202364日 ヤコブの手紙5章1~20節 「何に目を留めるか」

 今朝は、ヤコブの手紙5章を一気に最後まで読みましたけれども、ここには、私たちの人生にとっての、大きな二つの問題が並べて論じられています。それは、富と病という大問題です。一般的には、富は良いものであり、反対に病は悪いものです。しかしその見方は、今朝の御言葉には当てはまりません。今朝の御言葉は、富を悪いものと見なし、そして病を、祈ることによって神様に繋がるための良き機会と見なします。なぜなら富は人間を神様の前に傲慢にし、逆に病は、人を神様の前にへりくだらせ、謙遜にさせるからです。

 

 「何に目を留めるか」という説教題を今朝は掲げましたけれども、5章の1節から6節には、富に目を向けている人の生き方が書き表されています。人の目は二つありますけれども、この二つの目で二つのものを見ることはできません。このヤコブの手紙の背後には、主イエスの山上の説教の教えが深く流れていると言われますけれども、確かに主イエスは山上の説教で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。あなたがたは、神と富とにつかえることはできない。」と言われました。富に目を留める時に、この目は神様から離れてしまいます。そして目に見えない神様の、目に見えない天国での永遠の救い、神様の命、神様の愛に、目を留めることができなくなってしまいます。富が、それを天国まで持って行くことのできない、やがては朽ち果て錆びてしまうものであることを、私たちはもちろん十分に知っていますけれども、しかし富にはある力がありますから、それは私たちをひきつけてやまない。富は私たちを神様から引き離してやまないのです。

 もちろん礼拝でも献金はしますし、富や物資が無ければ生活が成り立ちませんので、富や物自体は決して悪いものではないのですけれども、しかし問題は、それを豊かに持っているならば、それが幸せであり満足であり、そこで、もはや神は必要ないと考えてしまう、富める自分への過大評価と神なき自信。問題は、富を持つゆえの、実のところは人間の度を越してしまっていると言える傲慢さです。

 

そして、今朝の5章の後半では、これも私たちそれぞれの人生の大テーマである、病の苦しみという問題が扱われます。その前後半の二つのテーマを、11節で語られているヨブの事例が結び付けています。ヨブも、巨万の富を持つ裕福な人でした。しかしその富という祝福がヨブから消え失せ、重い病によって彼ががんじがらめにされることによって、ヨブの神様への信仰が試みられました。ヨブは苦難の中、死にたくても死ねないという状況の中で、その苦しみに耐え続けながら、なぜだなぜだと、自分の正しさを主張しながら神様に訴え出ました。しかし、富を失い病を得たヨブが、苦しみを神様に訴え続けたという事柄自体が、ヨブの、非常に真剣な、命がけといってよい程の、神様との対話と祈りを生み出しました。そして最終的にヨブは、神様の愛と憐みを知り、それを身に受けたのです。それは、11節が次のように語っている通りのことだと思います。115:11 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」

 

続いて、後半部分の13節から16節を改めてお読みいたします。5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」

ヨブもそれに苦しんだ、特に病という問題が語られています。病が人をへりくだらせ、謙遜にさせると先程申し上げたのは、病気が私たちに、人間の限界を突き付けるからです。それは根本的にお金でどうこうできるものではありません。それが癒される病なのかそうでないのか、それは最終的には神のみぞ知る。それは、最後の所では神様にかかっている、神の領域にあることです。だからこそここで、神に祈りなさいと言われています。

そして、ここでひとつ注目したいことは、ヤコブが、病院に行って医者に見てもらいなさいとは敢えて言わずに、もちろん病気になったら医者の所に行く必要があるのですけれども、しかしそれよりも大切なこととして、14節にありますように、何よりも、「教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」と言われていることです。教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらうということは、病気をただ、病院での医療の問題とはせずに、それを教会の宗教的な問題として、祈ることが必須の事柄として受け止めなさいということです。つまり病を、何よりも神様との間の信仰的な問題として受け止めなさいということです。教会の中に病気で苦しんでいる人がいたら、教会の長老たちが出て行って祈らなければならないという、それは個人的な問題ではなく、教会全体の問題なのです。そしてそうやって、教会全体の祈りとして、病者のために祈り、苦しみの中にいる人のために祈ることによって、主なる神様がその問題を引き受け、医療を用いて、さらに医療と人間の力の限界を超えて、神様がその人を起き上がらせてくださる。そして、もしそこに罪があるのであれば、身体的痛みの問題だけでなく、心の重荷や咎という、罪の問題についても、それを赦してくださる。そうやって祈りを聞いてくださる神様は、その人の全体をいやしてくださるのです。

 

そしてここで、今朝の富と病という二つの問題を結び合わせる、重要なジョイント部分となっている御言葉に目を留めたいのですけれども、今朝の御言葉を読み解く大きな鍵になる御言葉が、少し戻った12節に語られています。12節を改めてお読みいたします。5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」この12節の言葉は、私たちの目を、富ではなく、またこの目に見える世界にではなく、自分自身の力にでもなく、ただ神様にだけ向けさせる、そういう言葉です。そしてこの言葉とほとんど同じ言葉を、マタイによる福音書5章の山上の説教で、主イエス・キリストも語られました。5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」」

どういうことでしょうか?まず誓うことの禁止が語られています。誓うということは、将来を決め切って、確約することです。しかしそれは神の領域に属することであるゆえに、人間にそれはできないのだ、と言われています。そしてそれゆえに、神様が与えてくださる、富のあるなしや、病気のあるなし、苦しむ状況も、喜んで賛美できるような時も、その様々な現実に対して私たち人間にできることは、ただそれを、与えられるままに受け取ることなのだ、ということです。神が然りと言われるのならば、私たちもそれに従って然り、YESと言う。そして神が否とされるのならば、私たちもそれに従って、否、答えはNOだ!それは駄目だ!無理だ!ここは止まれだ!と受け止める外はないということです。これは、神様が御心から下してくださる、神様のYES/NO判断への信頼です。私たちが、この病気は無しだ、この貧乏は不当だ、逆に富があるならそれをもって享楽にふけることは正しいことだ、などと自分で判断し、確約し、自分の規準で然りと否を決めることは、ならない。富も貧しさも、健康も病も、それらは人生につきものですけれども、大事なのは、かつてヨブも1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と語ったように、苦しみも喜びもつきもののこの人生の中で、この人生に起こり来る苦楽や喜怒哀楽の時に、その背後におられる神様に目を留めること。病も、それを神様から受け取って、人生の酸いも甘いもそれをそのまま神様から受け取って、それを神様からの御心を、神様のメッセージを受信するための大切な機会にすること。大事なのは、そうやって人生のすべての局面で神様に目を留めて、そこで神様に従って、神様から離れず、神への信頼を捨てずに生きるということなのです。

 

そして今朝は、ここからさらにもう一歩踏み込んで御言葉を捉えたいと思います。それは、神様の然りと否には、その先があるということです。聖書は、「否は否としなさい」という言葉に続けて、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。」と語っています。そして、祈る者には、いやしが与えられると約束してくれています。さらにヨブが祈り忍耐し続けて、その結果としてどうなったのかを語る11節に、「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」と、神の慈しみと憐みの深さを強調する文章が今朝の御言葉には置かれています。これはどういうことなのでしょうか?

ここで聖書が訴えようとしていることは、主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方であられるゆえに、神様は祈る私たちの声を聞いて、病気、躓き、罪という「否」を、「然り」に変えてくださるのだ、ということです。そして実は、神様の神様らしい偉大な力は、天変地異や森羅万象を統御する時にではなく、むしろこの「否を然りに変える」という、まさにここにこそ最も力強く鮮やかに現れるのです。

この私たち一人一人も、かつては皆例外なく、否であり、NOを突き付けられてしかるべき罪人でした。しかし主イエス・キリストの十字架によって罪赦されて、神様にとって然りである、救われて正しい者として永遠の命に与ることのできる正しい人とされました。16節に、「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」という有名な御言葉がありますが、この正しい人とは、無罪潔癖な人という意味ではなくて、キリストによって罪赦された、罪の赦しの体験者、赦されて義と認められた、かつては否であったけれども、義認の恵みを受けて、正真正銘の然りに変えられ、正しいとされた人という意味です。

自分自身からして、否から然りへと救われ、赦され、いやされ、正しい者だと、義だと認められて、主イエス・キリストの神の慈しみと憐みの深さを知っている人が、その恵みの神のいやしを信じて祈る祈りには、もちろん大きな効果がありますし、神様は、義とされ、神の愛する子どもとされたその人の祈りに、耳を傾けて下さらないはずがありません。

私たちが神に祈るのは、神様がその慈しみと憐みの深さによって、否を然りに変えてくださる方であることを知っているからです。何百人という敵の預言者集団にたった一人で向かって行って勝利したエリヤも、祈りでそれをなしたように、否を然りにという神様がおられるからこそ、私たちも祈りを祈れるのです。

最後の19節20節には、NOYESに、否を然りにという逆転が、私たちのこの具体的な教会の中でも起こるという約束が語られています。このヤコブの手紙が再三描いてきた、この教会の中での、私たちの兄弟姉妹の間での、不和やいさかいという問題があります。教会といえども、そこで生じるのは罪人同士の接触ですから、躓きが起こりますし、お互いに否を突き付け合い、NOと言い合うことで教会から疎遠になったり、病や苦難も絶えずやってきあすので、その中で、私たちが自分自身にNOを突き付け、もう駄目だ、もう疲れた、ギブアップだ、となってしまうことも起こります。しかし、実はそこからが、本当の愛と和解の始まりなのだと御言葉は語ります。21節の終わりの、「多くの罪を覆う」という言葉は、ペトロの手紙Ⅰでも同じような言葉で、「愛は多くの罪を覆う」と言われていたことです。

私たちが、自分で罪を犯して、あるいは教会や人の罪に躓いて、もう取りかえしはつかない、駄目だ、終わりだ、絶対にNOだと決めつける時、しかしその人や、その自分や、その教会に対する、慈しみ深く、憐みに富んだ神の御心は、果たして何か?私たちから見ていくらNOでも、神様の深い愛は、そこにある罪を覆い包み、否を然りへと、神様の深く大きな愛ゆえのYESという御心を持っておられるに違いないのではないか?その、私たちの秤を超えた神様の愛の大きさを、教会は、そしてあなたがたは、知っておくべきはないか?

そしてヤコブの手紙は、こういう余韻を残して終わります。まるで、私たち手紙の読み手に、バトンを託すかのような終わり方です。言うことは言った。方向性も示した。主イエス・キリストの神が、愛するあなたがたの祈りを聞いて、あなたがたの明日も、これから先も、ヨブを導きエリヤを支えたように、しっかりと導いてくださるであろう。この手紙の続きは、あなたがたが、自らの行動を通して書き綴れ!とでも言いたげな、唐突で、ある意味少し半端な手紙の閉じ方です。いかがだったでしょうか?これが主イエスの弟ヤコブの手紙でした。ヤコブもこの手紙を通して私たちに再三、「わたしの兄弟たち」と呼び掛けてくれました。主イエスの弟であるこのヤコブの弟たち、妹たちとして、私たちもこの後に続きたいと思います。