202372日 ヨハネの手紙一2章1~11節 「イエス・キリストがおられます」

 二週間空いて、ヨハネの手紙一に帰ってきました。このヨハネの手紙Ⅰが、重大なものとして取り扱っている事柄は、罪です。5章までしかない短い手紙ですが、この手紙には、16回、罪という言葉が使われています。それは、マルコによる福音書よりも多く、ルカによる福音書とほぼ同じ回数です。

 罪というものは、私たちにはなかなか分かりません。それは私たちが、罪の闇の中に浸かってしまっている故です。私は靴磨きが好きで、たまに革靴を磨いたりするのですけれども、ちょっと凝ってくると、買ったばかりのピカピカの新品の靴でも、見栄えを良くするためにワックスを塗って光らせてあることが分かってきます。よって見た目にはそうは見えませんが、その意味では新品でも革靴は汚れていて、そのワックスがひび割れの原因にもなりますので、専用の溶剤を塗布して汚れを浮き上がらせて、まずその汚れを落としてから履き始めます。そして罪も、それを罪と見極めることのできる、罪なく暗闇なき、神様の光なる眼差しからくる御言葉によって、はじめてその汚れが見い出され、浮かび上がるのです。

 さらにヨハネの手紙Ⅰは、そうやって私たちから罪を取り除いて、私たちをどうしたいのかというと、ヨハネの手紙が私たちの罪を除去したい理由は、私たちを愛に生かし、愛に与らせるためです。罪が16回語られることに対して、愛という言葉はこの手紙に二倍の30回出てきます。21章まであるヨハネによる福音書でさえ、愛という言葉が使用されるのは36回ですから、他のどの文書にも勝る勢いをもって、この手紙は愛をとことん語るのです。この手紙の著者のヨハネは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネと同一人物ではないかと考えられています。ですので私たちは、ヨハネによる福音書に結び付けて、ヨハネの手紙を読みたいと思います。

 

 今朝お読みした2章の始めの1節は、「これらのことを書くのは」という言葉で始まっています。そしてこれらのこととは、どういうことだったのかというと、前回の1章で語られていた、主に三つのことです。

 一つは、罪が神と人、人と人との交わりを破壊するということ。二つめは、人は、自分に罪はないとは言うことができず、すべての人に罪があるのだということ。そして三つめは、罪は、それを口に出して神に告白することによって、神の光によって、日光消毒のようにして消え去るということです。

 そして、そういう1章の事柄を書いたのは、その忌まわしい罪を除き去って、罪から離れて、さらに愛を回復し、愛に生きて行って欲しいからだとヨハネは語ります。

 

 ヨハネがこのようにして罪についてこれでもかと語り続けなければならなかった背景には、罪を深刻に受け止めない、当時の時代の人々の考え方があったようです。そこには、グノーシス主義と呼ばれた当時の異端の影響があったと考えられます。グノーシスとはギリシャ語で叡智、崇高な知識を意味します。そしてグノーシス主義者たちは、今の時代にも通じる個人主義の中で、叡智の獲得を競い合っていました。そしてその際に、具体的な人付き合いや、信仰生活や、肉体を伴った生活のあれこれということを軽視して、悪い意味での頭でっかちと言えると思いますが、彼らは哲学的な知恵や悟りばかりを求め、現実生活を軽視していました。そんな彼らは、当然教会や、教会での交わり、隣人との人間関係と付き合いの大切さというものにも無頓着であり、人間関係に争いが生じていたとしても、それに何か問題でもありますか?という風に、そこで、自分さえ良ければいい、自分さえ真理を知っていてグノーシスに至って救われていれば、それで問題はないという、偏狭な個人主義に傾いていました。

 そういう人々の影響を受けていた当時の教会に対して、ヨハネは彼らの考えとは真っ向から反対のことを、この手紙で訴え続けています。

 今朝の後半から先に読みましょう。7節から8節です。2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。」

 グノーシス主義者が、誰も知らないような叡智であり、深遠な悟りを我先にと求め続けたのと反対に、ヨハネは、「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。」と語ります。グノーシスと呼ばれるような、新しい事柄ではなく、むしろあなたがたが聞いたことのあることを、むしろそこにこそある本当の叡智を、私は改めて書き送る、とヨハネは言います。

 そしてこの次にヨハネが語るのは、グノーシス主義者たちが軽視していた教会における具体的な人間関係であり、そこに生じる不和についてです。これは、自分が光の中にいると信じ込んでいるグノーシス主義者たちに対する、強烈な皮肉の言葉です。9節から112:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」

 つまり、神様の救いと命に至るということは、知識云々、グノーシスがどうこう、ということではなくて、すぐ隣にいる人を愛するのか愛さないのかという、極めて具体的なことで決まるということです。よって具体的にどう生きるかが、教会の仲間や、家族や、職場仲間や、友人知人とどう付き合うかが、実に自分の救いと命にかかわることなのです。 ヨハネの手紙は、罪の危険と、愛と救いを、決してただ観念的にだけ捉えることをしないで、とても具体的なかたちで突き詰めて考えています。ヨハネが、古くからあった新しい掟と呼んでいるのは、それは、互いに相手を愛し合うという、主イエスも語られた旧約の律法の掟でした。そしてもし、その互いに愛し合うということが、実際に成り立っていないのであれば、そこには罪があって、罪の悪い力が病魔のように働いていて、その人は罪故に、神と人との交わりから断絶されてしまっている状態なのだと、ヨハネは指摘します。

 

そしてヨハネの手紙には、今お読みした部分もそうですが、人は救われているならば、何々している。人が救われていないならば、何々している。という風に、人は、何々ならば、何々している。という言い回しが、繰り返し出てきます。

内村鑑三は、この事についてこう言っています。「たとえば男に向かって男らしかれ。なんじはすでに男なりといい、また女に向かって女らしかれ。なんじはすでに女なればなりというがごときはこれである。これ決して不合理でも前後矛盾でもなく、かえってすこぶる有力な勧めの道たるのである。罪のしもべたるなかれ、なんじらはすでに罪のしもべにあらざればなり、というのはこれである。神は命令を下すと共に、これを実行しうる状態に人を置きたもうのである。ただの命令ではない。命令に実現が伴うのである。きよくならんと務めよ。神は必ずきよくならしめたもう、と言うのである。」

 罪から離れて愛し合うことが、良いことであり、私たちの為すべきことであるのは当然です。しかし私たちはキリストの助けなしに互いに愛し合おうとするのではなくて、キリストにその実現を助けられながら、その中で愛に生きる者とされていくのです。

 

 改めて、今朝の中心は12節に違いありません。2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」

 主イエス・キリストがおられるということは、本当に素晴らしいことです。私たちが人を愛せなくても、いつものように、懲りずに人と争っても、そうやって罪を犯して、闇を生み出しても、そこには弁護者であり、正しい方であり、この私の罪だけでなく、全世界の罪を償ういけにえであられる主イエス・キリストがおられます。主イエスが、罪を犯す私たちをかばって、弁護してくださる弁護者であられるだけでも頼もしいことですのに、神の右の座におられる方として主イエスは裁判官の務めもなして、私のために救いの裁きをしてくださり、さらに主イエスは、連帯保証人にも、身元引受人にもなってくださり、主イエスはなんと、私たちの代わりに実際に捕まってくださり、牢屋にまで入ってくださいます。そして、それだけでなく、私たちの罪を償ういけにえとして、十字架にまでかかってくださり、私たちの身代わりに、十字架で死刑にまでなってくださいました。たとえ罪を犯しても、このキリストがおられます。そしてこのキリストがおられることを本当に知っているなら、罪に無頓着、無感覚ではいられない、のうのうと罪に浸り、罪を犯してなどいられないのです。こういう主イエスがおられる、ということに、私たちはもっともっと頼って良いし、頼るべきだと思います。

 

宗教改革者ルターは、ある時、罪に悩み続ける友人のシュパラティンに、以下のような手紙を送りました。

「私の愛するシュパラティン、私が思いますのに、あなたは、罪との戦い、良心の苦悩との戦い、あるいは、律法の告訴に対抗する戦いにまだ熟達しておられません。・・・これまで、あなたはあまりにもやさしい心を持った罪人であられました。そのために、ほんの小さな罪のために、ひとりで良心を悩ましてこられたのです。

それ故に、私の心からの願い、また警告はこれです。どうぞ、私ども、とんでもない罪人たち、頑迷固陋(がんめいころう)な罪人の仲間入りをしてください。そのようにして、キリストを、絵空事の、子どもっぽい罪からしかk救い出すことができないような、小さな、頼りない存在にしてしまわないようにしてください。そうです、それはとんでもないことです。そんなことをすれば、私どもの益になりません。そうではなくて、キリストは神からの救い主として私どものところに遣わされた方です。キリストだけが救いうる方です。正しく、とんでもない大きな罪、重い、呪われるべき違反、罪の業から救いうる方です。キリストは、最大、最悪の、要するに、地上の罪すべてを犯した者をも救いうる方です。」(クリスティアン・メラー『慰めの共同体・教会 -説教・牧会・教会形成-』加藤常昭訳、教文館、2000年、216頁)

ルターはこの手紙で、シュパラティンに、罪を大きくせよと、勧告しました。私たちはしばしば、その罪が大きくなることを嫌い、自らで罪を小さくしようとし、キリストだけが自分の救い主であられるにもかかわらず、それとは他のところで自分を救おうとしてしまうことがあります。シュパラティンの場合、彼は精神の病に陥るほどに自分自身を責めていました。しかしルターはそれを咎めて、罪を自分の力で処理しようとするのではなくて、罪は罪として、罪は罪のままそれを受け止めて、それをそのままキリストに差し出すべきだと語っています。「どうぞ、とんでもない罪人の仲間入りをして、立派な罪人として神様の前に立ってください。そして、そういった意味での思い切りを持って神様の前に立つときにこそ、主イエスの十字架の救いの力強さに与れるのだ。罪と取り組んで、罪との戦いを戦って、それに打ち勝つということは、実はそこでこそ起こるのだ。自分自身の力で罪と戦わずに、全面的にキリストの力を罪と戦わせて、そこに救いを得ていくべきだ」と、ルターは語りました。

イエス・キリストに救われて、主イエス・キリストだけをテコにして立ち上がり、死から起き上がって復活へと至るのが、クリスチャンと呼ばれる私たちの生きざまにほかなりません。その点、主イエス・キリストに依り頼んで、この方に罪を赦していただいて、この方に救っていただくことについて、遠慮は全くいりません。

 そして、そうやって、主イエス・キリストに密着して生きている人こそが、56節に言われている、神様が内側に共に生きておられることを知って、神様に従っていく。キリストの深い愛に触れ続け、愛され続ける中で、互いに愛し合う者として生きていく、という道を歩むことができるのです。

 

 How to本というジャンルがあります。「本気で変わりたいための、今日からできる何々術」というような本が巷に溢れていますが、しかしそういう本は、いわゆるHow toだけを示して、あとは何もしてくれません。私も好きで時々読みますが、まだ何もしていないのに、読んだだけで何か自分が変わったような気になってしまいます。しかし聖書は、目標と方法をだけを示して、天国を目指して、このようにやれば死を乗り越えられるから、ではそういうわけだからあとは自分で頑張ってね、とは語りません。ヨハネによる福音書で主イエスは、「わたしが道であり、わたしが真理であり、わたしが命である。心を騒がせなくてもよい。神を信じ、わたしを信じなさい。わたしが言うのを信じなさい。」と語られました。つまり主イエスは、わたしに任せなさいとおっしゃって、私たちを引き受けてくださり、「目標についても、方法についても、道順についても、そしてそこに向かっていく力についても、道であるわたしが、正しい真理そのものであるわたしが、命そのものでもある私が、全て備えて、あなたの手を引いて、一緒に行ってあげるから、あなたは心配しないで、心騒がせないで、あなたの内側にも働いて生きている、このわたしを信じ、この私だけを見て、わたしに従いなさい。」と、全てを引き受けてくださいます。つまり聖書が語るのは、道徳でも人生訓でもHow toでもなくて、救いです。そしてその救いとは、主イエス・キリストがおられますとうことです。救いは、救い主主イエス・キリスト、すべてこの方にあるのです。

 

 私たちそれぞれの人生、長かったり短かったり、苦労が多かったり楽だったり、富んでいたり貧しかったり、健康だったり病があったり、皆違いますけれども、同じことがひとつある。それは、この私たちの生も死も、罪の問題も救いも命も、すべてこの主イエスによって引き受けていただけるということです。それがどんな人生だとしても、他の何かが人生の決め手になるのではなく、主イエス・キリストこそが、私の人生の決め手となってくださいます。私には、主イエス・キリストおられる。これを、消えない慰め、自分の土台としたいと思います。