の本になって皆の手元にあるという状態は望めませんので、聖書に立脚し、それを自分勝手に解釈せずに聖霊の導きの下に書かれた言葉として理解する、と言っても、私たちがここでしているようにはとてもいきませんので、もし悪意あるリーダーが、偽預言者というかたちで表れて教会を自分勝手に神を語るなら、一気に、ひとたまりもないかたちで皆の信仰が崩れてしまう。そういう危機的な状況がここにはありました。さらに外部からは、キリスト教背教の迫害が教会を襲っている。その嵐と闇の只中で、しかしだからこそ、ペトロは輝く明けの明星イエス・キリストを、しっかりと皆の心に昇らせるために、絶筆となったこの手紙に魂を込めて、諸教会に送ったのです。
そこでペトロは、偽教師に教会が惑わされてしまわないように、彼ら偽物の教師たちとは、どういう性質と性格を持つ者たちで、何を企んでいるのかということを、偽者に直面した教会がすぐにその嘘を見破ることができるように、非常に事細かに書き連ねてくれているのですが、今朝の1節に、偽預言者たちが語る最大の嘘であり、人々を滅びに落とす最大の欺瞞が、言い表されています。
今朝の1節を改めてお読みいたします。「2:1 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、」とあります。
ここに、「自分たちを贖ってくだった主を拒否しました」という言葉があります。ここで使われている主という言葉は、主イエス・キリストと言う時のLordという言葉ではなく、デスポテースという、そのままの言葉が英語にもなっていますが、絶対君主とか、支配者、所有者という言葉です。そして贖うと訳されている言葉も、これは意図を汲んで訳された意訳で、もともとは、スーパーマーケットで物を買う時の、ただ、「何かを買う」という言葉です。そしてペトロは、この「絶対的所有者に自分たちが買い取られた」ということを拒否し、否定するということこそが、異端者の決定的な欺瞞なのだと断じています。
このことは、人間の深い自己認識に関わる事柄です。その認識とは、この自分は誰のものなのかという問題です。そしてペトロはここについて、あなたがたは、神に買い取られた、神に所有された者たちなのだと訴えるわけです。自分は自分自身のものではなく、神のものなのだ、これが、異端者ではない者の自己認識である。しかし異端者は、これにYESと言わずに拒否するのです。自分は神の所有物ではないと考えること、それは神との断絶を意味します。
そしてこの自己認識の相違は、そのまま生き方の違いになって現れます。自分が神様に買い取られたということを否定するなら、その人はどう生きるのでしょうか?その人は、例えばこう思うわけです。「自分のこの命は自分のものだ、自分の人生は自分のものだ。だから私は、自分の幸せの最大化のために、自分のやりたいことのために、自分のために生きるのだ。」そう言って、その人は、自分自身の自己実現のために、自分のためにこの命を生きる。この自分は自分自身のものだから、自分の勝手に、自分のやりたいようにこの命を使って、それで何か悪いことでもありますか?とうそぶく。これは極めて現代的な問題でもあると思います。
ある説教者は、この部分の解説で、こう語っています。「私たちは、神の御前に謙遜な生き方をしているでしょうか。私たちの心から謙遜が退くとき、私たちはあまりにも安易に、自分の知恵に頼り、自分の経験則に従って判断するようになります。そして、福音が何を語っているのかより、福音に何を語ってもらいたいかを考えるようになる。主なる神がどのようなお方であられるのかよりも、私にとって神はどのようなお方であってほしいかを語るようになる。そのようにして、ひそかに教会に異端が持ち込まれ、自分たちを買い取ってくださった主を否定することさえしてしまうのです。」遠藤勝信『ペトロの手紙第二に聴く:真理に堅く立って』(いのちのことば社、2018年)、104~105頁。
けれども、この自分が全能なる神に買い取られた自分であり、この命も、罪と死の滅びに閉じ込められたところから、主イエス・キリストが十字架で捧げられた命によって買い戻されて、滅びの中から解放されたということを知り、受け止める人は、神のために生きるのです。
主イエス・キリストに出会った人々は皆、パウロも、このぺトロも、他の弟子たちも、自分のことを主の僕と、自分は天のあるじの奴隷であると、彼らは心から喜んで叫ぶことができました。私たちを買い取り、僕として従わせてくださる神様は、荒々しい暴君ではなくて、御子主イエス・キリストの命さえ、惜しまずに与えてくださる愛の神です。この神様は、私たちが自分で自分を愛し、自分で自分を大事にする以上に強く、私たちを愛し、大切にしてくださる愛の神です。ですから、自分のために生きるよりも、神様のために生きる方が、実はずっと安全ですし、神様と愛を通い合わせる喜びがそこには大きくありますし、それこそが何よりも、最も良いかたちで、自分自身のためになる、自分を大切にできる生き方なのです。
ペトロは4節以下で、偽預言者たちに導かれて、神様から逸れていくその先には、滅びが待っているということを、三つの例を用いて語っています。最初の例は、罪を犯すならば天使でさえも容赦を受けないということ。二つ目の例では、ノアの箱舟の出来事を通して、神様に全く目を向けずに生きた人々は、水に沈められたこと。そして三つ目には、ちょうどいま水曜礼拝で扱っている、ソドムとゴモラの裁きが語られています。
それぞれ恐ろしい罪の末路が語られていて、偽預言者がどれだけ致命的なことをしているかという、その存在に対するペトロ自身の怒りも垣間見える程の言葉だと思います。しかし私たちは、聖書の読み方として、この問題を自分の外に外部化してしまってはいけないと思います。なぜなら、コロナウィルスのことでもそうでしたが、目に見える、切実な危険が迫って恐怖に囚われてしまったり、周りを見下げて自分を高く上げて傲慢になってしまうと、私たちは途端に、目に見えない神様のことを二の次にしたり、神様あっての自分ということをスコーンと忘れてしまうからです。ペトロの偽預言者批判が心に刺さるのは、この心にも偽預言者の病原菌は住んでいるからです。そして、それは私たちが神様から逸れる時、速やかに発病してしまうのです。
けれどもペトロは、ここで教会とこの私たちを、その発病から守りたい、偽預言者の病原菌に集団感染してほしくないと、必死で語るのです。ですから、ノアの時にも、ソドムとゴモラの時にも、絶えずそういう、神様抜きで生きようとする人間の性分が社会を覆いつくしてしまうような、そういうことがどの時代においても、いつでも起こりうる。しかしそこで、必ず神様は、9節の始めにありますように、「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す」から、と。ペトロはこの手紙で、滅びよりも、この救いをこそ、訴えんとしています。
ノアも、自分を含めて家族8人以外は、神様のために生きる人がいないという中で、自分自身がその闇の中に輝く一筋の光、明けの明星となりました。ロトも、彼は、アブラハム程は徹底していなくて、一度はソドムとゴモラの肥沃な国土と繁栄に目がくらんで、そこに住み着くことを決めてしまったという弱さがありながらも、しかし今朝の8節が語るように、ロトは、ソドムで生活している時に、毎日そこで起こるよこしまな行為を見聞きしつつ、正しい心を痛めていた。そうやってロトは、神なき世界に彼は完全に染まり切ってしまったのはなく、心をそこで痛めていたので、正しい人、という風にペトロによって名指しされ、その町からも救われたわけです。
9節に言われているように、主は、ノアやロトのように、信仰のあつい人を、信仰に生きる人を、試練から救い出してくださいます。
ここでまた、聖書はさらっととても大切なことを語っています。つまり、試練から救い出すのであって、最初から試練に遭わせないわけではないのです。信仰があるのに、なぜ試練が来るのか?信じているのに、なぜ不幸をかこつのか?これは信仰者への神の意地悪なのか?とんでもありません。ペトロも実際に自分でそれを経験し、ペトロの手紙一の冒頭でも明確に語っていますように、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」試練が信仰を生み出す。試練こそが、信仰がそこから生まれ、救いがそこから生じる、その土壌なのです。私たちが試練によって、神様から逸れていってしまうなら、それこそここで言われている偽教師の道を行ってしまうということなのです。主は、信仰のあつい人を試練から救い出す。試練の中にいる時こそが、それが私たちが神に出会い、神様を見出すジャストタイミングな時であり、救いは、そこから始まるのだと、だから今なんだと、信仰はここからなのだと、聖書は、今朝もそれを神の言葉として、私たちに語り掛けてくれています。
板宿教会の今年の年間標語は、「祝福の源になる:召しに応えて生きる」という目標です。そしてヘブライ人への手紙3章1節の御言葉が標榜されています。そこにはこうあります。「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」
神に所有され、神に守られ、神に生かされている者として、私たちがその神様の召しに応えて生きるということは、それは、絶えず自分のことを考え続けるのではなくて、大祭司であるイエスのことを考えて生きるということです。色々な大変さがあり、ウィルスがあり、苦難があります。しかし、決して、ただ自分のために、自分を守るために、という小さな自己実現に生きることをされなかった、私たちへの愛からその生涯すべてを生きてくださったイエスのことを考えることから、自分の思いにではなく、私たちの所有者であられる神様の思いに応えて生きる道が始まるのです。