2023年8月27日 ルカによる福音書7章11~17節 『涙は必ず拭われる』
歌の歌詞に、こんなフレーズがありました。「何気なく生きてる今日が、誰かのどうしても見たかった明日だったら」。先週、私の親族が、一旦心臓を止めて行うという、心臓の大手術をしました。無事に手術は成功して、今は回復の途上にありますので、本当にホッとしているのですけれども、今朝はまず、どんな人にとっても例外なく貴重で、特別な、今日という日が、この私たち皆に与えられていることを、神様に感謝したいと思います。
そして、そのうえで今朝は、この今日という日を、この地上で私たちと共に迎えることの叶わなかった方々のことを思い起こしながら、私たちに語られている神様の御言葉を受け取りたいと思います。
今朝の御言葉の段落の表題には、「やもめの息子を生き返らせる」と書いてあります。この表題は聖書の言葉ではなく、これは、この新共同訳翻訳聖書を翻訳して出版している日本聖書協会が、聖書の内容が分かり易くなるようにと、親切心から、聖書に書き込んでくださっている表題なのですが、この「やもめの息子を生き返らせる」という表題は、事柄としては確かにそうなのかもしれないですが、実は、この段落の今朝の御言葉で語られていることを、ふさわしくまとめた表題ではありません。
ここには、やもめの息子を生き返らせることよりも、もっと大事なことが語られています。それは、13節に語られています。「7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」
ここには葬儀の列がありました。ある母親の一人息子が死んでしまい、棺が担ぎ出されるところでした。一人息子が死に、その母親が、息子の葬儀を執り行っている。とても痛ましい場面です。しかも、その母親はやもめであった。未亡人であったと記されています。つまり、夫に先に先立たれたこの母親にとって、一人息子だけがただ一人の家族であり、母親にとって、その一人息子だけが頼りであり、彼だけが自分の未来だったのだと思います。けれども、順番の違う、痛ましい死の現実がここにはあり、もう葬儀は始まってしまっていました。 母親はどんな状態だったのでしょうか?恐らく、崩れるようにして泣いていたのでしょう。そんな母親を目にして、主イエスは、13節にありますように、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と、声を掛けてくださいました。
主イエスが語られた、「もう泣かなくてもよい」という言葉は、原文では「もうそれ以上、泣き続けなくてよい」という言葉です。そして「憐れに思う」という言葉は、主イエスの行動の中によく出てくる動詞ですが、断腸の思いで痛み入るという言葉です。これは、はらわたのよじれる程の思いで、そういう、自分の腸がよじれ切れる痛みで、主イエスが憐れに思い、痛み入っておられる。そういう言葉です。
主イエスはただ、息子を生き返らせたのではありません。ここで主イエスは、死んだ息子を見て行動されたのではなく、何よりもまず、泣いている母親の、その涙を見てくださいました。そして主イエスは、自分のはらわたを痛めて、母親の痛みを、御自分も傷んでくださいました。さらに、それだけでなく主イエスは、その痛み、流れ続けて止まらない涙を止めるために、死んだ息子に近づいて行ってくださいました。つまり、息子を生き返らせることが目的なのではなくて、母親の涙を拭うための、息子のよみがえりなのです。主イエスの何よりの思いは、母親の、本当に悲しいその涙を、そして腹がちぎれるような、死ぬようなその痛みを、これ以上続けさせたくない。母親をその苦しみの中にこれ以上置きざりにできないと、そこに向けられていたのです。その悲しみの涙を拭うために、主イエスはここで行動してくださいます。14節です。
「7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。」「近づいて」、という言葉が、14節の初めでしっかりと語れています。主イエスは自ら、葬儀の列に近づいてきてくださいます。普通葬儀の列があるなら、しかも、そのそばに泣き暮れている人たちがいるとしたら、顔を伏せて、その列から距離を置いて道を空けるのだと思いますが、主イエスは逆のことをされます。主イエスは逆に近づいて行って、棺に手を触れて、担いでいる人たちを止めてしまわれる。ある意味葬儀の邪魔をして、主イエスは道を空けないのです。
主イエスはこの時、棺に手を触れて、腕力で葬儀の行進を止めたのではありません。それとは違う書き方がここではされています。ここでは、棺が前に進めなくなったのではなく、担いでいる人たちが立ち止まったと書かれています。そしてこの立ち止まるという言葉は、直立不動にさせる。固定させる。という言葉です。主イエスが恐らく静かに、優しく棺に手を触れられると、それだけで担いでいる人たちは、その場にピン止めされるように動けなくなったのです。主イエス・キリストを前にして、葬儀の列は、それ以上前進することができず、そこでは死は、そして死に伴う悲しみは、その場で停止させられるのです。
そのあとの主イエスによる若者の甦らせ方にも、これは本当に一見の価値があります。主イエスは、棺に手をかけて、蓋をこじ開けたのではありませんでした。蓋をノックしたのでも、棺を揺り動かしたのでもありませんでした。主イエスは、一番あり得ない方法を採られました。主イエスは、遺体に話しかけられました。
私たちが遺体に話しかけても、もちろんびくともしませんが、主イエスの言葉は、死者の耳に届くのです。その言葉の貫通力、他にはない主イエスの言葉の力、それはまさに新しい現実を生みだす言葉であり、この主イエスの語られる言葉そのものが、私たちの手の届かないところにもしっかり届いて状況を変えることのできる、神の力強い手なのです。
そして主イエスは、十字架の死から復活し、今朝も天で生きておられます。そしてその言葉は、今朝も、聖書を通じて、ここで私たちに対して語られています。力ある主イエスの言葉は、今この私たちの目からも、耳からも入ってきて、この心を生き返らせて、命を与えることのできる、命の言葉なのです。
15節。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」
主イエスの涙の止め方は、他の誰もすることのできない、こういう止め方です。涙が止り、あるいは母親は、今度は嬉し涙でもっと泣きじゃくったかもしれません。失った息子を、主イエスは母親に返してくださいました。
そして今朝、私たちの前にこの聖書の御言葉がわざわざ開かれて語られているというこの意味を、今日私たちはここで考えなければなりません。なぜ私たちは、こんな話を聞かされなければならないのか?この御言葉をなぜ私たちは今朝聞くのか?それは、これが単なる昔ばなしとか、単なる非現実的な言い伝えということではなしに、主イエス・キリストを通して、これが本当に、ここでも起こるからです。この聖書が開かれて、今も生きている主イエスの言葉が、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。…すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」というこの言葉が今皆様に伝えられているということは、これが、あなたにも起こるということを意味しています。主イエスはあなたにも、死んでしまった息子を、娘を、夫を、妻を、親を、あの人を、返してくださるのです。聖書のここで、主イエスにこれができているということは、今度は主イエスが、現在進行形で、私たちにもあの人を返すことが、おできになるということなのです。
今朝の最後の17節にこうあります。「7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」
聖書が、ユダヤ全土と周りの地方一帯と語る時、そこでは当時のユダヤ人だけでなく、外国人たちも含めた地中海沿岸地方にも及ぶ広大なエリアが含まれます。そもそもこのルカによる福音書は、現在のトルコの地域に当たるユダヤ人ではなくトルコ人が集まる教会で、執筆されています。つまり、この話が、ユダヤ全土と周りの地中海沿岸の外国人たちの間にも広まったということは、これが限られた人だけについての話ではないということ。これは、世界中の人々に関係のある、世界に広められる必要のある、すべての人にとって当てはまる、つまりこの話は、他人事ではなくあなたの話なんだ。これはあなたに起こることなんだ、ということです。
毎回葬儀をする時、唇をかんで涙をこらえるのが、正面に飾っていた綺麗な花を棺に入れて飾って、御家族がご遺体と最後の対面をして、出棺前に棺の蓋が閉じられる時です。ああ最後の対面なのだ、もう終わってしまったんだ。本当に死んでしまったんだと思う。しかし、その最後の対面という言葉を、今朝主イエスは、きっぱりと否定してくださっています。教会の葬儀で、「これが最後の対面です」という言葉は、使ってはいけない。その言葉は、ここでは正しい言葉ではありません。「もう駄目だ」ではなく、むしろそこに新しい命の始まりがある。もう終わってしまったのではない。「若者よ、あなたに言う、起きなさい。」最後の対面ではない。主イエスは、死を、ただ一時の別れにしてくださる。そしてそのことによって、主イエスは、涙を拭ってくださいます。こういう涙の拭い方ができるのは、本当に主イエス・キリストただお一人です。
聖書全体の結論を語っていると言うことができるヨハネの黙示録のその終わりの21章にも、そこにも涙を拭ってくださる主イエス・キリストの姿が書き表されています。「21:3神は自ら人と共にいて、その神となり、21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
普通、小さな子どもでもない限り、この目の涙は自分の手での拭うものだと思います。けれども聖書の御言葉が、最後の最後に語るのは、この未来です。すなわち、神が自ら、私たちに人間と共にいて、私たちの目の涙を、すべて、ことごとくぬぐい取ってくださる。これをしてくださるのは主イエス・キリストです。わたしの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるということは、その時には主イエスの顔は、私の顔の前のすごく近いところにあるはずで、もしその主イエスとの近さを実感できたとしたら、その時には、もう涙がかえって溢れ出て、主イエスの顔がしっかり見えなくなってしまうだろうと思います。そしてその時同時に、もはや、私たちの涙の原因となる死はなく、もはや、悲しみも嘆きも労苦もなくなる。死も悲しみも嘆きも労苦もないので、涙は、もはや嬉し涙のみになるうえ、さらに、その涙をも、神はぬぐい取ってくださる。
召天者たちとこの私たちとを隔てているのは、ただ死のみですから、死がないということは、それが無くなるということは、ヨハネの黙示録には、その時には、天国と地上が一つになって、その区別も無くなるとも書かれていますので、地上と天国の区別が無くなり、死が無くなるということは、本当に、死に分かれたあの人が、戻ってくる。返される。また会えるということです。また会えるんです。みんなと。そしてもう二度と、死によって隔てられることは起こりません。
どうやってこれが可能となり、どうやってこれが起こるのかが、この聖書に深く細かく書いてあるわけですけれども、今朝の時点でお伝えしたいことは、神の言葉である聖書に嘘はありませんので、聖書がこうなると言ったら、本当になる!ということです。死者は返される。また会える。そして、あなたのすべての涙は拭われる。神様がそうなると言ったら、それはなる!のです。
死んだ息子が起き上がって母親に返された時、人々は、自分たちがそれまで知っていた神様の姿とはまるで違う神の姿が目の前に表されたことを知って、驚きの声を上げました。
次の16節です。「7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。」
人々が神を賛美して叫んだこの言葉を、今朝、私たちの言葉にしたいと思います。「神はその民を心にかけてくださった」「神は、あなたを心にかけてくださった。」「神は、本当に、私たちを心にかけてくださった。」「神は、私をその心にかけてくださった。」神様が、母親の涙に突き動かされてくださった。神様が、どうにもならないはずの死と葬式と、そこから来る悲しみを、拭ってくださった。神様が、先立っていった愛する人を、返してくださった。神様が、実はこういうことをしてくださる神様だったなんて、今の今まで知らなかった。
神は、あなたのその涙を止めたい!そのために、あなたに近づいて、手を触れて、涙の原因になっている死を打ち破る。そのために、身代わりに神が死ななければならないのだったら、喜んで十字架にかかって死ぬ。そして、あなたの愛する人を、あなたに返す。
わたしはそれをする。本当にそうするからねと、これはあなたの話だからねと、聖書によって、主イエス・キリストは、私たちに今朝、語ってくださっています。
死があり葬式があり悲しみが募り涙がこぼれる。主イエスはこれを、仕方のないこととして諦めません。自分の生きるも死ぬも、それは神のみぞ知ることで、私たちは何もできないから、そんな死のことなんて考えるのはやめにして、今を精一杯生きればいいじゃないかと、私たちはそんな風にして、死から顔を背ける必要はありません。決してお手上げではありません。死を乗り越え、死を無くすことができる力を持った神様がおられます。そしてその神様が、主イエス・キリストによって、あなたのすべての涙を必ず拭うと、死が無くなるから、あなたはあの人と、必ず本当に会えるんだよと、約束してくださっています。
死を全権掌握しておられるのが、この十字架の死から蘇った主イエス・キリストのこの神様であるならば、これは、本当になんとかなるかもしれません。いや、なんとかすると、主イエスが約束してくださっているので、ここから私たちは、ただ諦めて、悲しんで、涙を流すのとは違うやり方で、先に召されていった方々のことを考えたい。死を打ち破る、主イエスの命の御言葉が、今朝のあなたに語られたことを、ぜひ忘れないでいただきたい。そして、死を、今日教えられたこの御言葉に基づいて捉えることで、私たちは、明日からのこの自分の人生も、死の先まで見て、そこにおられる神様を見て、前を向いて、新しく歩む人生に、変えていきたいと思います。