2023年4月23日 ヤコブの手紙3章1~12節 「舌は火です」
「舌は火です」という言葉が6節で語られています。そしてその火が、どれだけ強い火で、どれだけ悪魔的な破壊力をもっているかということを、今朝の御言葉は、これでもかと語っています。この私たちの舌が火であるということに、私たちは、普通はここまで深く気づけませんので、そのことは、このようにして聖書によってはっきりと語ってもらうことで、初めて深く認識できることなのだと思います。
そして今朝の御言葉の出だしには、牧師である私自身にとって、牧師を志すようになった25年も前から、魚の骨のように喉の奥にひっかかって、ずっとチクチクして取れない御言葉が語られています。今朝の1節2節です。「3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」
私はこれまで、直に顔を合わせて会ったことのない人も含めて、本当に無数の人を傷つけてきました。しかし私は、ごく小さな子どもの時の喧嘩を除いて、人を殴って傷付けたことはありません。ということは、私は、私の舌で、また私がこの舌で語った言葉と共に、文字として書き記した言葉で、さらに私の表情や仕草や態度から出る言葉によって、加害を繰り返してきたということです。
しかし恐ろしいことですが、こんな人間が、牧師に、教師になっています。毎週語らせていただいている私の説教も、極めて不完全です。先週は、ヤコブを主イエスの兄だと、説教壇から間違えて語ってしまうという体たらくを晒してしまいました。今はとりわけ、ヤコブの手紙を通して語られる、聖書の中でも特に手厳しい部類に入ると言える御言葉を取り次いでいますが、このヤコブの手紙の中にも深いところで流れている福音があります。しかし、私がそれをしっかりと汲み出して語ることができているかと問われるならば、そこに関しても私の説教は不十分です。正直に言いますが、説教のあとの献金の時間、当番の方が皆様から献金を集めてくださっている間に、私はいつも同じ祈りを切実に念じるように祈っています。それは、「神様助けてください。私が今話した乏しい説教を、神様どうか用いてください。説教を聞いた方々に神様の愛と福音が届き、躓きや神様への不信が生まれてしまうことがないように。神様助けてください。」という祈りです。しかしながら、時に躓きは起こってしまい、私はその原因を作ってきました。
既に、私の舌や、態度や、行動、説教から発せられるたくさんの言葉が、皆様を傷付け、悩ませ、躓かせてしまっていることについて、申し開きのしようがありません。ここで謝ったからと言って、それですべてが赦されるような簡単なことではありませんが、誠に申し訳ございませんでした。私の言葉の過ちを、お赦しください。
舌は火であり、言葉は時に刃となります。それは、人の心の深い柔らかい部分にも一瞬で到達し、そこを血まみれにしてしまう殺傷力を持ちます。また言葉は、地球の裏側どころか、宇宙まで飛んで行って、さらに宇宙の外側の天の国におられる神様のところにまでも届く、どんなミサイルよりも長い飛距離と貫通力を持つ、神様に対しての刃にもなりえます。
御言葉も語りますように、言葉は大きな森を燃やし尽くす炎であり、その力をもってそれを語る人の人生も、その人の全身も焼き尽くして、その火のような舌は、舌自らもろとも、人間を丸ごと地獄の業火に叩き落すことさえするのです。
6節に、「舌は不義の世界です。」と言われていますが、世界と訳されている言葉は、コスモスという、宇宙という言葉です。神様は、この聖書の始めの創世記で、「光あれ」との言葉によって光を創造され、それを皮切りに、御自身の言葉によってこの良き世界を創造されました。しかしあの良き創造とは、真逆のことを引き起こすようにして、この舌から出る言葉が、不義の世界の作り上げしまうのです。さらに決定的な言葉として、今朝の8節の御言葉はこう語ります。「3:8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」
舌を制御できる人は一人もいない。舌は悪で、死をもたらす毒に満ちている。ここまでヤコブが言い切るのは、やはりこれはヤコブ自身の経験によるのではないかと思います。先週の「行いの伴わない信仰は死んだもの」という言葉も、それは、ヤコブが単なる杓子定規な正論をかざしているのではなく、それは彼の実体験から、そこにあった弱さや数々の失敗を経たうえでの、しかし諸教会にこのことはどうしても訴えたい、伝えなければならないという、彼の熱意から出た言葉だと思います。
ですから今朝の、舌は火であり、それは疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちているという、この強烈な言葉についても、ヤコブは自分の舌のどうにもできない扱いにくさと闇の深さに格闘しながら、そして自分の舌さえも制御できず、それに勝てない絶望を感じ、苦しみながら、しかしなおこの強烈な言葉を書き記しているのだと思います。ヤコブは、教会の教師となり、初期キリスト教会のリーダーとされながらも、今更ながらに振り返る、幼い頃よりずっと見てきた兄イエスと自分との、明らかな隔たりというものを思い返していたはずです。あるいはヤコブはそこで、塩水と甘い真水以上に違う、主イエスの言葉に対する、自分の言葉の浅さ、やましさ、果てしなく自分中心のずるさ醜さを心底恨みながら、言うことを聞かない自分のこの舌を噛み切ってやりたいという気持ちさえ抱きながら、この手紙をしたためていたのではないか。
こんな自分、こんな教師たち、そしてこんな私たちの教会なのですけれども、しかしながら、それだからこそ、あなたがた、私たちは、このままではいけない。新しくされて、本当の舌の使い方を、本来の言葉の力と、そこに宿る、人を殺すのではなくて生かし救う、命の言葉を、私たちはなんとしてもそれを、取り戻さなければいかない。舌を制御するのはもちろんのこと、私たち皆は、この神様の前で、新しい舌を持つ者として、今こそ根本的に生まれ変わらなければならない。
なぜなら神様は、毒を生み出し地獄を生み出し、互いを攻撃し合い傷つけあうために、この舌を私たちにくださったのではないからです。
そもそも主イエス・キリストは、神のロゴス、神の言葉として、この世界に到来してくださいました。死んでしまった言葉を、また生き返らせるために。言葉は心を支配し、心の在り方を決定付けます。毒にまみれた言葉に満たされてしまったこの心に、救いと命の言葉をもたらすために、はじめに神と共にあった言、イエス・キリストは、肉となって、人間のかたちをとって、この世界に降り立った。ヨハネによる福音書1章には、「言は肉となって、私たちの間に宿られた」という御言葉があります。新しい言葉が、神から、主イエス・キリストというかたちで、私たちの間に宿った。
また主イエスは、マルコによる福音書7章では、耳が聞こえず舌の回らない人の両耳に、指を差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられ、天を仰いで「エッファタ」と、「開け」言われました。そうしたらその人の耳が開き、舌もつれが解けはっきりと話すことができるようになりました。彼はそのことを宣べ伝え、人々は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と、口々に救いを言い広めました。
主イエスの癒しによって、舌が言うことを聞くようになり、すばらしい救いを語るようになる時、同時にその人の耳も開いたと語られていることは、とても意味深いと思います。正しく言葉を語るためには、言葉を正しく聞くことのできる、主イエスに触れられることによって新しく開かれた、耳が必要なのだと思います。
自分の舌が発する言葉にも、同じようにして発せられる人からの言葉にも、どうしても毒が混ざっている。そんな言葉に内外から囲まれている私たちは、混じり気のない神の愛を心に運んでくれる、神の御言葉をしっかりと聞き取る、開かれた耳も必要としています。
さらに主イエスは、私たちの救いを成し遂げるために十字架に架かかってくださり、イースターに復活され、40日目に天に昇られて、今のこの私たちも、5月の28日日曜日にその日を待ち望んでいる、ペンテコステの日に、天から、御自身の霊である聖霊を、送ってくださいました。
使徒言行録2章に記されていますように、ペンテコステの、聖霊降臨の日に起こったことはこれです。「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」
ヤコブの手紙の、今朝の御言葉のすぐ後に続いています3章17節には、「3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」と語られています。舌から生じてしまう、私たちには処理できない悪を解決するのは、上から出た知恵だと言われています。そしてこのヤコブも、この私たちも受け取っている、上から出た知恵こそがまさに、ペンテコステの時以来、主イエスを信じ共に祈る者たちに注がれる、聖霊に他なりません。ペンテコステの日に、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。この炎という言葉も、舌は火ですとある、火と同じギリシャ語です。ですから私たちは、良い意味での、二枚舌を、新しい二枚目の舌を与えられているのです。森を焼き尽くしてしまうような火のような舌ではなく、主イエス・キリストを求め祈る一人一人の上に、分かれ分かれに現れて留まってくださる、命の灯をともす、命の炎。その言葉を信じ受け入れる者に、死からの復活と永遠の命を与える、主イエス・キリストの救いを載せた言葉。
目には見えませんけれども、聖霊の、ペンテコステの激しい霊の風は、今この礼拝堂にもごうごうと吹き荒れています。そして、今朝も、またここで、上からの新しい炎のような舌が、これはきっと、みんな違う、それぞれに必要な色々な色の炎として、それぞれに合わせた色々な大きさかたちの炎の舌が、分かれ分かれに、一人一人の上に、豊かに、そして永遠に留まるのです。
主イエス・キリストは、十字架から復活されたのちの、マルコによる福音書における最後の肉声で、マルコによる福音書16章の最後の言葉で、このように語られました。最後にその御言葉をお読みして、説教を閉じます。マルコによる福音書16章の15節から17節です。「16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。16:17
信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」