202386日 ヨハネの手紙一319節~46節 「真のスピリチュアル」

 今朝のテーマは、霊に関してのことです。今朝の4章の御言葉の表題には、「偽りの霊と真実の霊」という表題が付けられています。そして41節には、4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」と言われています。

 スピリチュアルという言葉が、日本では2000年代に入ったあたりから使われ出して、今はもう定着していると思います。スピリチュアルとは、占いだったり、オカルトだったり、精神世界のこと、宗教という枠の外での、自分の霊的な世界だったり、宇宙とのつながりだったり、潜在意識であったり、そういうこととの関りについての、既存の枠組みを超えたニューエイジ、サブカルチャー的なもの、それらの総体をスピリチュアル的なものと表現することがあります。そういう意味では、今朝の聖書が、「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」と語る言葉は、今の私たちの現代的な状況とも深く関係することであると言えます。

 さらには、今朝の3節に、「イエスのことを公に言い表さない霊」「反キリストの霊」という言葉があります。英語では、unification churchと、教会と名乗りながら、全く3節の言葉通りの、「イエスのことを公に言い表さない、反キリストの霊」を売り込む「統一協会」「統一家族連合」という、これぞ正しく偽りの霊の働きだと言うべきものが、この社会と人の心を大きく毒している現状があります。そう考えると、今朝の御言葉が私たちに語っていることは、全く昔話ということではなく、これはすごく緊急性のある事なのだと思います。

 

 一言で霊と言っても、それは目に見えない世界での話しであるために、それは自分の日常生活とは関係のないことだと、私たちは思って、つい敬遠してしまいがちかもしれませんが、霊的な世界は、私たちが決して無視することはできない大切な事柄です。なぜなら私たち人間は、極めて霊的な存在だからです。人間は、生物学的には霊長類として分類されて、「人間は万物の霊長である」などと言われますけれども、私たち人間の存在は、ほかのどの生物にも勝って霊的な要素で構成されていると言って良いと思います。そして実際に私たちが感じたり、思ったり、考えたりすることのほとんどは、今こうして礼拝をして説教を聞きながらも、実際に私たちはどの次元で活動しているのかというと、目には見えない霊的な次元で、霊的な部分をもっとも活発に働かせて、今礼拝をしています。礼拝は、脳の中の頭脳の部分だけを使ってささげるのではもちろんなくて、今私たちは、心に触れあう霊的な部分の感性を使って、礼拝をしていますし、礼拝していない時でも、色々と考えたり祈ったり、悩んだり悲しんだり、そんなときにちょっと心がふわっと朗らかになったり、いつも私たちは、活発にそいういう自分の内面で考えたり、自問自答したり、判断したり合点がいったりしている。そしてそういう霊的な部分が、自分の中の、自分の生活の、とても大きなウェイトを、実際には占めていると言えるのではないかと思うのです。ですから、私たちのその霊的な部分が、今どういう状態で、その中身がどうなっているのかということは、自分の日常生活と、生き方に深く関わる、自分にとっての死活問題なのだと言えます。

 

 ですので、今朝私たちは、41節が語るように、どの霊も信じるのではなく、どの霊が神から出て、どの霊がそうでない偽りの霊なのかということをしっかりと確かめて、今朝の46節の終わりの言葉も語っていますように、しっかりと、「真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができる」私たちになりたいと思います。

 

 そこで、ではどうやったら、偽りの霊と真実の霊を見分けられるのかということですが、今朝その答えから先に言いたいと思いますが、それは、マウントを取って、馬乗りになって人を上から踏みつけて、人と争おうとする時、総じてそれは、偽りの霊に導かれた行為だと言えます。そして逆に、真実の霊に導かれるならば、人はマウントを取りません。マウントを取るどころか、逆にへりくだって自分を相手に捧げて、真理の霊に導かれる人は、互いに愛し合うのです。

 

 マウントという言葉も、格闘技で相手に馬乗りになって、マウントポジションを取るという言葉から派生してネットで10年前ぐらいから使われるようになった言葉ですけれども、それは要は、相手に対して優位に立つという言葉です。スピリチュアルという言葉が語られる時も、どうしてもそこでは、スピリチュアルな霊的な力を深めて高めて、人よりレベルの高い魂を獲得し、それによってもっと運を引き寄せて、先を読める力を養って、人よりももっと幸せになるとか、結局はそうやって自分を高めて、マウントを取る、人に勝つ、人より優れた自分になるということが目標になる。やっぱりスピリチュアルでもどうしても、人は上へ上へと、人を押しのけて自分の高みを目指そうとするわけです。

 でも人に勝つために、私たちは生きているわけではありません。では人にマウントを取られたら、人より下になったら人生終わりなのかというと、全くもってそんなことはありません。私たちは競争するために生きているのではない。人に勝つために生きているのでもない。人にマウントなんかとっても、何の意味もありません。それは気持ちの良いことに思えて、実は私たちの心は、この霊の奥底は、人のマウントを取っても、本当に気持ち良くはなれません。私たちの心は元からそういうに造られています。私たちは人に勝つために生きているわけではありません。今朝の4節が語っていますが、勝利は主イエス・キリストが獲得してくださるので、私たちはそのキリストの勝利にあやかるだけで十分なのです。私たちは人と争い打ち勝つために生まれてきたわけではありません。

 

 では何のために私たちは生まれ、生きているのか?ヨハネの手紙一が何度も繰り返すのは、互いに愛し合いなさい、という言葉です。愛し合うとはどういうことか?互いに争いマウントを取り合うことしか知らなかった私たちに、主イエス・キリストは、愛するということはこういうことだと、教えてくださいました。それが先週共に読みました、316節の御言葉です。「3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

 ここに、愛の源があり、主イエスのこの愛で愛し合うことが、私たちの生きる目的です。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と、コリントの信徒への手紙一の13章に書いてあります。夫婦、家族、友人知人、そして神様との間で愛し合うということは、目に見えない、記録に残らないようなことに見えて、ところがどっこい、それが、いつまでも永遠に残り、神様の心に記録され、世界の全てが朽ち果てても、そこでもなおまだ残り続ける、永遠の金字塔になる。

 主イエスは、あらゆる意味でマウントを取ることなく、その逆を行って、御自分の命を、私たちのために、捨ててくださいました。これが真実の霊に基づく、真にスピリチュアルな生き方です。ですから16節が続けるように、「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

 続く、先週は時間の関係で読み飛ばした1718節も、真理の霊に導かれたマウンティングとは逆の生き方を、具体的に語ってくれています。「3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」

お金は、生活を支える力でもありますし、自分の地位や働きを計る秤にもなりますし、お金がなければ命が危ういこともあると考えるならば、命と同様の価値さえも持ちます。そしてそうであるならば、本当に具体的な話しとして、このお金の具体的な使い方に、あなたの命の使い方も現れてきます、と聖書は語ります。どういう風にお金を使うかということに、あなたも主イエスのようにその命を人に与えられるかどうかが、あなたの霊的な状態と愛に生きるか否かということが、具体的に現れてくるとヨハネは語るのです。そして、あなたのお金も、その命も、全ては、実は他人と享有し、人に与えるために、愛し合うために使うお金であり命として、神様からあなたに与えられた恵みの賜物に他ならないと、ヨハネはこのように、私たちに与えられている富についても非常に具体的に、それは人に自慢して人にマウントを取るためのものではなくて、お互いの愛を高めるためにこそ用いるものだと、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」と語っているのです。

 

 しかしカルトや異端は、そうはいきません。カルト宗教や異端も、聖書が書かれた当時に時代を席巻していたグノーシス主義という異端も、霊的な事柄や、救いに関しての事柄は、目に見えないことを扱いますし、またあるいは、未来についてのことや終末についてのことは、結局誰も確かなことは言えないですから、それをいいことに、悪い意味で言った者勝ちというか、どんな荒唐無稽なことでも、我々は真理に基づいており、これは真理の霊による啓示なのであると、自分の霊的な優位性を主張して、そのマウント状態から語り下ろしたならば、追い込まれてしまっている人や、素直な人は、驚き怯えて、それを信じてしまう可能性があります。そうやって意図的・人為的に人の心を惑わして踏みにじる、偽りの教えを蒔き散らすだけ蒔き散らして、本当は人を少しも救わない宗教的な詐欺は、許し難いですし、そこには悪しき霊が根を張っています。

 

 今日は86日です。78年前の今日の午前815分に、広島に原爆が投下されましたから、今日私たちは、平和について考えない訳にはいきません。恥ずかしながら最近になって知ったことですが、広島長崎の他にも、その原爆の前後に、合計49発もの1万ポンド、45トンもの重さの模擬原爆が日本中に投下されていて、怪我人負傷者合わせて1500人以上が傷を負いました。その1万ポンド爆弾は、この神戸にも4発投下されたそうです。そしてこの板宿教会の会堂も、19453月の空襲によって消失しています。教会員からの戦死者も出ました。私たちは今、その戦争の現実の上に立っています。

平和について、聖書は、平和は主イエス・キリストから来るものであり、平和は、そのキリストの愛をもって愛し合う者たちの間にこそ、造り上げられるものだと語っています。この手紙の次の続編であるヨハネの手紙二の始めの13節には、以下のような御言葉があります。「1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」

 放っておいたら互いに競争し合い、張り合って、マウントを取り合ってしまう私たちですから、平和は、ただ呆然と何もせずにいるのでは実現しません。そして平和は、主イエス・キリストの愛に基づく、イエス・キリストの聖霊を受けた者たちが、主イエスが私たちに奏してくださったのと同じようにして、逆マウントを取り合って、互いが下に降って、互いが互いに命を与え合いながら支え合って、富を与え合って、愛を与え合って、互いに愛し合う時にこそ、初めて生まれる、それは自然に生まれるものではなくて、キリストを発端とする心理の霊によって、作り出されるものなのです。

 本当に霊的であるということは、誰も知らない真理を知っているということではなく、すごく深い洞察を持っているということでもなく、自分の未来も人の未来も見通せて、人の人生を指南できるようなありがたい言葉を語れるような、すべてが見通せるような、人より優れた、そんな人が真のスピリチュアリストなのではありません。それが平和を壊し、マウントの取り合いを生み出すようでは、そんなスピリチュアリティは無価値です。そういうことはすごいのではない。騙されてはいけません。それを見分ける方法は、平和を作る人なのかどうか、人にマウントを取る人なのかそうではないか、ということです。実にそこで霊ははっきりと姿を現します。そして、平和を神を愛し人を愛し、自分を相手に与える人、隣にいる人との間に平和を打ち立てられる人こそが、真に霊的な力に満ち溢れる人なのです。