2023521日 ヤコブの手紙41117節 「どこに立つのか」

 先週、神学校のリトリートに一泊二日で参加しました。そこで神学生たちと共に、改めて自分の召命、それは神様からいただいた使命ということですけれども、その召命と、自分の賜物というものについて考えて、牧師として歩み出そうと思い立った、そのスタートの時の思いを思い返しました。そして、私は、「平和の道具になる」という、マザーテレサが良く祈ったと言われる、フランシスコの祈りの中のフレーズに背中を押されて、献身しようと思い立ったことを思い出しました。誰かの道具になる。自分が道具として使い倒される、ということは、ふつうはあまり面白くないことなのかもしれませんが、この自分を設計し、自分が生きる意味と目的を知ってくださっている神の道具として、その神様に存分に使っていただける時、その時にこそ、私たちは自分の全ての潜在能力と才能と力と伸びしろを、最大限かつ有効に生かすことができます。

であるならば、私たちそれぞれに与えられている力や得意分野や才能、賜物は、それは、自分自身のためというよりも、神様と、それから人に与えて、発揮するための賜物ということになります。

そして、そうやって神様と人のために生きることによって、神様と人に喜んでもらう方が、自分のためにこの命と力を使ってそこで感じる喜び生き甲斐よりも、遥かに大きな人生を貫く生き甲斐と喜びになります。なぜなら人は、神に仕え人に仕え、そして自分を愛するように、神を愛し人を愛するときにこそ、本当に人間らしく喜んで生きることができるようになる、人間はもともとそのように創造されました。

 

今朝の11節から17節には、「兄弟を裁くな」「誇り高ぶるな」という表題が付けられています。そしてここで問題になっているのは、どちらも、自分の立つ立ち位置の問題です。兄弟を裁くな、と題されている11節から13節では、他人との関係における自分の立ち位置が問われ、そして13節からのところでは、神様に対する自分の立ち位置が問われています。そして結論としてはもちろん、私たちは人の上にも神の上にも立つことはできないということなのですけれども、しかしそう言われたからとて、なかなかそうできるものではありません。そして実際に兄弟姉妹を裁く、悪口を言い合うということが、教会で起こっていたからこそ、ヤコブはこの手紙を書いて教会に書き送っているわけです。

11節を改めてお読みいたします。4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」

裁くという言葉は、区別し、えり分けるということです。ですからそれは、人を悪い意味で決めつけて、あいつは駄目な奴だとレッテル貼りをすることです。そしてその場合、自分は裁く相手よりも上に立って、マウントポジションを取ることになります。しかもここで律法という言葉が引き合いに出されていることから、これは、教会の中で信仰者同士が、ただの仲たがいというよりも、聖書を盾に取って、あの人の信仰は間違っている、この教会の信仰は間違っているなどと言いながら、信仰的神学的にマウントを取り合っている状況なのです。普通にどこの教会でも起こっていることです。悲しいかな、日本には教会の数が少ないにもかかわらず、分裂してしまう教会の何と多いことでしょう。そしてその分裂の原因は、隣人に対して、この私が、どんな立ち位置に立つのか?なのです。先週も同様のことが語られていましたが、教会の分裂の原因は、あの人、この教会というよりも何よりも、この私なのです。124:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」

 「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」Who are you?と、御言葉は私に問いかけてきます。私は一体、何者なのでしょうか?

 

 そして次の13節以降で問われるのは、What is your life?です。1314節をお読みします。4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」

 What is your life?という言葉が隠れているのは、この14節の御言葉です。それが良く分かるように14節を直訳するとこうなります。「あなたは、明日がどこにあるのか知らない。What is your life?あなたの命とは、何ぞや?あなたは、現れた瞬間に消えてなくなる霧である。」

 13節には、商売人らしき者のセリフが語られています。商売という言葉の背後には、金の存在があり、お金に依り頼む拝金主義的傾向がこのセリフには垣間見えています。そして確かに、お金というものは、自分の人生と命を支えて、コントロールすることさえできるかなり大きな力です。ですからお金が豊かにあれば、かなり人生が安泰で安心できるような気がします。そこで思わず、私たちは13節の商売人のような言葉を口走ったりしてしまいがちです。しかし、もちろんお金で解決できる問題というものは、実は色々な出来事のごく一部でしかなく、一生に必要なお金すべてを、既に今銀行に預金できているような人は、ごくわずかでしかありませんから、お金にある程度の人生を支える力があったとしても、大半の人は、一生安泰だと言えるだけのお金を持っていないのが現実です。お金が今はないので、念のために保険に入る。将来のために株を買っておく。将来仕事に困ることが無いように、資格をたくさん取っておく。ある本に、拠って立つ根拠をたくさん持っていれば持っているほど、その一つ一つが揺らいでしまえば、不安が増大し、もっとより多くの安心を得るために、拠り頼むものを増やして、さらに強化しなくてはならなくなる。だから、拠って立つものを増やせば増やすほど不安や心配は増大してしまうのだ、というようなことが書いてありました。

そこで聖書は語ります。What is your life?あなたの命とは、何ぞや?それは霧でしかない。ではどんな風にすればいいのか、この商売人とは違う、どんなセリフを語ればいいのでしょうか?その答えが15節です。4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。」しかし、聖書のここのところはちょっと意地悪ですね。15節で、「あなたがたがはこう言うべきです。」と誘導しておきながら、そのセリフを語っているその瞬間において、しかしあなたがたは実際には、164:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。」と、こき下ろされてしまいます。結局、口先で、「主の御心であれば」と口走りながらも、しかし実のところこの私たちのこの心は、傲慢さや高ぶりから離れられないわけです。そしてその傲慢さこそが、悪なのです。この言葉に続いて、今朝の最後の17節でダメ押しのように語られています。4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」17節で、「人がなすべき善」と言われているところの、善という言葉の第一の意味は、美しさという意味です。その次に、質の良さ、尊さ、気高さという意味が続きます。つまりこの善、気高さ、尊さ、美しさとは、私が、あなたが、自らの立つべき立ち位置を、人の前に、そして神様の前に、きっちりと守りわきまえて歩むという気品、美しさであり、それが、人間の本来の生き方に相応しい人生の質なのです。そういう人間としての人生の質を失った、傲慢で、人と神の前にしゃしゃり出てマウントを仕掛けるというがめつさ、さもしさというものが、アダムとエバに現れた最初の神への反抗もそうでしたが、それこそがまさに罪なのです。

私たちは、自分でも驚くほど本当に自然に狡猾に、人に負けまいとし、人の前にしゃしゃり出ようとし、人を裁いて、人を決めつけてしまいます。そして本当に、意識することなく自然に、神様抜きで明日を考え、神様という言葉を口にしていながらも、自分に引き付けた、神のための道具となることとは反対の、神を自分のための道具にしてしまおうという魂胆を、いつも心の奥に潜ませています。

 

どうしたらよいのでしょうか?私たちは自分の力で、この自分の方向をうまく変えることが、難なくできてしまうような、そんなやわな罪人では決してありませんので、神様の助けが必要です。

 私たちはどこに立てばいいのか、その正しい立ち位置を見失ってしまっていますので、聖書を通して神様にそれを教えていただかなければなりません。身をもって罪を贖い、人間があるべき本来の立ち位置を示してくださった主イエス・キリストの背中を追って、主イエスに倣って生きていくほかに、私たちは正しい立ち位置を見出すことができません。そして、私たちは、主イエス・キリストが為してくださった、正しい裁きを受け取ることで、その裁きで人を裁き判断していく外ありません。

 キリストの裁きは救いの裁きであり、赦しの裁きです。キリストは他者のすべての罪を御自分に担わせて、その意味で唯一最低最悪の罪人というレッテルを自分自らに貼り付けて、最低最悪の神に呪われた罪人が貼り付けになる十字架に、自ら上ってくださいました。主イエスは裁きを自分に引き受け、人を裁くことなく、人のことは赦してくださいます。子のキリストの救いの裁きと、罪の完全な赦しに与ったのが、教会の兄弟姉妹です。ですから、私たちが、マウントを取り合って、悪口を言い合うことはできません。

 

 そして主イエスは、神様に対して、天にましますわれらの父よ、と祈ってくださり、その「われら」に、この私たちの含めた上で、天におられるわれらの父よと、私たちも主イエスと声を合わせて祈ることを許してくださいました。私たちの肉親以上の父親として、天におられる私たちの父は、私たち神の子どもたちの明日のことを用意周到に計画し、私たちの明日を懇切丁寧に準備し、備え、整え、守ってくださいます。

 主イエス・キリストは、復活して天に昇られる直前、マタイによる福音書の最後の言葉で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださいました。これは、この春に行われた中高生の修養会で使ったスライドなのですが、いつもあなたがたと共にいる。という言葉は、直訳すれば、「世界の終わる日まで、その全ての日々に、あなたがたと一緒にいる。」という言葉になります。

 私たちは明日のことを考え、計画を死、時折、ぎっしりと詰まったスケジュール帳を見て、ため息をつきながら、頭を抱えてしまうのですが、そこでついつい、「世界の終わる日まで、その全ての日々に、あなたがたと一緒にいる。」という主イエス・キリストの言葉を忘れてしまい、キリスト抜きのスケジュールを考えてしまいます。しかし私たちのこの毎日の忙しいスケジュールの本当の姿は、決して冗談ではなく、本当にこの、何よりも主イエス・キリストが毎日の中に共にいてくださっている日々で、ずっと埋め尽くされているのです。私たちは今週も、その中を歩みます。

 先週の最後の410節の御言葉に、4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」とありましたように、奢りを捨てて、神様の前に、主イエス・キリストのごとくへりくだり、平和を旨として、赦しの眼差しで、兄弟姉妹よりも低きに歩む時、そうすれば、しかしその時私たちは、神様が起こしてくださる不思議な逆転によって、不思議と大きく広い神様の肩の上に高められ、神様の御心と良き御計画に支えられて、歩むようにされるのです。

 へりくだりながら、神様の道具として、神様の御用のために用いられるという、そういう意味での尊い歩みを共に歩み、神様の美しさを証ししていく者とされたいと思います。