ヨハネの手紙一3:11~24 「神は私の心より大きく」

 今朝の御言葉が問題としている現場は、私たち自身の心です。洗礼式が今行われましたが、その日に相応しい御言葉が与えられました。今朝洗礼を受けた姉妹の心に、初めてこの教会に来られた一年前から今日までに起こった大きな変化が、今朝のこの御言葉に言い表されています。

 今朝のこの御言葉は、一言で言って、人を愛するか、愛さないで逆に憎むか、どっちを取るのかという二つに一つを、私たちに問うている御言葉です。今朝の始めの11節に、「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。」とあります。今朝の御言葉には、教えとか掟とか、行いという言葉が繰り返されます。互いに愛し合うということは、私たちにとって、してもしなくてもいい選択可能なことではなくて、できればしましょうというような努力目標でもなくて、神を知る者が初めの時からわきまえ知っていなければならない、最も重要な掟なのです。

 しかしその大事な掟を、神様を知らなかった時の私たちは、分っていませんでした。私たちは、互いに愛し合うよりも、互いに憎しみ合い、競い合い、マウントを取り合い、どっちが上か下かということでしか、人を見ていませんでした。人を愛するということも、そういう競い合いと自己利益のために使っていました。愛してあげたのだから、相手は当然恩返しを私にしなければならないはずだ。あれだけの恩を仇で私に返すなんて、人として信じられない。あの人に裏切られた。かわいそうに、私は孤独だ。誰も私を分かってくれない。なぜをそうやってすねるのかというと、見返りを期待しているからです。私たちは、「愛している」「あなたのことを大事にしている。」と言いながら、多くの場合、自分のために愛している。自分がそれ相応の見返りを当然受けられるものと思って、結局、その見返りのために愛することがある。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」と主イエスは語られました。果たして、それは愛なのだろうか?互いに愛し合うという掟は、そういうことなのだろうかと、聖書は疑義を呈しています。

 

 互いに愛し合うというその掟を破る一つの例が、12節で紹介されています。それはカインの例です。12節。3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」

創世記の4章に、カインが弟のアベルを殺したという記事が出て来ます。カインとアベルの兄弟が一緒に神様への献げものを献げたとき、神様は弟アベルの献げものには目を留められたが、兄であるカインの献げものには目を留められなかったという、これが事の起こりでした。その途端、カインは激しく怒って顔を伏せました。

カインはアベルと一緒に神様に献げものを献げました。神様はアベルの献げものの方をうけいれられましたが、カインはこれによって何かこの時、悪いことをしたわけではありませんし、神様に怒られているわけでもないのです。ただアベルの捧げものを神様は喜ばれた。けれどもカインはアベルに、「神様に喜んでもらえてよかったね」とは言わず、逆に激しく怒って顔を伏せました。カインの中にこの時渦巻いていたのは嫉妬です。特に男同士の二人兄弟というのは、難しいものがあると思います。兄は、兄としての立場を決して奪われたくない。兄にとって、大事なことであればあるほど、弟に先を越されるということは、それはあってはならないことなのです。

私たちは、心の中に、自分独自で査定してこしらえた、人間関係の番付表のようなものを隠し持っているのではないかと思います。そして自分よりもずっと上にいると感じている人や、また逆に、自分よりもずっと下だと思っている人が、何かの活躍をすると、それは素直におめでとうと言ってあげられるのですが、自分と同じ番付か、あるいは上下ごくわずかな差の、どっこいどっこいの人が思いのほか活躍したり、人に評価されたりすると、素直に喜べない気持ちが芽生えます。

そしてそういう嫉妬を、それが何十年も前に起こったことであっても、ほとんど執念や執着と呼べるかたちで、私たちはそれをずっと忘れないで妬み続けます。私たちは普段、自分はそれ程妬み深い方ではないだろう、それほどは執着心の強い方ではないだろうと自分のことを考えていますが、妬みという感情は、日常生活においてはそれほど深刻な問題にはなっていないように思えて、実はそんなことはないのだと思います。ふと気が付いたら、その妬みと、こん畜生という恨みのパワーでここまで歩んできてしまった、ということも、人生には起こりうることです。

ある説教者はこう語っています。「兄弟を愛さないことは、妬みです。妬みは憎しみです。」さらにこの手紙の3章15節には、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」とまで言われています。愛のないことは妬みへとつながり、それは憎しみへ、そして人殺しへと、一本の線で、イコールでつながれてしまうのです。そしてその言葉の通り、確かに妬みは妬みのままでは終わりませんでした。アベルを妬んだカインは、最後にアベルを殺してしまいました。

 

そんなカインに対して今朝の御言葉が指摘するのは、その行いの悪さです。それは、妬みを生じさせるような現実が起こった後に、それにどう対応するか、どういう行動をもってその現実に答えるのかという部分のことです。実際に創世記で神様がカインにアドバイスされたことも、同じでした。神様はカインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言われて、「罪が今、あなたを戸口で待ち構えている。だからお前は妬みに引きずられて、罪に支配されてはならない。逆にお前の方が罪を支配すべきだ」とアドバイスをくださいました。しかしそれにもかかわらず、カインは、弟アベルを襲って殺すという悪い行いを選んでしまいました。

紀元後70~80年に書かれたこのヨハネの手紙が、ここで突然に、人類最初の殺人者カインの例を引っ張ってくるように、私たち人間は、旧約聖書の創世記から、何千年も前から、本質的には何も変わっていません。そしてこの私たちの現実を考えるとき、「私はこのカインのようにはやらないよ」と、「私はここまで暴力的でも、極端ではないんだ」と、簡単には言い切れないところがあるのだと思います。このカインから始まった殺人の歴史は、未だ終わっていません。殺人は絶えず至る所で為されていますし、それは色々なかたちを取って為されています。世界中至るところで、暴力と戦争は止んでいないどころか、ますます深刻化しています。

テロの撲滅とか、自由のための戦争だとか、正当防衛だとか、戦争の大義名分は色々と可能ですが、突き詰めていくとやはり、自分が先を越されてはならない。自分が敗北者のままでは、やられたままでは済まされないという、妬みや嫉妬や対抗心という部分が大きいのではないかと思われます。

今朝の313節も語ります。3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。」互いに愛し合うのではなく、憎み憎まれ、恨み恨まれ、最後には殺し合うというのが、私たち自身もその中に巻き込まれてしまっているこの世の道理なのです。だから憎まれたって、驚くには値しない。そして私たちは、ほとんどそういうやり方しか知らなかった。そうやってカインのように邪魔者は排除して、お互いに競い合って、打ち負かしてのし上がっていくということが、成功ということであり、強い人間の強い生き方だと信じて、そういう中で、自分なりに一生懸命、必死に歩んできたのです。周りもみんなそうやっているし、自分もこの生き方しか、知らなかったからです。

 

 しかし今朝聖書は、教会に集う私たちに、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えです。それが掟ですと語り掛けてくるわけです。どうすればよいのでしょうか?この私の、小さな狭い心は、どうすれば、ねたみから解放され、恨みから解放されるのでしょうか?私たちは、この自分の傷つきやすい弱い心がつぶれて壊れて消えて無くなってしまわないように、これをどうやって守っていったらよいのでしょうか?

 その答えが、今朝の1920節にあります。3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」

特にこの20節の御言葉は、暗唱しておくのがよいような、大きな慰めを与えてくれる、大切な御言葉です。20節は、19節の後半を受ける言葉です。よって19節後半からつなげて訳し直しますとこうなります。「たとえ心が私たちを責めようとも、神は私たちの心よりも大きな方であって、すべてを知っておられるので、私たちは、神の御前で安心できます。」

 

ヨハネは、私たちの具体的な生活の中での苦悩や難しさを、よく知っているのだと思います。「心に責められることがあろうとも」とは、これは良心の呵責のことです。つまりこのヨハネの手紙のこのような言葉を受け取るときに、私たちはとても妬み深い自分に、愛のない自分の姿に出会ってしまう。それは当然のこととしてある。

しかしそういう良心の呵責を生じさせて、私たちを責める意図で、この手紙は書かれているのではなくて、そこを超えていくために、「たとえ、自分の心が私たちを責めようとも、神は私たちの心よりも大きな方であって、すべてを知っておられるので、私たちは、神の御前で安心できる」とヨハネの手紙は語ります。

 

これは、私たちの心よりも、神様の心の方が大きいという、私の心、対、神様の心の比較ではなくて、神は私たちの心よりも大きな方だという、神様自体の大きな存在と、私たちのこの心の比較です。この「大きい」という言葉は、メガスというギリシャ語で、これはただの大きさというだけでなく、高くて、広くて、偉大で、強いという意味も持っています。そういう神様が、私の小さな心よりも、高くて、広くて、偉大で、強く、それゆえにすべてを知っておられるので、私たちは、神の御前で、安心できる。それによってこの心は落ち着きを取り戻す。

今朝は、旧約聖書の詩編139編も合わせて読みました。そこには、私たちの心よりもずっとメガスな神様のことが、本当に豊かに語られています。せっかくですからもう一度、1節から18節を朗読したいと思います。139:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。139:5 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。139:6 その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。139:7 どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。139:9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも139:10 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。139:11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」139:12 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。139:15 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。139:17 あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。139:18 数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。」

 

やっぱり先週も、何度も海を見に行きました。運動のため、そして何より、神様の大きさを体感するためです。海を見て、帰ってきた時に、必ず、教会と、自分の書斎が、こんなに小さかったっけ?と思うぐらいに小さく見えます。それと同時に、この小さい場所で、小さなことに、妬みや怒りや悩みに一杯一杯になってしまう自分の心に気づきます。最近は、須磨の海もリゾートホテルが建って、海の家もあって人もたくさんいて、ちょっと物足りません。もっと大きく壮大な自然に触れることで、大きな神様を感じたいという思いになりますが、しかし神様の大きさは、壮大な自然を通して感じるべきものではありません。須磨の海よりも、もっとずっと大きな神様には、聖書によって、今朝の御言葉でいうならば、16節の御言葉を通して、深く触れ会うことができます。

16節。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

私の心よりも、須磨の海よりも、はるかに高く深く、私の全てを知っておられる大きな神様が、須磨海岸の広さから見れば、また天の神様の目から見れば、ほんの小さな点に過ぎない、この私の小さな心、そして点に過ぎないこの命を守るために、主イエス・キリストを通して、神自らの命を、捨ててくださった。そのことによって、わたしたちは愛を知った。

もうこれは、ちょっと海を見てきたら、心が晴れてすっきりしたというレベルの話ではないです。天が自分に味方しているということです。神様が自分のために空のかなたから助けに来る。さらにそれだけではなくて、神の御子イエス・キリストが、悩む私を、罪にさいなまれる私を助けるために、十字架に架かってその命を、神が命を、小さな点でしかない私のために、捨ててくださった。しかもそこにこそ、他にはない、変えの利かない純正の、純真な、真の愛がある。その愛を私の心は、大きな神から受けた。つまり私は、点のように、ゴミ屑のように小さいけれども、私は、神が命を捨てる程の私であり、つまらない、価値のない、放っておかれて良いような存在では決してない。

 

今朝洗礼を受けた姉妹は、この神様からの愛を知るに至り、先程の誓約で、自分が神のみ前に罪人であり、そのままでは神の怒りに値するゆえ、神のあわれみによらなければ、自分にはのぞみがない、ということを認め、イエス・キリストが私たちのために捨ててくださったその命を、見事、受け取りました。そして、今日から私たち皆と一緒に、この主イエス・キリストを通して与えられた愛で、互いに愛し合うという、今までとは別の掟に生きる者とされました。

これからも、この心が責められることはあるでしょう。心が悲鳴を上げたり、騒いだり、怒りや妬みに燃えたりすることも、こんな小さな心でも堅く重くなってどうしようもならなくなることも、色々と、たくさんあろうかと思います。けれども、神は、私たちの心よりも大きく、すべてを御存じです。その神が、イエス・キリストを通して、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そこから私たちは、本当の愛を知ったのです。それをもってこの心は、伸びやかになり、柔らかくされ、安心を得るのです。そしてこれが、愛を知るということ、この心が、大きな神様によって救われるということです。