2023年9月17日 ヨハネの手紙二1~13節 「真理を伝えたい」
今朝は、「真理」という言葉について、御一緒に深く受け止めたいと思います。ギリシャ語では、真理は「アレテイア」という言葉ですが、今朝のヨハネの手紙二には、1節から4節まで、4節連続で真理という言葉が出てきます。また、これまで読んできたヨハネの手紙一にも、そして来週のヨハネの手紙三にも、新共同訳聖書は、アレテイアを、真理、そして真実という言葉としても訳していますので、本当に、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙一から三、そしてヨハネの黙示録も含めて、ヨハネが書いた諸文書には、真理や、真実という言葉が聖書の中でも、目立って数多く用いられています。今朝の説教題を、「真理と伝えたい」にしましたけれども、これは、この手紙の執筆者ヨハネの偽らざる願いであり、手紙執筆の大きな目的であったと言えるのだと思います。
ではこの真理とは、そもそも何を意味する言葉なのでしょうか?真理とは、何なのでしょうか?
先週何気なく、探偵・サスペンス系のドラマを見ていたら、「真実は一つではない。人それぞれに、それぞれなりの真実というものが存在する。だから、真実は、人の数だけ存在する。」というセリフを耳にしました。なるほどそうかもしれないなと思いながらも、真実と真理という二つの言葉を区別せずに同じ意味で使っているこの聖書に言わせれば、それは違うと言わざるをえません。人の数だけあるような、受け取り方でどうにでも変化するようなものを、聖書は真理とも真実とも言いません。もし、「真理は一つではない。真理は人の数だけある」ということになってしまうと、困ります。人の数だけあるものを、真理と呼ぶことはできません。そして、だとすると、真理とは、たった一つであるべき事柄なのです。そして真理は、人の数だけあるものではなくて、逆に、どんな人にとっても当てはまるものでなければならない。さらに真理とは、どんな時代にも当てはまり、どんな状況においても通用する、一貫していて移り変わらない、不変のものでなければならない。そして、その、いつでも、どこでも通用するものこそが、真理という言葉で呼ぶに相応しい、まさに真理そのものなのです。今朝の御言葉は、真理、真理と繰り返しながら、その変わらないものを、私たちに伝えようとしています。改めて、ではその真理とは何なのでしょうか?
先程、真理とは、いつでもどこでも、それに誰にでも当てはまり通用する、変わらないものでなければならないと言いました。ということは、真理は、決して変わることのない、不変のものである必要があります。そして、永遠に変わらないものがあるとすれば、それはただ一つの存在しか、該当しません。
ヨハネの手紙一の最後の5章20節に、その真実のありかが、はっきりと語られていました。「5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」
真理に該当するものは、変わらない存在でなければなりません。そしてそこに当てはまる、変わらない存在は、真実で、永遠に変わらない方であられる、真実の神、アレテイアの神様より他におられません。
そのうえで、今朝のヨハネの手紙二は、こう語り出しています。ヨハネの手紙二のまず1節をお読みします。「1:1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」
今朝は、真理という言葉を御言葉から厳密に理解したいのですが、1節の始めの「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」という言葉は、「この手紙の執筆者ヨハネから教会へ」という言葉です。そして次の、「わたしは、あなたがたを真に愛しています。」という言葉は、厳密に訳せば、「真理の中で愛している」という、I love in the truthという言葉です。そして、続く文節に、実は愛という言葉はなくて、厳密に訳せば、「わたしだけでなく、あなたがた皆も、その真理を知っています。」という言葉になっています。
因みに、ここにある愛という言葉は、神の特別な愛を示す、アガペーという言葉です。ならばそのアガペーはどこから来るのかということで、それが出てくる基は、次の2節、「1:2
それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。」
愛は真理から来る。そして真理は永遠にわたしたちともにある。先ほど、真理の内容に当たるのは、神様の存在以外にはないと申しましたように、この2節の真理という言葉を、「神」という言葉と入れ替えても、スムーズに2節の意味は通ります。つまり、2節の御言葉を、「アガペーの愛は、いつも私たちの内にある神によることで、神は、永遠に私たちと共にあります。」と読むことができます。
さらに3節にも、真理という言葉が出てきますが、この3節は、まるで礼拝の終わりに私が神様の代理として行う、祝祷の祝福の言葉のようです。よって3節は、「1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」という言い切りであり、約束であり、宣言の言葉になっています。真理と、アガペーの神の愛が私たちと共にあるということは、イコール、真理の内容である真理の神、父なる神と御子イエス・キリストが、ずっと私たちと共に居てくださる、ということなのです。
この真理を伝えたい。父なる神と、御子イエス・キリストが、わたしたちと共におられるという、いつもどこででも誰にでも当てはまる、変わらない真実を、教会に伝えたい。ヨハネの願いは、この祝祷の祝福の言葉を、教会に対して語り続けたい、ということなのです。
そして、そういうヨハネですから、実際にこの真理を受け止めて歩んでいる教会があることを知って、ここで非常に喜んで、だからこそ、先の第一の手紙に続いて、今度は、植物の茎を折り合わせて作った、堅い麻の布のような、パピルス一枚に収まるサイズの、この第二の手紙を、喜びに溢れてしたためています。4節から6節までお読みします。「1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」
歩むという、英語で言えばwalkという言葉が3回出てきます。4節には、「真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。」walk in the truth.真理の中を歩む。そして6節、「愛とは、御父の掟に従って歩むこと」walk in obedience、服従の中を歩む。最後に6節の終わりの「愛に歩むこと」walk
in love.愛の中を歩む。
ここには、先程の真理を伝えたいという事柄の、もう一歩先にあることが指し示されています。つまり、真理が教会に伝わっている。真理を教会の人々と共有できているということに喜んだヨハネは、さらにもう一歩進んで、真理を伝えられてそれを知るだけではなくて、walk in the truthして欲しい。真理の中を歩んで欲しい。真理の中で、真理なる神様への服従の中を、そしてその神様のアガペーの愛の中を、歩んで欲しい、その中を生きて欲しいと、訴えているのです。
そして本当にこれが、教会に集まって私たちがみんなでやることです。今日の午後に臨時会員総会が開かれて、牧師交代後の教会の歩みについて共に話し合い、方向性を決めますけれども、walk in the truth, と同時にwalk in loveというこの二つの歩みについては、牧師が変わっても、全く変わりません。私たちは、一生かけて、常にこの神の教会で、真理の神様の中でin the truth、その愛の中でin love、歩き続けるのです。
今朝の7節以降の一塊の御言葉に、反キリストという言葉が、ヨハネの手紙一に続いて語られています。そしてそこには、「歩く」の反対の、「走る」という言葉が出てきます。それは9節です。「1:9
だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」
9節の始めに、「だれであろうと、キリストの教えを越えて」とありますが、この「キリストの教えを超えて」と訳されているところに、runs aheadという、走り抜けて、前に行き過ぎてしまう、という言葉が使われています。「あなたがたも賞を得るために走りなさい。」というみ言葉もありますが、ここでは走ったらダメなんです。走ったら神様を追い越して、オーバーランしてしまい、はみ出してしまう。そしてそれをヨハネは、キリストの教えを超えて、それにとどまらない反キリストと呼びます。
反キリストとは、教会の外部の人たちではなく、教会内部から生まれた人たちです。そして彼らの誤りは、「キリストの教えを超える」ということでした。この事に一番気を付けなければいけないのは、私のように御言葉を語っている教師に違いありませんけれども、「キリストより前に出る」という誤りは、教師以外においても起こりうることです。
例えば、キリストを知っている者が、聖書に対して変にこなれてしまって、聖書をちゃんと開きもせずに、神様はこう思っているはずだと、聖書に脚色したり、それを都合良く解釈することがあります。
しかしキリスト教は、聖書という文書を通した、明確な言葉に基づく宗教です。そしてそれは、個人の悟りや、それぞれの個人が持っている神様のイメージや、インスピレーションを伝えていくことではなくて、キリストを、聖書が語るそのままに宣べ伝えていくことによって成り立ちます。
私たちの教会での、洗礼を受ける際の6つの誓約事項の3番目には、こういう誓約があります。「あなたは、主イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼みますか」この「福音において提供されているキリストのみ」という言葉の意味が、まさに今朝の御言葉を通して語られていることに当てはまります。なぜなら福音において提供されていないキリストに依り頼んでも、そこに救いはないからです。聖書は、ただそれを読むだけでは足りません。聖書は、何より正しく読まれる必要がある。私たちの教会がウェストミンスター信条やハイデルベルク信仰問答を大切にしていて、その信条に基づいて聖書を読み、語ろうとしているのは、聖書の福音が提供している意味でのキリストを、正しくつかむため、そして、あるところでは、聖書の言葉にしっかりと留まって、それ以上行き過ぎないためです。
パウロも、イエス・キリストが肉となって来られたこと、キリストがこの地上に生まれられたこと、神が人になられたこと、そして何より十字架に架かられたことについて、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一で、「1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と語っています。キリストは、神であられながら人間となって、しかし億万長者になったのでも、大統領になったのでもなく、十字架に架かって死刑に処せられるという、愚かな姿を取られ、虐げられる者の側にたって歩まれました。しかしこのキリストの一見した愚かさの中にこそ、神様の溢れる愛と、強力な罪と死からの救いがあった。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力なのです。」
しばしば、キリストが肉を取られて世に来られたからとて、それがなんだと、それでメシが食えるわけでもなし、それだけでは一銭の足しにもならんではないかと、それだけでは足りない、それだけでは心細いと、キリストだけでは、私たちの問題解決、救いの実現には不十分ではないかと、ついつい考えて、それよりさらに先へとオーバーランしてしまいがちなのが、この私たちの弱さですけれども、しかし実際、決してお金では買えない私たちの魂の救いと平和と、神の愛という豊かな救いをもたらしてくださる、主イエス・キリストの神よりほかに、真理はありません。ヨハネは、いつもその真理の中を、神の愛の中を、そこから外れずに歩んで欲しいと、繰り返しました。
今朝私たちが見てきた「真理」「アレテイア」というギリシャ語の言葉の意味を深く調べていくと、そこには「夢の実現」また「パレードの行進」という面白い意味もあることが分かりました。何が、どんなことが、実現されるべき私たちの夢であり、アレテイアの望む夢なのでしょうか?
その夢の実現とは、改めて、今朝の3節で既に語られ約束されていることなのではないかと思います。それは、「1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にある」ということの実現ということではないでしょうか。そして私たち皆が、真理の中で、walking in the truth . walk in love、真理の中を歩み、愛に歩み、教会皆で、真理の中を歩くパレードを進み行くかたちで生きていく。これが夢の実現です。そしてその夢は、今ここに、この教会の今朝の礼拝の中で、実現しています。
ヨハネは、この二通目の手紙については、ただパピルス1枚分書いただけで、これだけを書いてで、ここでペンを置きました。12節です。「1:12
あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。」
私たちの喜びが満ち溢れる、という言葉には、英語で言えばcompleteという、完全、完璧に、完成するという言葉が使われています。私たちの喜びを完成させるために、ヨハネは、もう色々と手紙で書くのはやめにした、と言うのです。そしてあなたに会いに行って、手紙ではなく口で語り合いましょうと言って、もう、ペンを置いたそばからすぐに荷物を抱えて、靴を足に引っ掛けて玄関を走り出るというような勢いで語っています。真理を、手紙ではなくて、あなたの教会に直接赴いて、あなたの教会の説教壇から、父なる神とその御子イエス・キリストの、恵みと憐みと平和と愛を、この口で力一杯語りたい!
そして、その夢に見るような完全な喜びが実現している状況が、今朝の、今この礼拝なのです。ヨハネの夢は叶いました。このヨハネの強い願いと夢とを載せた手紙が、今朝この板宿教会で開かれ朗読されて、ヨハネの時から2000年間、決して変わらず錆び付くこともなく弱まることもない、キリストの救いの真理が、今朝ここで語られるという、ヨハネが夢に見た喜びが、今、私たちのこの教会に実現しています。最後に「よろしく」と言って、高く手を挙げているヨハネの姿が、最後のこの13節から見えてくるような気がします。
そして、この言葉通り、ヨハネの願い通り、よろしく!という、ヨハネの挨拶を受け取るために、手紙とインクだけの離れた関係ではなくて、今朝私たちはここで一緒に出会えた。顔と顔を合わせて、親しく話し合える。そして礼拝ができた。コンプリートです。完璧です。この恵みと喜びを、今朝ここで一緒に作り上げて、この夢の実現に関わってくださった皆様一人一人に、本当にありがとうと言いたいし、お互いに、お互いを感謝したいと思います。そして、何より、ヨハネと私たちを、2000年の時と場所の隔たりを超えて、御自身の真理にしっかりと結び付けてくださった、神様と、御子イエス・キリストに、感謝いたします。
そして私たちは今週も、一緒に、神と共に、この変わらない真理の中をしっかりと地に足をつけて歩むのです。100周年を超えた板宿教会の歩みも、さらにこれからも、変わることなく、力強く続いていきます。Walk in the truth. Walk in love. 真理の中を行進していきましょう!