202393日 ヨハネの手紙一5章13~21節 「人生の目標」

 今朝は、「人生の目標」という説教題を掲げました。何が、私たちのこの人生の目標なのか?

 こういうことを考える時、ある雑誌の特集を思い出します。昔からずっと今も講読している社会派の雑誌なのですが、私が20代の半ばの頃にその雑誌で、「生きる意味はあるのですか」という若者からの問いかけに対して、各方面の名だたる著名人、知識人たちがそれぞれの言葉で、答えを返していくという連載企画が行われました。回答者の中には、私が好きな作家も含まれていたので、どういう答えが出てくるのか、毎週楽しみに読んでいたのですが、「人生の意味は、あるともないとも言えない」とか、「生きる意味は分からない。それを見つけるために生きているのだ」など、頓智のような、はぐらかすような答えばかりで、どこかで誰かががはっきりと、「人生にはこういう意味があるのだ」と、ちゃんと言い切ってくれるのかなと思いながら期待して読んでいたのですが、結局、「人生には意味があると信じたい」と語るぐらいが精一杯で、誰も、人生にはこういう意味があるのだと、言い切れる人がいないまま、その特集は終わってしまいました。私はそのことに、本当にビックリしました。わたしはこの大事な質問に答えられない、世の中の知識人と謳われる人たちが持つ知恵とは、一体何のためのものなのかと、本当にがっくりさせられたのを覚えています。 

 その時から20年近く経ってしまいましたけれども、どうでしょうか?今でも、世の中の大半の人たちは、人生には、明確な意味や目標など存在しない。だから、そもそもそんなことを考えること自体が無駄だと、考えているのではないかなという気がします。

皆様はどうお考えでしょうか?人生には、確固たる目標とか意味というものがあるのでしょうか?

 今朝の御言葉ははっきりと、人生には目標、目的があると答えます。その目標、目的とは、救い主、主イエス・キリストです。今朝はこの大事な事柄に絞って、御言葉からお伝えしたいと思います。

 

 救い主、主イエス・キリストと言いましたけれども、そもそも、私たちにとって救いとは何でしょうか、私たちは、救い主に何を救ってもらう必要があるのでしょうか?

 一言二言では捉えきれないような、こういう大きな問題を扱う時には、しばしばその逆のことを考えると、それがよく分かるということがあります。その考え方で、では救いの反対にあるものを考えたいのですけれども、私たちにとって、私たちを絶望させる最悪のもので、最も救いのないものとは何でしょうか?大きな挫折であり、そこには痛みがありこそすれ、何の報いもないもの。それは言うまでもなく、死だと思います。

 

 先週も召天者記念礼拝をささげて、私たちは死と命についての御言葉を共に受け取りましたけれども、先週の御言葉も今朝の御言葉でも、聖書は、最も救いから遠いものである死と、その死からの救いを、語っています。

神様は、死を武器にして、それをチラつかせて、人を恐れさせあそぶような方では決してありません。その逆です。最終的には死を待つばかりの私たちが、いかにして生きることができるのかという救いを、聖書は語るのです。そしてその救いは、永遠の命を与えるという救いです。ヨハネの手紙一は、今朝の結論の言葉で、救いとは、永遠の命であり、それを受けることなのだと語っています。

13節をお読みします。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」

 ここには、どうやったら私たちが、死から永遠の命に救われることができるのかが、語られています。それは、神の子の名、キリストの名を信じることによる。

 改めて考えてみると、何か不思議な気がしないでしょうか?聖書は、永遠の命ほどの大事なものを与えるために、信じるだけでいいと言います。この薬を飲めば永遠の命を得られますよではなく、この注射を打てばいいだとか、どこどこの口座にいくら振り込めばいいだとか、そんなことでもなくて、ただ、神の子の名を信じていればいい。そして、現に信仰じているあなたがたは、今すでに永遠の命を得ているので、それを悟らせたいと語っています。私たちはもうその永遠の命を得ている。これは驚くような言葉です。人間同士でも、誰々さんにはいつもお世話になっているし、あの人の言うことは信頼している。と言うように、神の子、主イエス・キリストを信じ信頼しているだけでいいのです。

 けれども一方で、信じるということは、それはそれで、簡単な、片手間なことではないということも事実です。それは財布から小銭を出す程度のことではなくて、自分自身の全体に関わることです。信じるとは、自分の全体でその信じる相手に乗っかるということです。自分全体重を丸ごとその相手に委ねると言うことです。けれどもそういう仕方で主イエス・キリストを信じるならば、他のことは何も要らないのです。それだけで、永遠の命は得られます。

 なぜなら、今朝の最後の20節にこう書いてあるからです。20節をお読みいたします。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」

これが、ヨハネの手紙一の結論です。最後には、この方が、主イエスこそが、真実の神、永遠の命です。と言われています。永遠の命はイコール、イエス・キリストなのです。

これはどういうことでしょうか? 実は、こうやって話している私自身も、自分が既に得ている永遠の命とは何なのか、ずっと分かるようで分からない状態でした。しかし神学校で学んで、そこである先生から教えていただいて、自分でも聖書と向き合って考えて、そこまでしてやっと永遠の命についての疑問が晴れました。私は神学校で何を聞いたのかというと、それは、「永遠の命を考える時には、キリストから目を離してはいけない」という言葉です。なぜなら、キリストこそが、私たちが与えられている永遠の命を、明らかに示してくださった唯一の方であるからです。永遠の命、死からの救いということを考える時、私たちは永遠の命という言葉や概念だけを、ただそれだけ切り取って、取り出して、ああだこうだと、思い巡らすのでは、それをしっかり理解することはできません。そうではなくて、永遠の命という時には、具体的に、この主イエス・キリストというお方のことを見つめれば良いわけです。「永遠の命を考える時には、キリストから目を離してはいけない」。その主イエス・キリストの言動、一挙手一投足、そして特に、十字架の死と、その死からの復活を通して、私たちが得ている永遠の命とは、どこにある何なのかということが、見える形で、分る形で、実演されているのです。ですから、聖書にある主イエス・キリストの姿を通してしか、それを知ることはできませんし、逆に聖書を開くならば、私たちはそこに、永遠の命を見出すことができるのです。

このヨハネの手紙自体、主イエス・キリストに現れた、永遠の命を目撃したヨハネという弟子による、目撃証言です。弟子たちは、イースターの朝、復活された主イエスに出会いました。復活を疑っていた弟子のトマスも、甦った主イエス・キリストの体に触れました。そこで弟子たちが本当に知ったことは、十字架で死なれた主イエスとは別人の誰かや、何かの幽霊がそこに立っていたということではなくて、あの十字架で息を引き取った主イエスが、今目の前で生きているということでした。そしてそこには死によっても消し去られず滅ぼされず、停止しない、命があったのです。

 このヨハネの手紙の32節には、こう書かれていました。「愛する者たち、わたしたちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」これは私たちにとっての希望の約束です。私たちは、例えば死んだあと、自分はどういう感覚になるのかなど、与えられている永遠の命についての細かいことまでは、実際まだよくは解らないのですけれども、実感できなくても、とにかく、その命を、主イエス・キリストが受けたのと同じようにして、私も与えられる。御言葉にあるように、自分がどのようになるかは、まだ示されていませんが、しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということは、もう確実です。私たちもキリストのように、ああいう風になる。終わりの日には、この生涯を閉じる時、キリストに似た者となる。そういう、既に約束されたプレゼント、その箱の中に何が入っているのかが、もうすでに分かっている、主イエス・キリストが見せてくださったのと同じ命というプレゼントを、私たちは、受け取るのです。

 

 そして、これが救いです。私たちが救っていただく必要のあることは、私たちがこの人生の中で、最も必要とする救いは、私たちを愛してくださる主イエス・キリストと共に生きる、永遠の命です。ただ永遠に、不老不死のようになって生きているだけでは、主イエス・キリストと共に、永遠に生きることが、救いです。

 そしてこの救いがあるなら、今朝の14節、15節も当然です。5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」

 十字架で命を投げ出してくださるほど私たちを愛し、復活して死を突き破られた主イエス・キリストが、私の味方として、私の真実の神として、死を超えて、神の命を私の人生に添え与えて、永遠に共にいてくださるのなら、その神様の御心に適うことを私たちが願う時、聞き入れられないことはありえず、叶わないこともありません。しかし本当に、永遠の命という、私たち皆の一番の根本的な願いであり祈りは、14節も語りますように、主イエス・キリストと歩む時、主イエス・キリストに祈る時には、既にかなえられています。

 

 今朝の16節に、たくさんの議論の尽きない御言葉があります。そこにはこうあります。5:16 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。」

ここには、死に至る罪と死に至らない罪ということが語られていて、死に至る罪についてはどうにもならない、というようなことが書かれています。しかしここだけ読んでも、この、死に至る罪というものが、どんな罪なのかという具体的な指定がありませんので、それが何を意味するのかという点で、議論が尽きないのですが、しかしこのヨハネの手紙一をここまで読んできた私たちには、また今朝の私たちには、死に至り、命に至れない罪が何かということが、もう分かるのだと思います。つまりそれは、この聖書の中で、ヨハネの手紙一に4回、と二に一度だけのみ出てくる、アンチ巨人、と同じ、アンチ・キリストという言葉です。ギリシャ語の言語でも、アンチ・キリストという言葉で、それは反キリストという意味ですが、やはり、アンチ・キリストこそが、命に至れない、いかんともしがたい罪なのです。なぜなら20節にありましたように、御子イエス・キリストこそが、永遠の命だからです。ですからヨハネの手紙一は、最後の今朝の御言葉で、アンチ・キリストだけはいけない。それだけはやめないと。反キリストになったら、キリストに反対し、この一番大事な方との繋がりを切ってしまったら、命に与ることができなくなるから、反キリストの罪には、手の施しようがないから、アンチ教会でも、アンチヨハネでも、アンチ吉岡でも、他のアンチはそれで全然良いから、アンチ・キリストだけは、そこには救いが、希望が、永遠の安息がどうやっても存在しないことになるから、それだけは赦されないと、強く語っているのです。

 

ここまで考えてくると、やはり人生の目標は、無いわけがない。そして私たちが向かっていく先は、主イエス・キリストより他にないということが、他に向かう生き方は無いということが、はっきり分かって来るのではないかと思います。

しかし主イエス・キリストというこの方そのものを人生の目標にするなんてことが、実際にできるのか、どうやったらできるのか、と思うかもしれませんけれども、私たちは、キリスト者なので、クリスチャンなので、私たちは、イエス・キリストを目標に据えた人生を生きるということを、具体的に実施できます。

ローマの信徒への手紙には、こういう御言葉もあります。「6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

キリスト・イエスに結ばれて、神に対して、永遠に、生きているのだと考えなさい。今朝私たちは、本当にそう考えたいと思うのです。ヨハネの手紙が今朝の御言葉の最後で、「わたしたちは知っています」「知っています」と繰り返しているのも、私たちはが、既にクリスチャンなのですから、主イエス・キリストの御言葉を受けて知っているのですから、今こそ、今日から、本気で、主イエス・キリストを目標に生きていきましょう!ということを伝えたいがためなのだと思います。

 

 ブレーズ・パスカルという、1600年代に生きた、日本で言えば徳川家康のすぐあと程の時代に生きた、フランス人の哲学者がいます。パスカルは39歳の若さで亡くなりましたが、そのわずか8年前の31歳の時に、イエス・キリスト出会って回心し、パスカルは回心のその日に書いたメモを、布に書き写して、胴衣の裏に縫い付けて、39歳で亡くなるまで、終生肌身離しませんでした。

 そのメモには、こう書かれています。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。

哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。

イエス・キリストの神。 わが神、すなわち汝らの神 汝の神はわが神とならん。

神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。人の魂の偉大さ。

正しき父よ、げに世は汝を知らず、されどわれは、汝を知れり。

歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。

われ神より離れおりぬ。 …願わくはわれ永久に神より離れざらんことを。

永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝のつかわしたまえるイエス・キリストとを知るにあり。イエス・キリスト。イエス・キリスト。

われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。

願わくは、われ決して彼より離れざらんことを。彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せられる。全くこころよき自己放棄。イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。

地上の試練の一日に対して、歓喜は永久に。われは汝の御言葉を忘るることなからん。

アーメン。」

 

 インマヌエル会という聖書通読を、たくさんの方々がしています。1年に一回の聖書通読を、教会として公に始めて、今年が3年目です。なぜ、同じ聖書を毎日何度も繰り返し通読し、毎週日曜日に教会に生涯通い続けるという私たちクリスチャンのこういう人生が成立するのか?それは、主イエス・キリストが、人生の目標だからです。昔も今もこれから先も、世界中で何十億人という人が、そうやってそれぞれの人生を生きています。真の神にして、真の人間、人間の中の人間でもあられた主イエス・キリストの生き方に、人間本来の生き方があり、私たちが人生の中で必要とするすべての新しさ、創造性、安らぎ、喜びが、主イエス・キリストにあります。主イエス・キリストこそ、真実の神、永遠の命なのです。

 改めて、この人生の目標を、この主イエス・キリストに定めて、主イエス・キリストに向かって、共に生きていきましょう。年を取って、もし痴呆になったとしても、目標がイエス・キリストであればなおのこと、私たちの人生は意味を失わず、目標を失わず、それは永遠の命への、天国の幸いへの真っすぐな道ではないだろうかと思います。そして何より、今既に私たちに与えられている、インマヌエルの、共にいてくださる主イエス・キリストが、私たちの人生から離れ失われてしまうということは、未来永劫、決して起こりません。