2023年8月13日 ヨハネの手紙一4章7~21節 「これぞ愛」
先週の火曜日に、享年98歳で召された三枝貞子姉妹の葬儀がここで行われました。そして奇しくも、三枝貞子姉がご自分の葬儀のために選んでおられた愛唱聖句が、ちょうど今日の4章16節の御言葉でした。貞子さんが良い御言葉を選んでくださったので、恵み溢れる葬儀を神様に前に執り行うことができました。私も、自分の葬儀でこの御言葉を読んでもらいたいと思った次第です。酷暑の中ですけれども、そういう意味で、今朝の御言葉も、焦げるような、本当に熱い御言葉です。ここには、愛という言葉の新しい定義が語られています。誰もが口にしたことのある愛という言葉ですが、今朝私たちは、生まれて初めてこの愛という言葉を聞き、また知ったという感覚で、新鮮でまっさらな思いでこの御言葉を読んで、愛について新しく知りたいと思います。
貞子さんが愛唱聖句に選ばれた今朝の4章16節には、こう書いてあります。「4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」愛とは何か?その答えがこれです。「神は愛です。」つまり、「神が愛です」。愛とは、神のことを言うのです。
しかし私たちは、聖書を知ることがなければ、このように、「神は愛です」などとは、決して考えることができないと思います。愛という言葉を頭に思い浮かべる時、私たちは、まず恋人のことを考えたり、妻や夫のことを考えたり、子どもや家族のことを考えるのだと思います。しかし聖書が愛について語る時には、聖書はただ神様のことを語るのです。このヨハネの手紙一の中でももっとも有名な御言葉である、今朝の4章10節は、こう語っています。「神は愛だからです。神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
これが愛です。これぞ愛です。聖書は、ここに愛がありますと語って、神様がわたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになったと語っています。これは、神の御子イエス・キリストが、私たちの罪の赦しのために、十字架に架かった。これが、これだけが、排他的な意味で、愛なのです。
私たちはこれまで、こんな風には、愛を考えては来なかったのだと思います。私たちはとても自己中心ですので、愛すると言いながら、実際には、自分のために人を愛する。自分に良くしてくれた人のことは愛するけれども、そうでない人は愛さない。そして自分が愛した人には、当然その愛の見返りを求める。そういう主イエスの十字架とは違う愛のことを、私たちは、これが愛なのだと、当たり前のように信じて生きてきました。そういう自己中心的な愛も、愛の内だと思っていたのです。
しかし聖書は、そういう人間の手垢のついた愛を、愛とは呼ばないのです。聖書は違う愛を語ります。神は愛です。神が、愛です。神様のことを知るということは愛について知ることであり、反対に、愛について深く知りたいなら、ひたすら主イエス・キリストについて深く知ることで、愛の何たるかが本当に分かる、と聖書は語ります。
そしてそこにある、愛の内容とは、それは十字架に表された、自分の命を、丸ごと相手に与えてしまうという犠牲です。そしてさらに、そこをもう一歩突っ込んで言うならば、その愛とは、神の御子の命という最大に価値あるものを、もっとも価値のない、普通だったら愛する必要のない敵に与えてしまうという愛です。そして、それこそが愛なのです。
主イエス・キリストは、その愛の中身を、地上を歩まれている間、愛敵の教えとして言葉に残されました。有名な、汝の敵を愛せよという言葉と、主イエス・キリストの十字架での愛は、イコールでつながっています。
そこで今朝は、神は愛ですという時の、その愛の深い意味を探り当てるために、ルカによる福音書で主イエスが語られた御言葉も、ぜひ読みたいと思います。ルカによる福音書6章27節から36節です。
「6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」」
どうでしょうか? これが、新しい意味での、私たちが初めて聞く種類の愛です。あなたを憎む者を、あなたに悪口を言う者を、あなたがたを侮辱する者を、あなたの頬を打つ者を、あなたから奪う者を、あなたに悪いことをしてくる敵を、そして、あなたにとっての価値なき罪人に、あの恩知らずな悪人のために、祈り、そういう人たちにこそ親切にし、奪う者には拒まず誰にでも与え、貸してと言われたら惜しまず、返してもらうことを当てにせず、言われるがままに貸してしまいなさい。
どうしてこんな、不自然なことをわざわざするのか?実は、それが、本来の自然な愛だからです。愛とは、本当はそういうものなのです。ここでご自身が語られたすべてのことを、主イエスは、十字架にかかって、一から十まで全部、私たちのために成し遂げてくださいました。聖書はその十字架を指さして、「ここに愛があります」、と言うのです。
十字架にこそ愛がある。ならば十字架の愛を、もっと具体的に考えたいと思います。主イエス・キリストは、十字架に磔にされた状態で、ルカによる福音書に記されている言葉ですが、そこから、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言われました。
主イエスは、救い主であり神の御子であられる御自分を十字架に突き刺して、ののしって、唾を吐きかけ、流血させて、殺しにくる、目の前にいる敵たちを、そういう人々すべてに対して、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言ってくださるのです。主イエスは、その傷ついた体で、十字架の上から人々に覆いかぶさるようにして、身を挺して、自分を十字架に付ける敵たちを、父なる神の怒りからかばい、人々を打ち付けるはずの神の怒りと神の鞭と、神の裁きの死を、主イエスは、丸ごと御自分の背中に受け止めて、「父よ、彼らをお赦しください。」と、「彼らは自分が何をしているのか知らないからこんなことをしてしまっているのです。知らないから、知ってやっているのではないから、これは、絶対に何かの間違いなのです。だから、赦してやってください。見逃してやってください。私のことは憎んで殺して、私の命は取ってもいいので、どうか、彼らを赦し、あなたが人々を愛してくださるのを、やめないでください」と、価値なき罪人であり、神の敵となった私たちを人間を、丸ごとかばって、主イエスは言い訳を言ってくださり、私たちをその身を挺して、背中で守ってくださったのです。これが愛です。
敵を愛せという言葉は、しばしばゴールデンルール、黄金律などと呼ばれて、ものすごくレベルの高い、理想的ではあるが、現実には実現不可能な極めて高い教え、悪く言えばそれは綺麗事という風に受け取られたりします。果たしてそうなのでしょうか?しかしながら聖書は、主イエスは、敵を愛するということを、何ら特別なゴールデンルールなんてことはなく、それは愛の当たり前だとしています。愛する時には、そこでは当然、敵をも愛する、大きな愛で愛するというのが、当たり前。それが普通のことだと。それが本来の愛なのです。ですから愛とは、元々が、無価値な者、愛に値しない者、普通は愛する必要のない、憎しみの対象である敵を愛すること。そういうその相手に、命という、自分の最も大切で価値あるものを与えてしまうこと、それが、本当の意味での愛です。主イエス・キリストが、十字架で為された、そのことが愛なのです。そこに愛があり、それが愛であり、これぞ愛です。
ここまで、私は、愛とは神のことだ、愛は神を見れば分かると語ってきました。しかしここで改めて今朝の御言葉を見てみると、愛は神だとは言われてはいません。そうではなく、二度も繰り返して、愛は神であるではなくて、逆に、「神は愛です」と語られています。これは何を意味しているのでしょうか?
これは恐らく、この御言葉は、愛の内容を説明していると同時に、神様はどのような方であるのかという、神様の自己紹介をも、この御言葉が語っている、ということなのだと思います。神は、どんな方なのかということを、一言で言うと、それは、愛なのです。神様はいつも何を考え、何をしているお方なのかというと、「神は愛」ですので、神様はいつ何時も、愛を実施しておられ、愛するということで、愛のことでいつも頭がいっぱいで、その愛ばかり考えて愛ばかり実行しようとしている神様の様子は、一言で「神は愛です」と言うしかないぐらいに、それ程、神様は愛そのものなのです。ですから神様は、愛そのものであられます。その神様の「神は愛です」という自己紹介をも、今朝の御言葉は表しているのだと思います。
神様が、こういう方であるということも、私たちは知りませんでした。神は強い方、神は無限の方、天地万物の創造神、頼みごとを聞いてくれる、白い服を着た白髪のおじいさん、というイメージの神様については、今まで考えたことがあったかもしれませんが、「神は愛です」などとは、聖書を読むまで知りませんでした。
けれども、「神は、愛なのです」神は愛でいっぱいで、四六時中、愛のことを考え、愛に基づいて行動し、愛し続けてくださいます。そしてその愛とは、価値無き、全く愛に値しない敵に向かって、全力で、御自分の命と価値ある神の愛のありったけを、全てを注ぎ込むという、愛です。
ですから今朝私たちは、愛という言葉を新しく知るだけでなく、神様というお方のことも、新しく、考え直し捉え直したいと思います。愛は神であり、神は愛です。神様がいつもすべての力を集中して、全力でやっておられることとは、価値なき者を、つまりこの私たちを、命を懸けて愛するということなのです。ただ天国で座っているのが神様なのではありません。敵を愛する愛で、私たちのことを愛する、これが神様の二四時間営業の仕事なのです。これが神様です。私たちの神は、こういう神なのです。神は愛なのです。
そしてその神の愛は、今、しっかりと私たちに、あなたの胸の内側に、天から届いています。価値なき私たちの存在は、神様から強い愛で愛され大切にされることによって、価値を持ちます。
神は愛ですと言えるほどに、愛に全振りしておられる神様が、この私たちのことを見つけて、今朝この教会に来させて、主イエス・キリストを通して、しっかりと愛してくださっています。その愛を受けたら、この私たちはどうなるでしょうか?
今朝の19節です。「4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」「人は、愛されることを知らなければ、愛することができない」と言われます。私たちは愛とは神であり、神は愛であることを知って、この自分がその神の愛の対象になっていることを知るに至る時、その人は愛を知り、人と神様を愛する者となることができます。それが、愛の力が生み出す愛の流れです。
そして、今朝の御言葉には、何度も「神が私たちの内にとどまってくださる」という言葉が繰り返して語られています。
今朝の4章11節から13節を改めてお読みします。「4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」
愛である神様が、私たちの内側に入って来て留まってくださるということは、敵を愛することなんて到底できない私たちの中に、ゴールデンルールを可能にする、大きな愛が生みだされるということです。
じゃあどうやったら、愛である神様が、愛のない私たちの内に留まってくださるのでしょうか?その方法は、今朝の御言葉には書いてありませんが、それは祈りであると思います。
私たちは祈ることで、神様をこの胸の内側にお招きし、この心を、神様が宿ってく出さる場所として、神様に差し出すのです。かつて、このヨハネの手紙一の3章21節22節に、「3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」という御言葉がありました。
22節の、神に願うことはなんでもかなえられます、という約束は、なんでもかんでも、べらぼうに神様に願い祈れば、なんでもその通りに実現するという意味の約束ではありません。その願いとは、ずっとこの手紙が語り続けていますように、神さの愛に適う願いのことです。聖書が、互いに愛し合いなさいと語っているように、「私は本当に人を愛したい。私はもうこれ以上人と憎しみ合って、競争し合うのではなくて、愛し合いたい。敵を愛し赦したい。赦してもらいたい。愛してもらいたい。」という、この愛についての願いを、私たちの祈りを、心から神様に願いささげるならば、愛の神様が、それを聞いてくれず、かなえて下さらないはずがないのです。「互いに愛し合い、愛するために生きたい。神は愛ですと語られているように、神様が私の中にいてくださることで、私は愛ですと言えるような、愛に生きる人になりたい。この板宿教会が、本当にお互いを大切にし、お互いを愛するということに溢れた、愛に溢れた教会になるように。」との祈り、願いは、神様の御心と一致します。であるならば、必ず叶えられます。
そうやって愛を祈り求める時に大事なことは、今日御言葉から新しく示された、この意味での愛を知っているかどうかです。そして、愛を語る時に、愛を願う時に、愛を考える時に大事なのは、その時にあの、私たちへの愛のために、十字架に架かられて、血まみれになりながらも、磔にされながらも敵を愛し、敵を赦そうとされた、あの主イエス・キリストの姿が、この心に現れるかどうか、その主イエス・キリストの姿が、この胸の中に、はっきりと留まり宿るかということです。私たちは、今朝、本当の意味での愛を、またそれがどこから来るのかを知りました。主イエス・キリストの十字架の愛を求めて祈り、その愛にこの心を開き、ささげたいと思います。