202325日 ペトロの手紙二3章1~13節 「時代を作る」

 今は一年で一番寒い時期です。コロナもインフルエンザも流行していて、今日も多くの方々が感染したり、まだ治り切っていなかったり、濃厚接触者になられたりして、ここに来ることができない状況です。感染症だけでなく、今朝も、私たちの愛する多くの兄弟姉妹が、病を背負って歩んでおられます。そうでなくてもこの寒さはこたえますから、高齢の方々には今は特に厳しい季節です。精神的にも特に今の時期から春にかけて、振り払いたくても振り払えない重い心を抱えて過ごしておられる、多くの方々がおられます。クリスマスのような時期は、なんとか良いのですけれども、信仰的なスランプはこういう時期にやってきます。本当に大変で、消耗の激しい中を歩まれているそれぞれが、今朝、しかし何とか、やっとの思いで教会に辿り着いて来てくださり、共に一つの心で神様に礼拝を捧げることができますことに、心から感謝いたします。一緒に御言葉を読んで、聖餐式にあずかって、神様からの力と励ましをいただきましょう。それなしには、私たちは生きられませんし、それ抜きで生きるには、この世の生涯は過酷過ぎます。

 

 今朝もペトロの手紙を読んでいますが、ペトロがこの手紙を通して、この私たちに届けたいのも、過酷なこの世を、肩を寄せ合って歩む私たちのような教会への、神様からの励ましと力です。

 ペトロは3章の1節で改めて、このペトロの手紙二と、その前の一通目のペトロの手紙一とで、何を訴えたかったのかをもう一度語っています。3:1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。」

 あなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたい。記憶とはもちろん、主イエス・キリストの記憶です。そのキリストの記憶を呼び起こすことによって、純真な心を奮い立たせる。純真な心と訳されているところには、ピュア・マインド、混じりけのない心という言葉が使われています。それは、あれやこれやと分析したり画策したりずっと絶えず、眠れなくなるほど思案したりして、消耗し切って、疲れ果ててしまう心とは反対の心持ちということだと思います。ここでも、週報の表面にある、今年の教会標語の御言葉、「大祭司であるイエスのことを考えなさい。」という御言葉が響いてきます。そうです。私たちの魂をこれ以上の消耗から守り、この心が再び奮い立つためには、ピュアな心で、主イエス・キリストのことを考えて、思い出す必要があるのです。純真と訳されている言葉には、健全で健やかなという意味もあります。イエス・キリストのことを感がるとどうなるか、キリストに事を考えれば考える程、心の中のスクリーンに、イエス・キリストの顔を、他のものが入らないぐらいに大きく映し出せば映し出すほど、焦りや、焦燥感、イライラの代わりに、感謝と平和がやってきて、心が穏やかになっていくのです。主イエス・キリストが私のためにしてくださったことが深く分かればわかるほど、こんなにしてくださる主イエスがおられるのならと、この心は、そこで必ず奮い立つのです。ペトロはその、気持ちの立ち上がりを知っています。そしてそれこそが、消耗の激しいこの生涯を、私たちが心折れずに生きるために、何よりも必要であることを知っていますので、ペトロは最後の遺言で、これを語るのです。

 

 そしてペトロは、信仰者の心を萎えさせてしまい、色々な心配や思い悩みへと引きずり込んでしまう強力な抵抗勢力に対抗するために、ここで予防線を張ります。それが34節です。3:3 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、3:4 こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」」

 これは、預言者たちの言っていたこと、つまり旧約聖書に書いてあることは、嘘だということです。「神も、いるのかいないのか、分かったものではないぞ。そんな神に希望を置いていたとしても、神など嘘っぱちなのだとしたら、全部無駄でしょうが。第一、結果が出ていないのだから。世界なんか、社会なんか、何一つ変わっていないし、むしろ悪くなっているし、あなたの人生だって、本当に良くなっているのか?変わってないでしょう?だからあなたがたがいくら教会で祈ったとしても、その信仰は、その神様には、実際何の効果もありませんよね。」こういう言葉を嘲り繰り返す者たちが必ずあなたの前に現れる。いや、そういう言葉が、あなた方自身の心の中の、キリストと切り離された、ピュアでない、闇の部分からも聞こえてくる。でもそれに、心を奪われてしまってはならない。心を取り戻そう。

 今朝の31節で、「愛する者たち」と語りだしたペトロはもう一度8節からの言葉を「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。」と、念押しして、聞き手を大きな愛で包むようにして語ります。8節から9節をお読みします。3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」

 なぜ世界は変わらず、社会は変わらないのか?神がいるならなぜ戦争がやまないのか?愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。神はさじを投げてしまったのではない。神に世界を変える力がなく、戦争を止める力がないのではない。ただ神は今、あなたがたのために、忍耐しておられる。一日は千年のようで、千年は一日のよう、というこの言葉は、神様は私たちの尺度や予測や私たちの算段を、はるか高く、別次元の高さで超えているということです。その隔たりは、一日と千年の落差に等しいとも言える。つまり、千年は36万5千日、軽く見ても36万5千倍の、尺度と考えと見識の落差が、神と人とにはある。だから、とてもではないけれども、私たちは神様を判断できない。ましてや文句を言えるような、その落ち度を指摘するような、神様に一丁前に意見できるような、そんなところに私たち人間はとても立てない。神様はその高い見識と力で、この世界と私たちを導かれる。

 しかし、忘れないでいてほしいのは、その神様が、約束の実現を遅らせておられるのではなく、神様は深く私たちのことを愛してくださっているがゆえに、深く考え、耐えて、忍耐し、待ってくださっている。その目的は、だれ一人として罰することをせずに、皆が、つまりすべての人が、悔い改めることができるためなのです。

 つまり神様が待っておられるのは、まだイエス・キリストの救いを知らない、神をあざけって悪態をつくような人々のことなのであり、しばしば消耗してしまい、ふとした時にそういう闇に落ちてしまう、とても危うく弱い、この私たちのことなのです。私たちも、他の人々のことも、皆が一人も余すところなく、主イエス・キリストを見上げて、皆が主イエス・キリストと共に一歩一歩歩んでいけるようになるまで、先日水曜礼拝でロトの話をしましたが、あのロトのように、しっかりと神様に手を引かれて滅びの中から救いへと走り抜けていくまで、それをしっかりと見届けるまで、神様は決してゴールゲートを閉じることなく、待ち続けてくださるのです。神様がいないから、神様の力が弱く無効だから、世界は変わらず、旧約の預言者たちの約束の通りになっていないのではなく、神様の大きな力と、独りも残さずに救うのだという大きな我慢と愛の踏ん張りに支えられているからこそ、今この世界は昨日も今日もこのままに保たれています。

 

 今朝の最後の13節の終わりに、3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」という希望の御言葉があります。

私たちの先に待っているのは、ジ・エンドで終わる、悲劇と破滅のエンディングではなく、それはフィニッシュであり、総仕上げであり、完成であり、義の宿る新しい天と新しい地へのゴールインです。昨日読んだ祈りの言葉に、「今日を切り抜ける最良の方法は、主イエスとともに一歩ずつ進んでいくこと。あなたがたどっている道は天国に向かっているのだと信じて、主イエスとの心打ち解けた旅を続けていこう。」とありました。私たちの今日の歩み、今週の歩み、これからの歩みは、落ちていくどころか、逆に昇って行く歩み、天国に繋がっていく、約束された救いの道です。愛する皆様、あなたの道は、その人生は、誰にも負けない、人と比較にならない、祝福された人生です。

 

 最後に12節からも、共に励ましをいただきましょう。3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」これも、聖書の中に他に類を見ないパワーワード、強い御言葉です。カルヴァンは、「早めるようにすべきです」という言葉を、私たち人間が、神の日が来るのをめがけて急ぐべきだという解釈で読みましたが、それでは不十分です。ここは、人間が急ぐという言い方ではなくて、神の日の到来を、私たち人間が、急かして、急がせて、スピードアップさせるようにすべきである、という意味の言葉です。歴史のゴールでありフィニッシュを、その神の日が来るのを、「待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」ということは、なんと私たちが、その神の日の到来を、早めることができるということです。一人残らず、皆を救い上げ、皆を神様に出会わせるというエンディングを目指して、懸命に働いておられる主イエス・キリストは、この私たちの助けを、必要としてくださっているのです。

 主イエスが願っておられることは、ペトロも、愛する皆様に対して願っていることです。それは、純真な心、健康な信仰で、主イエス・キリストを見上げて、今日を生きる。今週を生きる。これからの人生を生きる。主イエス・キリストによって心を奮い立たせる。心を震わせて、この後の聖餐式の恵みに与ることです。神の国はそこに生まれる。そして、そうやって生きるこの私たちの存在が、神の日をこの世に来たらせる力になる。この私たちがこの場所から、神様の計画の時計の針を前に進め、歴史の歯車を推し進めて、新しい時代を作るのです。どうか主よ、この私たちをお用いください。