2023430日 マルコによる福音書5章21~43節 「主イエスと出会った二人の女性」

 今日は、信仰者の方々に信仰の体験談を語っていただく、信仰の証しのプログラムがありませんけれども、しかしその分、今朝はその信仰の証しをしてくださる方二人を、聖書の中に見出したいと思います。今朝の聖書に登場する二人の女性には、名前が付されていません。しかしこれをもって聖書は私たちに、この二人の女性は、今この聖書を読んでいるあなたのことだと、あなたの名前が、この聖書に向き合うすべての人の名前が、この二人に当てはまるのですという、メッセージを発しています。

 信仰の証しとは何か?それは、その人のイエス・キリストとの出会いを語り、自分にとってイエス・キリストとは、どんな方なのかということを証言することです。よって今朝は、この二人の女性の主イエス・キリストとの出会いを見て、それを通して、ここで二人に起こったことはこの自分自身にも当てはまり、この自分にも起こりうることなのだということを、皆様に知っていただき、ここで語られていることを、自分自身のこととして経験し味わって、主イエス・キリストとの出会いを持ち帰っていただきたいと思います。

 

 では早速、一人目の女性から見ていきましょう。一人目は、まだ幼い、12歳の少女です。彼女は、ヤイロという名の有力者の娘でした。そして、まずはその少女の父親が、主イエスのもとにやってきて、その足元にひれ伏しました。そして2324節です。「「5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」

 主イエスはヤイロの求めに従って娘の所に行くことに同意され、出かけられました。そうしたらそれに従って大勢の群衆も一緒に付いてきて、主イエスを取り囲むように押し迫るという、満員電車のような状態になりました。

 

 しかしそこで、二人目の女性が登場します。2526節です。5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」聖書は一言で、二人目の女性が置かれていたとても苦しい状態を描写しています。

 病気が見つかればまずは医者に行きますが、それでも治らず、彼女は12年間も医者に通い続けて、全財産を使い果たしたと語られています。これは医者に診てもらって、それでも治らなかったら、放置しておけばいいというような、小さな病ではありません。全財産を使い果たして、生活を破綻させてまでしても、どうしても治さなければ、もう生きてもいけないし、死ぬにも死ねない。そんな病に、彼女はひどく苦しめられていました。

旧約聖書には、「出血がある間の女性はその間はけがれている」という言葉があります。その旧約聖書の言葉が、この時代のこの場所における、社会の揺るがせにできない掟とされていました。それによると、出血のある女性によっては、その女性が寝る寝床も、座る椅子も、穢れたものとなってしまって夕方まで使えなくなるとあります。そしてその出血期間中にその女性に触れる人も、女性同様に穢れた者となってしまうと書かれています。これではあまりに酷いという印象を受けますが、聖書がこのように語るのはなぜかというと、血は命の源であり、その象徴とされてきたからです。ですから命の源である血を、絶えず流してしまう彼女の状態は、命の神とは正反対の死を匂わせる、よって命の源である聖なる神様の前に穢れている、死を身にまとっている状態を意味しました。

彼女は、12年間ずっと、穢れた人間として生きてきた。それでは当然、人と付き合うことができません。手をつなぐことも、一緒に食事に行くこともできない。彼女はその病のために人々から敬遠され、隔離され、彼女に向き合ってくれる人も、言葉をかけてくれる人もいない中で、社会的に、また人間としても、死人同様に扱われていたのです。

 

その穢れた彼女が、穢れを人に伝染させないために、人前に出ることも人ごみに入ることも許されないという禁止事項を破って、主イエスを取り囲む大群衆の中に向かっていくのです。27節から29節です。5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」

イエスという時の人が町に来たという噂を聞いた。見たら、大勢の群衆が彼を取り囲んでいる。主イエスに従いうごめいて、人々が口々に助けを呼び、主イエスもそれに応えてくださっている。その光景を一目見た彼女には、もうそこから、周りの音も耳に入らなくなり、その瞼には、もう主イエスの姿しか映らないようになってしまったのではないか。そんな彼女は、自然と体がそちらへ動くようにして、気が付いたら小走りに駆け出していたのではないかと思います。

人々に揉みくちゃにされている主イエスに向かって、彼女自身も揉みくちゃにされながら、徐々に近づいて行った。そして、後ろからだけれども、時折ちらっと、主イエスの服の裾が見える。そういう場所まで来た。もうここまで来たら、ここから引き返すという頭はない。人々の背中の間に頭をねじ込んで、時々チラチラ見える主イエスの服の房に、一瞬思いっきり手を伸ばした。手がその裾に触れたか触れないか、その刹那の瞬間のあとに、彼女は群集の圧力によって、弾かれるように押し返された。「はあっ」と、大きく息をつく。しかしその時、自分の体に、曇り空に突然光が差すようにして、下腹部に何の痛みもない、忘れかけていた健やかさが戻った。彼女はきっと、言葉を失いながらも、でもこれは確実に、自分が今大変なことをしてしまったのだということだけはよく分かった。人間の力の及ばない者に自分は触れた。だから、このことは起こったのだと。

 

ここで聖書のカメラは、主イエスを映し出します。30節から32節です。5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」

主イエスは、御自分に触れた者がいたことを悟られて、あたりを見回されました。けれども弟子たちは、こんなに大勢が主イエスを取り囲んでいる状況で、今更、誰が触ったのかなどと言われても、それは困る。そんなの分かりっこないと返しました。しかし主イエスは、御自分が相手のことを分からないまま、ただ女性が主イエスに触れて癒されて帰って行くことを、よしとはされず、さらに、あたりを見回されました。その主イエスの様子に、少なからず周りの群衆たちもドヤドヤとなったのではないかと想像します。誰だ誰だ?どうしたんだ?誰かが主イエスに何かをしたらしいぞと。

自分が主イエスの着物の裾を触ったことが発端となって、明らかに主イエスの雰囲気が変わっていることを見て取った彼女のことを、再び聖書は指さします。33節。5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」

彼女は、勢いで、穢れた身でありながら群集の中に入って、必死の思いで主イエスに触れたけれども、どうしよう、大変なことをしてしまった。これが皆にバレたら、何をされるかたまったものではない!恐ろしい!と思いつつ、しかし、自分に起こったことを隠し通すこともまた無理であるし、もうこの自分には、逃げる場所も帰る場所もない。もし今のこの自分に逃げ帰る場所があるとするならば、それはもう、自分を癒してくれた主イエスの前よりほかに、行き場はない。彼女はそう腹を決めた。そして震えながら、「わたしです。わたしが触りました。」と進み出ました。そして、ひれ伏しました。それだけでなく彼女は、「すべてをありのまま話した。」私は、特にこの言葉にジンときました。「すべてを、ありのまま話した。」と、ここにしっかり書かれています。

何を彼女は話したのか?どうして自分が主イエスの服に触らざるを得なかったのか。触って何が自分に起こったのかを、彼女は主イエスにここで語らない訳にはいかなかった。ということは、12年間ずっと、人にまともに相談もできず、なんとか一人で抱え込んで耐えてきた色々な思いが、きっとこの時、涙と共に溢れ出るようにして、彼女の口をついて出たのではないか。周りの人たちにも聞かれてしまっている。でも何よりも、ひれ伏し語る自分の全てのありのままを、優しく見つめ、静かに耳を傾けてくださっている主イエスが、自分の正面におられる。そして主イエスはこの時、群集の中からこの私を見い出だして、世界には自分一人の他に誰もいないかのように、一心に自分だけを見つめてくださる眼差しをもって、一人の私に向き合ってくださり、私の話すすべてを、ありのままを、聞いてくださった。

 彼女が話したあと、主イエスは、そこで口を開こうとされます。主イエスはこの上、この私に何を言ってくださるのだろうと、彼女がその口元を見た時、こんな言葉が聞こえてきました。34節。5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」」

 主イエスは、あなたの信仰が!と言ってくださいました。彼女の信仰の力強さゆえに、この救いが起こったのだと。群集の中に混じって、後ろから服の房に触れただけの、正面から神に向き合えるような、正面玄関から教会に歩み入ることのできるような堂々たる信仰を持たない彼女に対して、一見堂々たる信仰を見せていたこの時代の一端の宗教家たちに対しては、主イエスから決して語られなかった言葉が、語られました。彼女の、自分ではこれが信仰だなどとは全く思えないその思いを、すべてを話したありのままの彼女の言葉を、それはあなたの信仰だと、これはあなたの立派な信仰の証しに他ならないと、主イエスの方が認めてくださった。

こんな私の信仰心では、まだまだ未熟で、洗礼などとてもとても。。。なんてとんでもない。今この礼拝に招かれて、後ろから服の房だけ、ということではなく、今、真正面で主イエスと相対している皆様は、救いに相応しい信仰を、持っておられます。主イエスは必ずや、今のこの皆様の中にある思いを、それはあなたの信仰だと、認めてくださいます。

 

 さて、会堂長ヤイロの娘が危篤だから、急いで来てください、ということで始まった今朝の御言葉だったのですが、途中で随分と道草を食ってしまっています。そこで35節の事態が生じます。3536節をお読みします。5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。」

 12歳の少女は死んでしまいました。間に合いませんでした。望みは費えました。先生を煩わすには及ばない、という言葉が語られて、父親のヤイロとしても、「ああそうか。であれば仕方ない」と。彼もきっと、衣の房を触った女性と主イエスとのやり取りを客観的に見ていて、これはこれで、主イエスの大切は働きであるし素晴らしいことだとは思うが、自分の娘については残念ながら間に合わなかった。いくら主イエスといえども限界がある。死んでしまったからにはもうやむをえまい。この件に関しては無念であるが、終わってしまったのだと、肩を落としたのだと思います。

 けれども、それを受けて語られている36節の言葉は、かなり変わった言葉です。なぜなら、36節の「そばで聞いて」と訳されている言葉は、実は聖書の元の言葉のギリシャ語では、「ちゃんと聞かない。上の空で聞き流す」という言葉なのです。同じ言葉がマタイによる福音書で二回使われていますが、そこではこの言葉は、「聞き入れない」という言葉で翻訳されています。つまり主イエスは、ヤイロの娘が死んだという訃報を、聞き流される。そして即座に「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われるのです。このただ信じなさいというこの言葉は、先程の女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた時の「信仰」と同じ言葉です。

 

 ヤイロには、娘のことがあったので、早く早く、という焦りが当然あったのだと思いますが、主イエスはここで、全く急いでおられず、むしろ悠然と構えておられて、一人目の女性に、しっかり向き合ってくださいました。そして少女の訃報を主イエスは聞き流された主イエスは、12歳の少女に間近に迫りくる死という大変な危機をを、全く恐れておられません。さらに主イエスは、二人の女性に対しても、常に一貫しておられます。つまり、信仰、それは信頼とも訳せる言葉ですが、主イエスを信じて、手を伸ばすなら、主イエスを信じて、死をも恐れないなら、主イエスはその信頼に、信仰に、手遅れになることなく、諦めることもなく、不可能を超え、死さえも凌駕する力で、答えてくださるのです。誰も、どんな諦めも、どんな手遅れも、死も、主イエスが少女に出会ってくださるその歩みを、決して止めることはできないのです。

 38節から42節をお読みします。5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」

どうですか?これが主イエス・キリストです。このイエス・キリストを、信じられますか?信頼できますか?後ろからでも、遠くからでもいい。この地上から天におられる主イエスに向かって、一人でではなくて、二人で、あるいはこうしてみんなで、今ここで、主イエスよあなたを求め、賛美して、信頼し、祈ります、信じますと、言えばいい。

結局今朝の登場人物は誰も、「信じます」とまでは言えていません。でも主イエスはそれぞれの思いを汲み取って、話を聞いて、受け入れてくださいます。そして、それはあなたの信仰だ。「タリタ、クム」「起き上がりなさい。」「安心していきなさい。」「これからはわたしを信頼して、わたしに頼ってくれればいいから」と、「病気も孤独も、死の足音が迫り来るということも、あなたに起こるかもしれないけれども、しかしそれも含めてわたしに委ねてくれるなら、その信仰に答えて、わたしが引き受けて、そしてこれからは、わたしがあなたの背中を押すから。だから、あなたは、元気に暮らしていきなさい。」

 これは、今日ここに来られた皆様への、私たちが自分の名前を当てはめて受け取ることのできる、聖書を通して語られる、まさしくこれはもう完全に、主イエス・キリストからの、今朝のこの一人一人への、ラブレターです。どうぞこの出会いをお持ち帰りください。そして皆様どうぞこれをもって、ますます、元気に暮らしてください。