2023820日 ヨハネの手紙一5章1~12節 「新しい命」

 先週金曜日に、教会の中高生の集まりで、海遊館に行ってきました。水族館はかなり久し振りでした。いつもスーパーマーケットで死んだ魚は目にしているのですが、水族館がすごいなと思うのは、そこではすべての魚が生きていて、とてもきれいに、キラキラ光りをはためかせながら泳いでいるということです。一匹、水槽の端っこで死んだように仰向けになっているアザラシがいて、近くに居た子どもが、「死んでるー」と大声を上げたので、私もパッと見て、ドキッとして、えっ死んでるの?と思ったのですが、よく見てみるとぴくぴくお腹が動いて、生きていることが確認できましたので、ホッとしました。そのように、水族館では死んでいる魚はタブーで、すべての魚が生き生きとした生命力にあふれているというのが、水族館の素晴らしさなのだと改めて思いました。生き物にとって、命に溢れているということは、それを見る人々に喜びと励ましを与えるに値し、触れ合うに値する、素晴らしいことです。しかし反対に生き物にとって、死んでしまうということは、残念なことであり、悲惨なことであり、あってはならない類のことであるに違いありません。

 

 事故で半身不随になられて、口で絵を描いておられる星野富弘さんが、「いのち」という題名の短い詩を書いておられます。「いのちが、一番大切だと思っていたころ、生きるのが 苦しかった。いのちより 大切なものがあると知った日、生きているのが 嬉しかった。」

 「いのちが、一番大切だと思っていたころ」というのは、星野さんが、聖書の語る永遠の命の救いに出会う前の事を意味するのだと思いますが、その頃は、生きるのが苦しかった、と書いておられます。それはどういう苦しさなのでしょうか?きっとそれは、死んだらすべてが終わりだという、最後の行き止まりが人生の先に待ち構えているという苦しさなのではないかと思います。この私たちの寿命は、まるで砂時計のように、日に日に減っていきます。この心臓の鼓動による命は、いくら大事にしていても、永遠ではなく、どんどん目減りしていきます。一日が終わる時、ああ今日もまた一日、人生の残り時間が少なくなってしまったと思いながら生きるとしたら、それは苦しい、気の重いことです。

 しかし星野富弘さんの人生は、そのままでは終わりませんでした。「いのちより 大切なものがあると知った日、生きているのが 嬉しかった。」星野さんに、命より大切なものがあると知る日が来ました。そして、その日から彼は、生きているのが、嬉しくなった。

 

 そして今朝の御言葉にその、命より大切なものが指し示されています。それは、永遠の命です。今朝の始めの51節には、こう語られています。5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」さらに、このヨハネの手紙を書き表したヨハネが、この手紙を書く前に書いたと言われているヨハネによる福音書には、3章で、主イエスがニコデモという人にこういう言葉を語ったと記されています。主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。

 人は新たに生まれなければならない。そして、イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者である。つまり聖書は、人はこの地上にただ一度、出産によって生まれて、それで寿命まで生きて、そのまま命費えて終わるのだ、とは考えていません。

聖書の初めの創世記で、元々人は、時が来れば死んでいくようには、創造されませんでした。人間が死ぬということは、自然の摂理ではなくて、それは予定外の事、異常なこと、本来あってはならない、大変な違和感なのです。

聖書は死を肯定しません。人がせっかく生まれたのに、そのまま寿命で死んでいくのを、神様は良しとされません。そうではなくて、聖書は、そして神様は、主イエスは、「人は、新たに生まれなければならない。」と語ります。人は、母親から、だけでなく、神から生まれなければならない。それをキリスト教では神学用語で、新しく生まれると書いて、新生と呼びますが、かつて赤ん坊の新生児だった私たちは、この生まれ落ちた生涯、人生の中で、さらにもう一度、神様から生まれた二度目の新生児として、新たに生まれなければならない。そしてその新生を知って、寿命で消えない永遠の命を得て、前は生きるのが苦しかったのが、逆に嬉しくなって、そういう風にして人は、何歳になっても、たとえ半身不随になっても、寿命が目前に迫っても、生き生きと生きることができる。「だからそのまま死なないで欲しい。新しい命にもう一度生まれ変わって、ずっと、嬉しく喜んで生きて欲しい。あなたのその人生には、それだけの価値と、喜びが秘められている。だからそれを今、掘り起こしてほしい。あなたのための永遠の命が、ここにはあるから。」これが、今朝の私たちへの、神様からのメッセージです。

 

 永遠の命、新しい命と、比較的さらっと言いましたけれども、これは大変なことです。そもそも、この私たちの人生の中に、空想や夢物語ではなしに、永遠の命、新しい命ということが本当に起こり来るとしたら、それは本当に大きな、人生の一大事です。そしてその変化が、星野さんの苦しみの人生を喜びの人生へと変えた大変化が起こる場所が、このキリスト教会です。

 

 宗教改革者カルヴァンは、キリスト教会のことを「母」に譬えて、父なる神の対になるようなかたちで、「母なる教会」と呼びました。そして私たちは、正しくその通りの仕方で、この教会で、母親によって産み落とされるようにして、新しく生まれました。

 7月末にもここで洗礼式が行われました。そこでも私たちは、以前は神様を知らなかった方が、教会で、神様によって、新しく生まれるということはどういうことなのかを、目の当たりにしたわけです。そして教会の中には、そうやって、性別や人種や生まれや経歴の違いを超えて、イエス・キリストに繋がることによって、私たちがそれぞれの肉親という意味での親の枠を超えた、父なる神と母なる教会によって一つの家族となるという、新しい命の絆が生まれるのです。

ここまで考えたうえで、改めて今朝の12節を読むと、これが私たちの信仰者の、神の家族としての教会での新しい誕生のことを語っているのが分かります。5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。」

 

 そしてヨハネは、教会にて神から生まれた者同士の愛を説いた後に、3節の言葉を語ります。3節。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」この言葉は、この手紙の中で今朝初めて語られる、新しい要素を含んでいると思います。この「難しいものではありません」という言葉は、他に訳し変えますと、たとえば、「神の掟はうるさいものではありません」とか、「重荷ではない、圧迫するものではない、苦痛を与えるものではない」とも訳すことができます。

そしてこれは、神を愛して神様の掟を守りたいと思いながらも、しかしそれが実際には難しいという、神の掟や、聖書の言葉を、時にそれらが難しい重荷として感じられてしまうという状況に向かって語られた言葉ではないかと思います。

けれどもヨハネは、神の掟は難しいものではありませんと語ります。主イエスも、マタイによる福音書の有名な御言葉で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから。わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎをえられる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われました。

主イエスから担う軛、主イエスから渡される荷は、重荷ではなく、軽いのです。だから、主イエスに学んで、そのあとに従うということは、難しかったりきつかったり、ストレスのかかることではなくて、逆にそれは、軽くなる、解放と安らぎへの道なのです。

この私たちも、神様から生み落とされた幼な子として、毎週日曜日にはこの神様という親元の、この教会という実家に集まって、御言葉を通して、生みの親である神様の言葉によって導かれながら、赤子のように、父なる神様の前で、母なる教会に育まれて、少しずつ成長していくのです。そしてこれは決して、毎週毎週重荷を増し加えていく歩みではありません。反対にそれは、ここで新しく生まれる前に担っていた、生まれ変わる前の重荷をだんだん降ろしていく歩み、赦され、慰められて、解放され、どんどん楽になっていく、苦しい生き方から嬉しい生き方に移り変わっていく歩みです。

 

ではその、死を突き破る、新しい命への新生の歩みに、私たちは具体的には、どのようにして入っていくのか?それを語るのが次の45節です。5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」

 死に打ち勝ち、有限なこの命に打ち勝って、永遠の命へと至る道、それを可能にするものはただ一つ、それは、イエスが神の子であると信じる信仰です。

 では、さらにもう一歩踏み込んで、イエスが神の子であると信じる信仰とは何でしょうか?それが、6節以降に語られています。6節から9節をお読みします。5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。5:7 証しするのは三者で、5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」

 

 9節に、「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。」とあります。この受け入れるという言葉は、採用するとか、好感を持つなどの、広い意味があります。人とコミュニケーションを取って、人の言うことを信頼して、それを聞いて、それを受け止めて、それに導かれて普段の私たちが歩んでいるのであれば、もっとそれ以上に、人からのインフォメーションよりさらに勝る、神様からの言葉、情報、ここで言われている、証しとは、実体験と現実の行動を伴うメッセージということですが、その証が、神様から、天からこの地上にクリスマスの日に降り立ってくださったイエス・キリストを通してはっきり伝えられているならば、どう考えてもそっちをしっかり受け取るべきではないだろうか?と、聖書は問いかけています。人間は、せいぜい、先日ここで行われた、水による洗礼しか、与えることができませんけれども、主イエス・キリストは、霊と水と血、聖霊と、洗礼と、十字架の血を、私たちにくださいます。圧倒的に、主イエス・キリストのやることなすこと語ることの方が、人間より優れているのです。

 

 そしてその主イエス・キリストに従って、主イエスを信頼し、その言うことに信頼して、主イエスに繋がっているなら、永遠の命は、あなたに与えられますよと、聖書は語っています。10節から12節です。5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」

 

 ヨハネによる福音書には、15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語られています。

 ヨハネがここで語る信仰とは、結合する、ということとイコールです。信仰とは、離れたくないという思いの事です。離れたくない。それは、信じてるから。信頼しているから。主イエスも私たちに、離れるな、わたしに繋がっていなさい。そうすればあなたは実を結ぶ実を結ぶと言ってくださっています。そして永遠の命とは、その主イエスのもとにずっと繋がっていること、そこにあるわけなのです。

 

 限りある命です。この心臓はそういつまでも動いていてはくれません。いくら体を鍛えても、健康法に取り組んでみても、限界があります。でも、限りない永遠の命へと至る、最高の最強の健康法がある。それが、今皆さんが、今日も教会に繋がって実践しておられる、わたしは主イエスと離れたくないという思いで、教会に来て、主イエスキリストに繋がって、生きていくという、信仰の歩みです。これは死んでも終わりません。むしろ、私たちが肉体の死を迎える時にこそ主イエスとの繋がりはさらに強くされて、その時には罪もなくなり、私たちの中にある限界も取り払われて、私たちはもっと強く、もっと深く、永遠に主イエス・キリストと結びついて、永遠に生き生きと、喜んで、主と共に生き続けるのです。

 

 これは、私の言っていることではありません。これは人間の証しではなく、神の証し、神様の聖書の御言葉という、確かな情報源から今日皆様に届けられている、真実のグッドニュースです。

 本当に、お願いですから聞いてください。この神の証しが、皆様の心に響き、その心の中に永遠にとどまることを願います。神様に成り代わって、神様と一緒になって、願います。イエス・キリストと本当に繋がって、永遠の、新しい命を受け取ってください。絶対にこの新しい命を受け取らないままでは、死なないでください。本当に信じるに値する、あなたのその命の、本当の救い主は、主イエス・キリストです。