2023129日 ペトロの手紙二21022節 「常軌を逸すること」

 異端という言葉が、先週の御言葉に出てきました。そして、今朝のこの御言葉でも、その異端に対する、偽教師に対する、非常に辛辣な言葉が続きます。この御言葉を通じて、そういう者たちに対する、ペトロの怒りと、彼らをこのままにしておくことは絶対に許してはならないという強い危機感を感じます。このペトロの辛辣な言葉と怒りは何故かというと、偽教師たちのやっていることが、あまりにも神様を悲しませる、あまりにも最悪で酷いことだから。何よりもそれが、教会を破壊してしまうことがだからです。そんなことをしでかす偽教師には、是非本物の教師になっていただいて、教会を壊すのではなく、教会を建て上げる働き手になってほしい。これがペトロの、心の底からの願いだと思います。

 

 怒りという感情について、以前から考え続けていることがあります。それは、正しい怒りは、それは神様にはありますし、今朝の御言葉のように、この聖書の中では成立可能だと思いますが、しかし兎角この私自身にとっては、成立不可能だということです。私はこれまで、正しい怒りを発動させることができた試しがありません。私の怒る時、それはいつも自己中心的で見当違いなことが多いので、私は怒ることを基本的に自分に禁じています。とりわけ、教会に対して、教会に来られる方々に対しては、当然のことですけれども、私は牧師として怒りませんし、怒りを覚えたことはありません。

 けれども唯一、必要な時には、怒らなければいけない、怒らずに許しておいたらいけないと思っていることがあります。それは、同じ牧師同士、同労者の間に、教会を破壊するような異端的な教えが見いだされた時、教会に集う人々を傷つけたり、神様から離れさせるようなことが、同労者によって行われた時、そこでは全力で怒らなければならないと思っています。神学校教育に携わり、また中会大会の色々な立場に身を置きながら、今まではそこで激しく怒ることはありませんでしたが、これからはそれが必要になる場面があるかもしれないと思っています。

 そんな私ですが、今朝のこの御言葉を読んで改めて、この自分の怒りに関する考え方は、幸い聖書から大きく逸れるようなものではなかったのかなと、少し胸を撫で下ろすことができました。思えば、2年前に召された前任の牧師の山中雄一郎牧師も、そのような姿勢で歩まれていたのではなかったかと、今になって懐かしく思い返します。きっと山中先生は、教会では穏やかでとても優しい先生だったのだと思います。それは皆さまがよくご存じです。しかし大会会議での山中先生は、当時御自分から見て目上の先生に対しても、率直に、歯に衣着せぬ物言いで発言され、時に怒っておられました。それは、教会のことを、他の教師たちや、御自分自身のことに勝って、何より大切に考えておられたからでした。

 

 では、それが見えたら、本気で怒りを発動させて、それを全力で止めにいかなければならない、偽教師の口から出る異端とは何でしょうか?神を真っ向から否定するとか、三位一体論を否定するとか、自分がイエス・キリストの生まれ変わりだと主張するとか、そのような一般的な意味での、普通考えらえるようなかたちの異端のことを、このペトロは手紙で異端と呼んだのではありませんでした。しかしその異端は、ひそかに教会に持ち込まれると、先週の御言葉でも語られていました。つまり、面と向かっては、そうとは分からないのです。これはとても恐ろしいことですが、つまり偽教師たちは、とっても良い説教をするわけです。それは良い説教聞こえるのです。教理的にも間違っておらず、福音に適った教えに思えて、思わず感動して、なるほどと頷いてしまう。しかも恐らく彼らは非常に熱心で、熱意もあったと思います。では何が悪かったのかというと、先週もお話ししましたけれども、問題は彼らの中にある自己中心性です。

 今朝の10節に、「厚かましくわがままで」という言葉がありますが、わがままという言葉には、他人の喜びに無関心という意味があります。つまり彼らは、教会の良きリーダーを装いながら、根本的に、すべてのことを自分のためにやっている。そしてそれこそが、決して許しておいてはいけない、強い怒りを持って対処しなければならない、異端の中の異端なのです。そんな偽教師のことを、今朝の12節は、「理性のない動物と同じ」と表現し、14節では「強欲」という言葉が当てはめられ、そして、1516節によっては、旧約聖書の民数記に登場するバラムが例に取られて批判されています。バラムは、イスラエルの民を滅ぼそうとたくらむバラク王に、篤い待遇と礼物によって買収されて、神様の言葉を聞くことができ語ることができる預言者という立場でありながら、神様の御心に反して、イスラエルの民に対する呪いを語ろうとしました。新約聖書で、このバラムは、他にもユダの手紙やヨハネの黙示録によって、金もうけに目がくらんで、私利私欲のために神様を売った偽預言者であり悪人であったとされています。民数記ではバラムが跨っていたロバが口を開いて、自分に対して燃え上っていた神様の怒りに気づかないバラムの命を救ったというエピソードが記されていますが、今朝のペトロの手紙は、そのバラムがやったような、自分の私利私欲のために神の御心を曲げて語ろうとする偽預言者の行為を、常軌を逸した行いだと表現しています。常軌を逸したと訳されている言葉は、狂っている、発狂しているという酷い言葉ですが、こんな言葉が聖書の中で使われているのはこの部分だけです。この偽預言者に比べれば、ロバの方がまだ神様のことが分かっている。つまり自己目的で神の名を用いて語るような者は、ロバ以下であるということです。

 

 17節には、「彼らは干上がった泉、嵐に吹き払われる霧」と言われています。「風に吹き飛ばされるもみ殻」という表現が旧約聖書には何度か出てきますが、嵐に吹き払われる霧は、そのもみ殻にも及ばない、本当に実体のない、何も残らない、消え去るもの、ということだと思います。私利私欲のために神を語っても、結局彼らは自分自身にも何も残すことなく消え去っていく。それは彼らの私利私欲にさえならない不幸ですので、やめさせなければならない。その方が彼ら自身のためにも良いのです。

そして、そういう中身のない人間こそが、しかしながら、18節にありますように、無意味な大言壮語をするのです。つまり大言壮語の裏には、その言葉とは全く逆の実態があるということです。真実をついていると思います。中身のないこと、嘘いつわりを語る時こそ、人は、大口を開けて唾を飛ばしながら、大げさに大言壮語をするのです。

 しかも、さらに悪いことに、そのような偽教師は、自分が暗闇に落ち込むだけならまだよいのですが、決してそれにとどまらずに、18節後半にありますように、「迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。」つまりこれは、一度キリストに出会って救われた人のことが言われています。そういう人を、偽教師が再び迷わせると。2021節です。2:20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」一旦キリストを知った人を再び躓かせるということは、いったん教会につながった人をそこから引き離すということであり、それは教会を破壊するということです。ただでさえ、信仰を維持して教会に繋がって歩むということは大変なことです。洗礼を受けてメンバーになったからということで、それから信仰は一生自動的に安泰かというと、全くそうはいきません。様々な大波小波や激しい嵐が、絶えず吹き付けてきます。そういう中で、失敗や挫折も何度も経験します。ですからキリスト者は、その戦いに耐えるために、毎週毎日与えられる、神様からの恵みと励ましを、そして主イエス・キリストの十字架による、自分のすべての罪の赦しを、絶えず必要としています。それ故に、偽教師の語る誤った福音によっては、クリスチャンは信仰を維持できず、キリストの教会は、とたんに破壊されてしまうのです。そうさせるわけにはいかない。それを許すわけには絶対にいかない。これがペトロの思いであり、これが聖書の心です。

 

 このペトロの手紙二は、教会内部の罪を語るゆえに、ここで語られている問題を、外部化して他人に押し付けてしまってはならないと度々語ってきました。そしてこの偽教師の問題も、自分の教会の牧師がちゃんとしていればそれでいいのだと簡単に通り過ぎてしまうことのできない問題です。自分のために神様を用いること。自分の考えに他人を従わせて引き付けることが、そこから来る分派やグループ形成のようなことが、教会で神様とは無関係に行われてしまうということもよく起こります。また、自分自身が、自分に対する偽教師のように作用して、自分を神様から引き離すことも、それぞれの心の中で、現実に一度や二度どころではなく、何度も起こります。若い時の私も、19節のように、教会の外にこそ自由があると思い込んで、神様から意識的に離れて、しかしそうして行けば行くほど、自分だけの狭い視野と考え方の虜になり、神様の目よりも人の目に映る自分に囚われて、逆にどんどんと不自由になるという経験をしました。その意味では、自分自身の中に根強く住み着いている偽教師に対しても、私たちは怒りをもって、このペトロの辛辣な言葉に助けをもらって、しっかりと闘わなければならないのだと思います。

 神から離れた、神なきエゴイズム。それは深刻な罪であるどころか、今朝の御言葉によっては、それは異端であり、それこそが異端の最たるものです。それが、自分を霧のように消し去って、キリストの教会に集う神の家族を引き裂いて、教会を破壊してしまう。絶対にそうなっては駄目ですし、そうならないためには、ペトロが先週の21節でも、またこの手紙の1章で繰り返しているように、私たちは主イエス・キリストによって、神に贖われて、買い取られて、神様のものとされた私たちなのだということを、いつも思い出して、心を奮い立たせることが必要です。

私たちの自由を奪う言葉であるかのように聞こえる、モーセの十戒の一番最初の最も重要な第一戒の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに、神があってはならない。」という戒めも、実は、愛なる神様のみを私の唯一の神とすることで、私を縛る他の全てのものから、私を自由にしてくださるという、神様からの解放宣言です。この神様の前では、私たちはもう、自分の欲望と願望の成就をゴールにして、その自己実現に引きずられて生きていく必要はありませんし、人の言葉や人の圧力によって縛られて、人の顔色を窺って生きる必要も、人に負けてはいけないからと、人と張り合って生きる必要もありません。自分の価値を決めるのは、私の実力や達成感や人からの評価ではなく、私のことを、御子主イエス・キリストの命よりも大切にし、愛してくださる、今私たちが向き合っている神様です。私たちは、この神様にだけ縛られて、この神様のために生きる時にこそ、常軌を逸するような異端とは逆の、本当に自由な私たちになるのです。