2023年4月9日 イースター礼拝 ルカ24章36~53節 「主イエスが立っておられる」
毎年、イースターを迎える度に、とても嬉しい気持ちになります。私は、クリスマス以上に、イースターというその記念日そのものに、励ましと力を受けます。なぜならその日、主イエス・キリストによって、死が命によって飲み込まれたからです。そしてそれは、時空を揺るがすような、天地を逆転させるような、常識と自然の摂理を根本から覆す大転換です。それが復活です。復活という、イースターの日に起こったことに勝るようなすごいこと、力あることは、この天下にひとつたりとも存在しません。
今では科学や医療が進化して、クローンやら何やらで命を生み出すということが可能になってきましたし、もちろん私たちはそれぞれの両親から生み出されてこの世に生まれ出たのですが、しかし命を生み出すことはできこそすれ、死んだ命を蘇らせ、復活させるということは、どんな技術をもってしても不可能なことです。
しかしながら、主イエス・キリストは、十字架で死して三日ののちに、死から蘇り、復活なさいました。主イエス・キリストには、この力があります。自然の法則を逆転させる力を主イエスはお持ちです。主イエスには、あたかも時間を巻き戻すようなことが、おできになります。これほどすごい方、これほど力ある方は、いません。そして私たちの救いは、希望は、キリスト教信仰の全ては、この主イエス・キリストにかかっています。
ヨハネによる福音書に頻繁に出て来る主イエスの自分語りの中で、主イエスは、「わたしは善き羊飼いである」「わたしは羊の門である」「わたしはまことのブドウの木」「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしは命のパンである。」「わたしは世の光である」。そして、「わたしは復活であり命である」とも語られました。そしてそれらの主イエスの言葉は、さらにこれを言い換えて言うならば、主イエス・キリストという方は、この私たちのためになら、何にでもなってくださるという宣言に他なりません。私たちが必要とする、道、真理、光、復活、命、命を与えるパン、そのどれにでも、何にでも、この方はなってくださって、救いを喘ぎ求める私たちを、すべての面から、あらゆる手段で助けて、救ってくださるのです。正しく、オールマイティーな、完全に何でもできる全知全能の主イエス・キリストが、その力のすべてで、イースターのこの日、私たちを、死という袋小路から救い出し、よみがえらせるために、この私たちのために、主イエスは復活してくださったのです。
この主イエス・キリストが、イースターの日の朝によみがえって、弟子たちの真ん中に、立ってくださいました。そして同じように主イエスは、それから2000年後の今日この日にも、なお復活されたその命によって今も生きて、この私たちの真ん中にも、今朝立ってくださいます。
ちょっと先回りして、今朝のこの御言葉の最後の言葉を見てみたいのですが、今朝の最後の52節53節には、こうあります。「24:52
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」
そもそもこのルカによる福音書は、神殿で祭司ザカリヤが神殿祭儀を執り行っている場面から始まりました。そしてここにあるように、このルカによる福音書は、弟子たちが神殿の境内で、神をほめたたえるというシーンで終わっています。つまりこのルカによる福音書は神殿に始まり神殿に終わる。神殿とは今でいえば、この教会のことです。そして神殿祭儀とはこの礼拝のことです。よって、この福音書が神殿に始まり神殿に終わるということは、この福音書の中で起こることの全ては、この私たちの礼拝の中でも、そしてこの礼拝の中でこそ、同じようにして起こり、追体験されることなのです。
聖書には、「しかし実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」という御言葉もあります。つまり、主イエスが復活は単なる昔話ではなく、最初のイースターの日に起こったことは、それは、私たちの誰もが同じように復活するための初穂であり先駆けであり、聖書に書かれている最初のイースターの日に起こったことは、今朝のこの私たちの礼拝でも、同様にして起こることなのです。
翻って、今朝の御言葉の始めの36節には、こう語られています。「24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
主イエスは、恐らく当局者たちを恐れてアジトに隠れていた弟子たちの真ん中に、いきなり立たれました。主イエスはその場所に、玄関から入り込んで来られたのではありません。そして、外から入ってきたのではないということは、実は、目に見えなかったが、元からずっと、そこに立っておられたというではないです。その見えなかった主イエスの姿が、この時にパッと目に見えた。
これも、今のこの私たちの状況と同じです。私たちの今朝のこの礼拝でも、復活して、朽ちない命をもって今も生きておられるこの主イエス・キリストが、真ん中に立っておられます。その主イエスの存在が、今この聖書の御言葉によって、そしてこのあとの聖餐式によって、私たちが具体的に、耳で聞き、目で見て、手で触れられることとして、私たちが現にここに集まって、イースター礼拝を捧げているという、この教会の存在とこの姿の全体を通して、可視化されるのです。
弟子たちがエルサレムの神殿に戻って、大喜びで神をほめたたえた、この福音書のフィナーレの時、そこに主イエスは、もう見えるかたちではおられませんでした。主イエスはその直前に、べタニアのあたりで、手を挙げて弟子たちを祝福されながら、彼らを離れ、天に上げられたと、50節51節で語られています。けれども弟子たちの喜びは失われることなく、むしろ、36節で主イエスが突然、彼らの真ん中に立ち現れて、ビックリ驚いた時に比べて、彼らの喜びは倍加して、彼らは大喜びで、神殿の境内で、神をほめたたえ、礼拝し続けるのです。
死から復活という事実が弟子たちの前で明らかにされて、その主イエスが皆に手を振るようにして、祝福を振りまきながら天に昇られる様子を見た弟子たちには、主イエスがよみがえって天国で今も生きておられるということの確実さによって、主イエスの姿が目に見えないということが、もう主イエスの不在を意味するものではなくなっているのです。天を仰いで礼拝するときには、その時その瞬間には、皆が確実に、天から手を上げて私たちを祝福してくださっている、生きた復活の主イエスに、しっかりと向き合っているわけです。それはもう確実なことで、主イエスの存在は、金輪際、永遠に取り消され取り去られることは決してないのです。ですから、復活した主イエスは、この最初のイースターの時以来、いつも、今この時にも、この私たちの礼拝の真ん中に、立っておられるのです。
主イエスは、弟子たちの真ん中に立って、開口一番、「あなたがたに平和があるように」と言われました。聖書が平和と言う時、それは、ただの戦争がない状態、だだの平穏無事な状態を意味しません。
いつも礼拝の終わりの祝祷で、「安心していきなさい」と祝福の祈りをしますが、その安心という言葉と、今朝の、平和があるようにという言葉は、エイレネーという、同じギリシャ語の言葉です。
主イエスは復活され、弟子たちの、私たちの、真ん中に立って言われるのです。「あなたがたに平和があるように。」「あなたがたに安心があるように。」
どんな時に、私たちは、平和を感じ、心底安心できるのでしょうか?私たちが心底、平和を感じ、心の底から安心できるのは、今朝の聖書のこの主イエスの場面が現実化した時なのではないでしょうか?
今日も午後に墓地に行って埋骨の礼拝を行いますけれども、墓地に行く度に、改めて死は暴力的な力であり、誰かが死んでしまうということは、決定的な、取り返しのつかない喪失であり、それは心底、悲しく、寂しいことであると思わざるを得ないですし、また、私たちは今日のところはまだ、死ぬには至っていないわけですけれども、しかし死んでいないにしても、死が私たちの喉元に突き付けられるような危機的な時や、そういう死の気配を近くに感じる時というのは、やはり私たちは、どうしても背筋が冷える思いをして、不安を味わいます。
しかし、そういう私たちに、主イエスは、今朝のイースターの御言葉を通して、本当に真剣に、「そのあなたがたに平和があるように。」「そのあなたがたに安心があるように。」と、つまり、「わたしがあなたに平和と平安を与える」と言ってくださるのです。
いたずらに長生きすることが、安心、平和なのではないということを、私たちは知っています。そして、本当に深い、そして大きな安心は、いつどこに生じるのかと問うならば、それは、死を克服して蘇られた主イエス・キリストとの出会いによって、私たちの人生が、私たちのこの命が、キリストから来る平和と安心で、満たされる時にこそ実現するのだと、言うことができます。そしてその、死を克服する大きく強い命に蘇られた主イエス・キリストが、私たちの真ん中に立って、平和があなたに。と言ってくださる、この礼拝の場に結ばれる時そこが、私たちにとって最高で、最大の、平和と安心の時なのです。
死からの復活というあまりにも衝撃的な、時空を曲げてしまうような神の命の力にたじろいだ弟子たちは、復活の主イエスのことを、亡霊、幽霊、幻だと思いました。死んだはずの人が突然目の前に現れた時に発する万国共通の言葉として、彼らは、お化けだ!幽霊だ!と言ったわけです。
しかし主イエスは、本当に普通にごく自然な形で、ホラッと足を見せて、体を見せて、「ほら、握手しよう、大丈夫でしょ?」というようなかたちで、日常的に振舞われました。38節から43節を改めてお読みします。「24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」
主イエスは体を見せて、触れさせてみせて、仕舞いには、焼き魚を食べて見せてくださいました。弟子たちと一緒に魚を食べたということも、主イエスが幽霊でないことの力強い証明ですけれども、彼らの多くは元々漁師でしたから、主イエスと初めて出会って弟子になった日も、こうして主イエスと一緒に魚を食べたのだと思います。ですからこれは、かつてのあの時の懐かしい体験の再現であり、その時とそっくりそのままの主イエスが、本当に生きかえって目の前に帰ってきてくださったのだという、変な人形や、ロボットや、まやかしなどではない、本物の主イエスが、本当に今、生きかえられたておられるということが、この時にこそ弟子たちに、しっくり来たのだと思います。41節に「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」という言葉がありますが、弟子たちはきっと、目の前の主イエスを見ながら、嬉しさと不思議さが入れ混じった気持ちでいっぱいにされながら、しかし嬉しくて、涙目で、本当に喜んだのだと思います。肉体的にも精神的にも、その場におられる雰囲気からも、これぞ主イエスだと、あの主イエスが本当に生きかえって、戻ってきてくださったというリアリティーが、この言葉に満ち溢れています。そして、こういうかたちで、死から復活した主イエスが親しく一緒に共におられる。主イエスが今も、今日も、この私たちの真ん中にも、生きて、立っておられる。そして、これこそが、死によって中断され妨げられることのない、永遠の平和であり、安心なのです。