2023416日 ヤコブの手紙21426節 「具体的に生きる」

 今朝の説教題と同じ、「具体的に生きる」と題された断想を、藤木正三という牧師が書いておられます。250字ほどの短い断想ですので、最初にお読みさせていただきたいと思います。

「具体的に生きる。神を求めれば求めるほど、自分を顧みずにはおれなくなり、自分を顧みれば見るほど、神を求めずにはおれなくなる。神を愛しようとすればするほど、隣人を愛することが課題となり、隣人を愛しようとすればするほど、神への愛が問われてくる。神と共に生きようと願えば願うほど、日常生活が重大になり、日常生活を大切にしようとすればするほど、神と共に生きることを願わずにはおれなくなる。具体的な人生とは、この循環を生きることでありましょう。片方を切り捨てた神のない生活も、生活のない信仰も、共に抽象的であります。」

神のない生活も、生活のない信仰も、共に抽象的である。確かにそうだと思います。そして、今朝のヤコブの手紙の御言葉に言わせれば、神のない生活も、生活のない信仰も、そんな生活や信仰は、共に真っ赤な偽物、まがい物に過ぎない、ということになるでしょう。

そして、もちろん聖書は、そういう神なき生活や、生活なき信仰を決して語りません。しかしながら、私たちの間には、神なき生活があり、また生活なき、具体性を欠いた信仰というものが存在します。ということはどういうことなのか?つまり、問題は、私たちの、聖書の受け取り方にあるということです。私たちの聖書の解釈の仕方であり、実際の生活の仕方、私たちの信仰の在り方、信じ方の方に、少なからず問題がある。そこには、具体性を欠いた信仰という問題があり、信仰と実際の生活を、二つに分離させてしまうという、誤った信仰についてのまた生活についての考え方があるということです。

神のない生活も、生活のない信仰も、共に抽象的。信仰と生活の抽象化というものは、常に私たちの中で起こる誘惑です。抽象化とは、言い換えれば、それをリアルで現実的に考えないという逃げであり、面倒臭いことはしたくない、それをするのは大変だからという言い訳に基づいた、拒否反応でもあると思います。

 

ヤコブは語りました。今朝の14節から17節です。2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

この言葉を語っているヤコブ自身、彼は主イエスの実の弟でした。しかし主イエスが十字架に架かられて、復活した後になってから、復活の主イエスに出会って初めて、彼は主イエスを信じたのだと言われています。ということは、ここで彼が語っている行いの伴わない、死んだ信仰は、これはかつてのヤコブ自身の信仰心だったのではないかと、考えることができます。確かにこの手紙でヤコブは、ディアトリベーと呼ばれる論述のテクニックを多用しています。ディアトリベーとは、仮想の論敵との対話という形式で書き進めていく、記述スタイルです。ヤコブが、なぜここで糾弾している架空の論敵の心の内側が分かるのかというと、一番素直に納得できるその理由は、これがかつてのヤコブ自身の信仰の在り方だったからなのではないだろうかと想像します。兄のイエスは、罪人と言われて人々から嫌われ煙たがられている徴税人や、病人や、貧しさゆえに献金もできずおよそ礼拝にも参加しないような人々の所や、汚れていて付き合いを持ってはいけないはずの異邦人のところにもどんどんと入って行って、癒しを行い、彼らを助け、そういう人々の仲間になっていく。それが弟ヤコブにとっては、とても目障りで、偽善的で、余計なことに見えたのではないか。確かに人助けが大切であることはヤコブも重々承知していたはずです。しかしよりによって、旧約聖書と、それに付け加えられたユダヤ人の伝統によって禁じられているはずの、汚れた病人との接触や、異邦人との交際を、ためらわずにどんどんと進めていく兄イエスを見ながら、もしかしたら怒りや苛立ちをも、かつてのヤコブは感じていたのではないか?

しかし、その信仰は、その認識は、大間違いであった。それは、聖書の全くの読み違いであったと悟ったのです。そしてヤコブは今、教会を見ています。教会が自分と同じ轍を踏まないように。エルサレムにある本部の教会からの、広く諸教会への、公式のアナウンスとしてこの手紙を書いているヤコブは、ユダヤ人の教会をはじめ、広くは異邦人も含む教会や、あるいは全くの異邦人たちのみによって構成されているような、トルコやギリシャやローマにある教会に、目と心を向けています。そしてその手紙は、この朝に至っては、この板宿教会の礼拝堂にまで届く言葉として、教会の具体的な現場に向けた言葉として、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と語っています。

 

 この御言葉の解説書のひとつに、こういう言葉が書いてありました。「「行いのない信仰」は、個々人の生活あるいは人間関係における根本的断絶という困惑を免れさせてくれる。人々は、キリスト者の兄弟・姉妹に対する彼らの義務を思い出そうとしない。私たちの教会には今日、ヤコブの手紙が想定するような論敵に、同意する人が多い。「信仰」が、他の人々に対するいかなる関係あるいは義務も要求しないだけでなく、そのような意図は抵抗に出会う。自分が教会のメンバーであると主張するアメリカ人は、教会に出席し、その活動に参加している人々の二倍もいる。…多くのキリスト者は今日、信仰が、プライベートな、個人的見解以上のものを何も意味しないと考えるという危険を冒している。定期的に神を礼拝するために他の人々と共に集まることさえ、ある人々にとっては不必要のようである。」

 ドイツを訪問した時に見た光景を思い出しました。そこで、世界遺産にも指定されている8000人収容できる礼拝堂に、たった30人だけが集まって礼拝している光景を見ました。具体的な教会なしで、果たしてキリスト教信仰は成立するのか。

確かに、他者と共に集い、一緒に礼拝するのみならず、お互いに具体的に支え合い影響を与え合って、一緒に教会を作っていく。すなわち、人と互いに、愛し合って生きていくということは、大変なことですし、ある面でとても面倒なことですし、愛し合おうとしても、それが、決して、いつもうまくいくとは限りませんので、そこで人は、互いに衝突して、互いに期待を裏切り合って、ほとんどの場合において、傷ついたり、疲れたり、もうしんどい、もう嫌だ、となります。他者を愛する、他者と関わるということは、自分のガードを下げて、ある意味で自分を無防備にして相手に晒して、相手を自分の懐に招き入れることですので、もしそこで不意に攻撃されたら、自分が大きなダメージを受けることになります。人と関わろうとするときには、どうしてもそういう傷つきやすさの中に自分を置かなければなりませんので、そこでは当然、恐れや、不安や、人を愛そうと思えば思うほど、人を具体的に愛そうと思えば思うほど、実際には、色々な悩みが募るのです。

 普段の生活だけでも大変なのに、自分の家族のことだけでも精一杯なのに、日曜日に教会に来てまでして、そういう風にして悩みたくない、疲れたくない。面倒を抱えたくない。傷つきたくない。そこまでして人と関わりたくない。

 本当にこのことは、特にユーチューブでどこの教会の礼拝でも覗くことができる今の時代にも当てはまる、現代的な問題でもあると思います。

 しかしここで一つ言えることは、傷つくことを恐れていたら、人は愛せない。痛みから逃げて、人に悩ませられることを避けていたら、人と喜び合う嬉しさを味わうことはできない、という事実です。

 

 ヤコブはそこで、死んでいない、生きた信仰を歩んだ模範として、信仰の父祖アブラハムと、異邦人の娼婦であったラハブを紹介しています。

 アブラハムについては、ちょうど先週の水曜礼拝で彼の生涯を語り終えたところです。アブラハムの信仰は、自分の二本足で地面を蹴って、神様の約束を信じて前へ前へと前進していくという、決して抽象的ではない、とても具体的な生き方でした。アブラハムも恐れに囚われ、何度も失敗しました。けれども、ヤコブの手紙が語っている、モリヤの山で、やっと授かった約束の息子イサクを神にいけにえとしてささげる場面でも、アブラハムは迷わず神に従うその具体的な行動によって、「もういい。あなたが神を畏れる者であることが分かった」と御使いに言わせて、行いの伴うその信仰を神様に納得させました。

 

 また、ラハブの場合は、彼女は異邦人で、イスラエルの民がそこに向かって攻め込んでいく先の、エリコの町に居ながら、同族者たちを裏切って、イスラエル側に寝返るかたちで、イスラエルからの斥侯をかくまって、エリコの町に対する大勝利を導きました。その結果彼女とその家族は助け出され、イスラエルの神を信じて、その名は、ダビデ王や主イエス・キリストの直系の先祖に位置する異邦人女性として、聖書の系図の中に、永遠に刻まれることとなりました。

 

 そして、このラハブとアブラハムに共通しているのは、信仰ゆえに、信じ信頼する神に従う故に、無私になれる、神ゆえに自分のことを忘れることができる、神様に対して一途であったゆえに、自分を捨てることができたということです。

 水曜礼拝でのアブラハムについての説教の中でも語った御言葉ですが、主イエス・キリストは、福音書の中でこう言われます。マルコによる福音書8章の御言葉です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

 

 自分の十字架を背負うということは、自分の処刑道具を背負って処刑場に進んで行くことですから、自分を殺し、自分自らで自分の命に制限をかけていくということです。それは処刑ですから、そこで自分は当然痛みを追いますし、傷を受けます。人と向き合い、神と向き合い、神を愛し、人を愛するためには、自分のエゴ、悪い意味での自己愛がとても邪魔です。それが最大の妨げです。ですからそれを十字架に架けていく必要がある。

 アブラハムもラハブも、何の葛藤も痛みもなしに神に従ったのではないのだと思います。不安で眠れない夜が、神様の約束は、本当にその通りに実現するのだろうかと、神様を疑う夜もあったはずです。しかし神を信じ、神に従う信仰は、自分の魂の安寧、自分のためだけの平和を意味しません。即ち、自分を満たすことが、信仰のゴールなのではないということです。

 

 主イエス・キリストは、その深い愛の最大の発露として、誰よりも具体的に十字架を背負い、御自分をそこに付け、十字架の上で具体的に苦しみ、事実として死んでくださいました。それは、復活の主イエスが開口一番、「あなたがたに平和があるように」と言われたように、私たちに平和と安心を、救いと命を、そして祝福を与えてくださるためでした。

 私たちは、その主イエス・キリストに、信仰によって従う私たちです。そうであるならば、主イエスが苦しまれたように、私たちも、そこにある苦しみ悩み、具体的な葛藤も傷をも、人のために、そしてキリストの教会のために喜んで背負うのです。そこで私たちは、自己愛の殻を破るのです。人を愛する傷つきやすさの中に、勇気をもって飛び込むのです。なぜならその先にこそ、主イエス・キリストの背中があり、十字架に架かり、復活された主イエス・キリストとの出会いがあるからです。そしてそこでこそ、新しい自分が生まれます。本当に心から御言葉を生きて、それを信じ、信じるだけでなく行う人になるという、全く新しい、祝福され救われた人としての私が、新しく創造され、そこで形作られます。ヤコブは、自分自身がそうなったように、私たちにも、新しくなって欲しいと願っているのです。そして、アブラハムやラハブのような、信じるだけでなく、信じて踏み出す信仰者として私たちが生きるようになる時、その先にこそ、この新しくされた私たちが、互いに愛し合って作り上げる、私たちの教会が、また新しくここの場所に立ち上がるのです。