2023514日 ヤコブの手紙313節410節「動機の深いところ」

 今朝の御言葉には、まるでレントゲンで骨の髄まで見極めるほどの深さ鋭さで、私たちが、そのことには薄々気づいてはいたけれども、しかしここまではっきりと考えたことはなかったという、目からうろこの、私たちへの新しい言葉が語られています。

 その新しいこととは、私たちの間にいつも起こる、戦いや争いの真の原因とその解決です。なぜ争いが起こるのでしょうか?なぜ対立が生じるのですか?国家間でも戦争が絶えず起こっていますし、社会の階層、地位、貧富の差、職業の違いによる対立もありますし、学校の先生も、時にハラスメントを加える加害者となったり、逆にクレームを受けて疲弊しきってしまったり、客商売をしている人も、たとえバイト店員であっても、お客さんから日常的に受けるきついクレームとその対応が、大きな悩みの種になっている状況があると思います。インターネットやテレビでも、最近は「論破」という言葉がよく使われて、実際に力や知恵をそれほど持っていないような人でも、論破して相手を言いませれば、強くて賢い勝利者として、必要以上にもてはやされます。

 そしてこの種の言い争い、お互いが自分の正しさを主張して譲らないことが、暴力や殺人とまではいかなくても、具体的な言い争いや不和や仲間外れということに発展していく。そういうことは、教会においても起こりますし、その色々な衝突や仲たがいを、皆さんも日常的によく目に知っていらっしゃるし、それを御存じですよね?と、こういうところが、今朝のこの御言葉の出発点です。

 一週間間が空きましたけれども、今朝の3章の最初の部分には、言葉で過ちを犯さない人などいないと語られていましたし、さらに、私たちのこの舌は、悲しいかな、一方では神を賛美しながら、その裏で神と人に呪いを吐き捨ててしまうのだと語られていました。そんなこの私たちに、なぜそんなことが起こると思いますか?なぜそんな教会になってしまうのですか?と、ヤコブは貫通力のある言葉で問いかけてきます。

 今朝の41節です。4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」

 目の醒めるような問いかけではないでしょうか?私たちは今朝、この言葉に少なからず驚かされて帰りたいと思います。41節のギリシャ語原文には、「どこから」と問いかける言葉が二回繰り返して使われています。「どこから戦いが、そしてどこから争いが、生まれるのですか?」「どうからですか?」

そして答えは、「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」

私たちの間にある戦いや争いの原因は、なんと、相手が間違っているからではない。相手のせいで、相手がいるせいで、争いが起こっているのではなかった。では何のせいか?その原因は、自分自身の内部の欲望だった。欲望が自分の内部で争い合うのです。争い合うと訳されている言葉は、「戦争を始める。」「軍隊に入る。」という言葉です。つまり自分の内部にある自分の欲望が、軍隊に入隊して、武器を取り武装して、戦闘機に乗って、敵に向けて出撃し、戦争をおっぱじめる。争いや戦いは、そのパターンで生まれる。どこだどこだ?悪いのは誰だ?どこのどいつのせいなのか?あいつが悪い奴か?じゃない。自分だ!原因は自分の欲望だ。そこからミサイルを、私は自分で、自分の中の欲望から発射しているのです。

4234:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」

心の内側でうごめく欲望が、欲しても得られないというストレスに直面した時、欲望が武装して出撃し、仕舞いには人を殺すまでに至る。熱望しても熱望してもどうしても手に入れられない悔しさは、争ってでもそれを手に入れたいという攻撃性を正当化しながら自分を駆り立て、実際にそこから争いが巻き起こる。本当にそうなのだと思います。そして御言葉は、さらに的確に教えてくれます。「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」得られないのは、自分の攻撃力不足によるのではない。敵の圧力が強大だから手に入れられないのではない。それは、第一に、惜しみなく与えてくださる神様に、ちゃんと願い求めないからだ。この2節の御言葉を読む時には、「願い求めない」という言葉の前に、「惜しみなく与えてくださる神様に」という言葉を補って、「得られないのは、惜しみなく与えてくださる神様に願い求めないからで、」と是非読んでください。

そして、得られない第二の理由は、そもそもその願いを、自分の楽しみのためという、間違った動機で願い求めるからだと言われています。ですから、自分のためにという欲望を捨てて、神様のためにという動機でスタートして、それを神様に対してきちんと祈り願うならば、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」と主イエスも約束してくださっているように、そういう心で神に願うなら、それは得られ、与えられます。

私たちの心に、深く注意を払ってくださっている神様は、それゆえに、動機の深いところを重要視されます。それゆえ、今朝の56節の言葉が語られているのです。4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」」神様は、私たちの内側に、聖霊をなる神を住まわせてくださっており、そして、もちろん神様は御自身の聖霊を、その住処であるこの私たちのこの心もろともに、ねたむほどに深く愛してくださっています。ですから、その神様の聖霊が宿っている大事な、神様が深い愛を注いでくださっている私たちのこの心が、6節にあるように、もし高慢になり、自分だけのための楽しみを追い求め、聖霊なる神様の思いとは逆を行くような、自分中心の、自己満足を追求するという欲望に満たされてしまったら、それは、聖霊を送ってくださっている神様にとって我慢ならないことであるし、反対に、この心が神様の前に謙遜になり、本当に神様が願われることをこそ求めるような心になるなら、この心に与えられている聖霊なる神も喜んでくださるでしょうし、もちろん神は、もっと豊かな恵みをくださるのです。

そして、この言葉に続いて、今朝の48節から10節の間には、なんと10個もの命令形の動詞が散りばめられて語られています。7節から10節をお読みいたします。4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」

「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。」という9節の言葉の意味が少し分かりにくいかもしれません。これは、傲慢で、いつも自分の楽しみばかりを求めてしまう、そういう自分に対して、悲しみ、嘆き、泣きなさいということです。自分を誇る高笑いと、上から人を見下ろす冷ややかな笑いを悲しみに変えて、自分だけが悦に入り、自分だけの快適さの中で喜ぼうとするその喜びを、愁いに変えなさい、ということです。

 

 今朝、なぜ聖書はこんな風に色々と、私たちの心の深い部分を詮索し、ほじくり返して攻めるようなことをするのでしょうか?それは、それによってどうしても実現したい目的があるからです。そしてその目的とは、平和です。私たちのこの主イエス・キリストの教会が、平和であるために、洗濯洗剤のCMではありませんが、繊維の奥から汚れを除去するようにして、私たちが心の奥で神を求め、神に願い、神様の前にへりくだって、心を清めて、神に近づくならば、神も近づいて来てくださる。もっと豊かな恵みをくださり、私たちを高めてくださる。

 そして、そうやって神様に恵まれ、高められる私たちがやるべきことが、平和な教会を作ることなのです。どんな教会が理想の教会なのか?今朝の3章の16節から17節の御言葉にそれが表されています。3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」

 ここで言い表されている教会とは、各自それぞれの心からねたみや利己心現れ出て、混乱が引き起こされてしまう教会ではなく、利己心と反対の、イエス・キリストが表してくださったへりくだりに、聖霊を受ける私たちもそれをそのままなぞるようにして従って、へりくだりと謙遜で、お互いが自分よりも相手と神様とを大事にする教会です。そこには純真さがあり、温和で、優しく、憐みと良い実りが満ちており、偏見はなく、偽善的でもないと言われています。こんな教会が実現可能なのかなと疑わしくもなってしまうのですが、しかし実際、今朝の聖書のこのやり方でやる以外に、平和を生み出す方法はないのだと思います。各自が自分の心を、御言葉に照らして、そこに根を張っている、自分のために、自分のやりたいように、自分の利益のために、自分の心地よさのために、自分の欲しいものをという、動機の深いところをよく見て、心の中の争いの種を根本から除去するということでしか、平和は実現されえないのだと思います。

 国際情勢を考えても、議会制民主主義という政治形態を見てみても、板宿教会の現実を見ても、さらに自分の家族や、極めて近い人間関係の中のこれまでとこれからのやり取りを考えてみても、皆が自分の欲望願望に従って、それを通すために、欲望に武器を持たせてそれを突き付けあったら、平和などどこにもなくなりますし、一方がもう一方を、力でねじ伏せ論破して、一方が勝って、負けた方が退場して立ち去っていくという結果で事態が収拾したとしても、それを聖書は、温和で優しく、憐みと良い実に満ちた平和とは呼びません。

みんなが、自分こそが正しいと主張して、自分の筋を通す時、利己心からの争いと混乱が生まれます。この対立状態の原因は人にあるのではなくて、自分の思う通りに人を動かしたいと願う自分の欲望にあると自覚した時に、初めてそこに平和への糸口が現れます。そして自分を貫くことよりもへりくだる方が、自分の筋を通すのではなく、神様の筋に従うのが、間違いなく神とキリストに近づいていく方向です。最後に318節を見てください。3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」ここには、平和は蒔かれるものだと言われています。平和は、平和の実現を信じ願う人々によって、平和を求めるという根本的な動機を持つ心によって、蒔かれるのです。

どういうことでしょうか?平和は、その完成品がどこかで販売されているから買ってくればいいというものではなく、それは自分で手をかけて、日々育てて成長させていくものだということです。蒔くということは、種を植えることですから、芽が出るまでじわじわと時間がかかる。少なくとも蒔いたその日その瞬間に結果は出ません。しかし時間をかけてきちんと育てるなら、芽が出て、何倍にも大きく増え拡がって、さらなる実を実らせて、もしかしたらそれは大きな木になって、私たちがここにいなくなった後の時代の見ず知らずの人々にも引き継がれて、豊かな実りをもたらすかもしれない。

 平和を蒔くということは、目にも見えなければ、即効性もないような、地中に種を埋めるような、小さく地味なことなのかもしれませんが、しかしそれは、未来の世界と、将来の私たちを大きく変える力となります。

 ロシアのウクライナ侵攻のニュースを横目で見ながらの私たちの日々ですが、聖書の時代から、世界は今に負けず劣らず、常に戦時中でした。しかしこの争いを作っている根本が、目の前の問題や戦いの原因が、自分のこの心の内部にある好戦的な欲望に起因しているということを、今朝私たちは新しく知りました。

そしてその欲望の反対がへりくだりです。神様の前にへりくだるということは、何も卑屈なことではなく、ただの謙遜さというつまらないことでは全くなく、それは、キリストを知る人にこそできる全く新しい生き方です。私たちは、へりくだりで、自分の欲望を除去し、もっと言えば、へりくだりを、新しい自分の新しい欲望とするのです。へりくだりの先にこそ、神の光が見え、平和の光が見えます。へりくだってもっと神に近づいていけば、同時に、神様も近づいて来てくださいます。へりくだることこそが、欲望に抗うことです。その時にこそ、大切な聖霊において、こんな私たちのこんな心を住みかとしてくださるほどに、本当にへりくださって近くに来てくださる主イエス・キリストの神に、私たちはこの心で本当に出会い触れ合うことができます。そして、私たちはある意味で、私たち自身がこの地に蒔かれた平和の種の一粒一粒となって、今週も、豊かな実りに向かって、ここから歩むのです。