2023年9月24日 ヨハネの手紙三1~15節 「神の国を今ここに」
今朝で、ヨハネの手紙一から三をすべて読み終えることになるのですが、今までのヨハネの手紙一、二に、一度も出てこなかった教会という言葉が、このヨハネの手紙三には、短い手紙ながら三回も出てきます。ということは、ヨハネは、この三通目の手紙によって、もちろん今までもそうだったのですが、今まで以上に教会を意識して、教会の具体的な現実に向けて語っています。
ヨハネの手紙は、公同書簡と呼ばれる、様々な地域に広がっている教会の全体に向けて、十二弟子のひとりであり、初期キリスト教の中心人物の一人であったヨハネが書き送った、言わば回覧板のような、パブリック・アナウンス。回覧して読まれるべき、諸教会への公的なアナウンスだったのですが、この第三の手紙については、これば個別の、一つの教会に向けて書かれた手紙に見えます。なぜなら最初の1節に、「長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。」と、名指しで、極めて個人的な形で、ガイオという人物が属している教会に向けて、手紙の書き出しを書いているからです。
もう今から15年ほど前のことですが、丹波篠山で大学生のための全国修養会を行ったのですが、その時の修養会のテーマを、今朝の御言葉を読みながら、ふと思い出しました。その時のテーマは、「教会に帰ろう」というテーマでした。教会に帰ろうというテーマで大学生に話をするということは、今社会問題化している、いわゆる宗教二世問題が、私たちの教会にも、具体的な症状として、大分昔から現れていたことを意味しています。
今巷で騒がれている宗教二世問題の本質はどこにあるのかと言いますと、それは本質的には、宗教そのものが問題なのではないと思います。解散命令請求が出されようとしている、旧統一協会のような、宗教そのものがそもそも宗教の名に値しないものは、元より論外ですけれども、宗教二世問題の本質は、宗教そのものの問題ではなくて、宗教を受け継いで、その受け継いだものを次の世代に伝える際の、その伝え方の誤りに、問題の本質があるのだと思います。信仰教育や信仰継承ということは、これはもう太古の昔から、キリスト教の中でも課題とされてきた大事なことなのですが、その教育と継承の仕方を間違えて、子どもの人格を圧迫し、傷つけるようなかたちで、信仰継承が行われてしまう時、本来良きものであるはずの信仰が、負の遺産のようになって次の世代に伝えられてしまう。決して宗教そのものが悪くなくても、それを受け取り、伝える方法の過りによって、深刻な問題が、生じてしまう。
なぜ大学生に、「教会に帰ろう」と語らなければならないのか?その前提の教会離れということがなぜ起きるのか?
私たちはヨハネの手紙を通して、主イエス・キリストが真理であり、主イエス・キリストこそ永遠の命そのものであり、この方こそが愛そのものであられるということを、一緒に学び知ってきました。そこで今改めて思うことは、主イエス・キリストには悪いところが全く見つからないということです。主イエス・キリストという方を見れば見る程、私たちが主イエス・キリストを嫌いになる理由はどこにもありませんし、この方から離れなければならない理由も、ありません。
そう考えると、人が教会から離れる理由は、主イエス・キリストの素晴らしさを、その人が知らないか、誤解しているか、あるいは、主イエス・キリストのことを教会にいる私たちが、受け取り損ねて、伝え損ねて、別の受け取りがたいものに変質させてしてしまっているかという、原因は大きくこの二つに分けられます。あるいはその両方が混ざり合うことによって、教会を離れるという残念なことが起こってしまうのではないかと思います。
私も一時、教会から足が遠のいて、そのあと帰ってきたという経験があります。そこには私自身の教会へのうがった見方や、誤解や、傲慢さがありましたし、同時に、神様は完全で、神様の御言葉には間違いがないにもかかわらず、人間がそれを不完全なものにしてしまうという、教会に、キリストの教会としての在り方にそぐわない粗が見える、ギャップが見える。そうやって人間が教会の中に作り出してしまう不完全さを見てがっかりし、時にそれに我慢ならないという、そういう教会への批判的な思いも、そこには一時ありました。
そしてそのような、誤解や不完全さを内側に抱える、ほかの全ての教会と全く同じように、今朝の御言葉にあるガイオの教会にも、問題がありました。それは、今朝の御言葉の9節以降で語られています。9節10節をお読みいたします。「1:9 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。1:10 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。」
ディオトレフェスという人の名前が出てきています。10節の最後に「教会から追い出しています」という言葉がありますが、ある一定の人たちを教会から追い出すことができるこのディオトレフェスという人は、きっと教会の中で、ある発言力を持つ、今で言えば教会の役員に当たるような人物だったのではないかと思われます。けれども彼は、9節にありますように、それだけでは飽き足らず、教会の指導者になりたがっていたようです。ほかの翻訳では、「みんなのかしらになりたがっている」とも訳されています。言うまでもなく、教会のかしらはキリストであり、教会の一人一人は、キリストを頭とする、その体の一部分であるはずなのですが、ディオトレフェスは、自分がキリストの体の一部分にされているというだけでは、足りないと考える、利己的な野心家でした。
先週のヨハネの手紙二には、「だれであろうと、キリストの教えを超えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」という御言葉がありましたが、ディオトレフェスこそ、キリストの教えに留まることで十分とはせず、それを超えて行こうとする人でした。そしてヨハネは、ディオトレフェスが欲しいままに振舞うことで、キリスト教会が、キリストから離れてしまって、ディオトレフェス教会になってしまうことを恐れていました。
そしてそのヨハネの心配のとおり、その教会で起こっている事態は深刻で、10節にありますようにディオトレフェスは「悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出して」いたようです。
しかし、今朝のこの御言葉の受け止めにおいてとても大切なのは、このディオトレフェスへのヨハネの対応だと思います。ヨハネは、この第三の手紙においても、第二の手紙とほぼ同じような結びの言葉を書いて、13節14節で、「1:13 あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。1:14 それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。」と語って、さらに先程読んだ10節では「1:10 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。」と語って、決して「今すぐに、ディオトレフェスを教会から追い出せ!」とは語らないのです。むしろ、ここからヨハネは、さらにディオトレフェスと、会って話して間違いを指摘して、コミュニケーションをこれからより深めていこうとしているのです。
思えば、ヨハネの手紙は、ヨハネの手紙Ⅰの1章8節~10節の「1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」という言葉から始まりました。つまり、人には罪がり、間違いがあるということが前提なのです。だからこそ、罪を赦してくださる主イエス・キリストが来られたのであって、私たちにとっては、間違えないこと、罪を犯さないことが大事なのではなくて、逆に、犯している罪を認め告白して、罪を赦しされることによって清くされるということこそが大事なのです。
ヨハネの手紙Ⅲに唯一命令形の強い調子で語られている、「真似をしなさい」という言葉を使って、今朝の11節の「1:11 愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。」と、ヨハネディオトレフェスに向かって「お前は出て行け!」と語ったのではなく、教会に向かって、「良いことを見習え!」と叫びました。
ヨハネは、ディオトレフェスを叩き潰して、勝ち負けをつけてやろうとはしませんでした。これをもって彼を教会から切り離したりしもしませんでした。むしろ、ディオトレフェスとヨハネのコミュニケーションは、ここからスタートするのです。ヨハネが三つの手紙を通して、何度も語ってきたことは、キリストの愛にとどまり、互いに愛し合いなさいとういうことでした。私たちがそこに留まるべきキリストの愛とは、自分を十字架に掛けて殺しに来るような相手のために、自分の一番大事な命を与え返すという愛です。ですから、愛し合うということは、放っておいてもうまくやれるような相手と仲良く過ごしていくというレベルのことではなくて、愛とは、愛に値しないような相手をいかに愛しうるのかというチャレンジなのです。そして教会という場所は、その屋根の上に立っている主イエス・キリストの十字架の愛のお陰様でここに集められた、放っておいたら相手を傷つけ合ってしまうようなこの私たち罪人同士が、いかに愛し合うことができるのかという、挑戦に立たせられる場、チャレンジを行う場所なのです。
キリスト教会と言えども、ここは天国ではありませんので、私には罪がない、私は正しい、私は間違っていないとここで言い出すなら、それは通りません。先程も申しましたように、罪がないという言葉は、この教会という場所では嘘になる。ここはキリストの教会ですけれども、ここにいるのは人間である私たちですので、人間的な打算や作為やエゴが、神様の正しく清い御言葉を歪曲してしまうということも起こります。ここに集う私たちは、毎週の礼拝で罪の告白を行ったとしても、それでは全く追いつかない罪を犯し、同じ罪を懲りずに何度も繰り返してしまいます。でもそれで、ある意味良いのです。そういう私たちがここにいるからこそ、日曜日は七日に一回あり、罪の告白も、だからこそ私たちは毎週続けるのです。毎週罪を告白し、毎週悔い改めて、毎週赦しをいただいてこそ、その中で私たちは、膿むことなく、互いに愛し合うというチャレンジに、毎週毎日、新しく挑むことができるのです。
そしてヨハネは、ディオトレフェスのことも、この教会の中にこそある、罪と赦しのサイクルの中に、つまり神の真理と神の愛の中に、招こうとしているのだと思います。
そしてヨハネはさらに12節で、突如「デメトリオ」という名前を出しながら呼びかけます。「1:12 デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。」。ここを読むと、デメトリオと言う人は、全ての人が見習うべき善い模範となる人物であり、真理という、先週出てきたアレテイアという言葉とイコールで結ばれるほどの、卓越した人物であるという書かれ方をしています。しかしながら、聖書には、デメトリオについてのこれ以上の説明がありませんので、デメトリオがどこの誰であるのか、正直なところよく分かりません。ですから、少なくともデメトリオは、パウロや、その他の使徒たちのような、広く諸教会に名を馳せるような有名なリーダーではなく、むしろ、ガイオの教会に居た、極めてローカルな、リーダーというよりも、もしかしたらリーダーや、役員のような存在でもない、一般の普通の信仰者の一人だったのかもしれないと思います。
しかし、そのデメトリオこそが、ディオトレフェスとは違って、真似をすべき、見習うべき模範だったのです。そして教会とは、恐らくごく普通に、神様を慕い、毎週教会に集い、神の愛に生きたいと願いながらも、なかなかすんなりとは願うように生きることもできず、葛藤とチャンレンジを感じながら、それを繰り返しながら。もちろん聖書のことも、一度に全て分かるというのでは到底なく、毎週少しずつ、御言葉を、神様に向かっての歩みの積み重ねの中で、神様の愛を知り、神様への愛を耕していく。そういう、ディオトレフェスのように派手に立ち振る舞うのではなく、また、諸教会に名を馳せるような牧師ということでもなく、本当に良い意味で、普通の信仰者が輝く場所なのです。
ヨハネの手紙三は今朝の私たちに、そういう、デメトリオのような人が輝く、またそういう人をこそが模範とされる教会になって欲しいと、語り掛けてくれています。そして同時に、板宿教会もまた、ガイオの教会と同じく、ディオトレフェスのような側面もあれば、同時にデメトリオのような人も居ますし、それは特定の人を指すということではなく、傲慢な、人を邪魔し、人を教会から追い出そうとするディオトレフェスが、その罪が、この自分自身の内側にも住んでいますし、しかし同時に、デメトリオのような生き方も、私たちはそれを、一生涯に亘って毎週ここで学んでいますので、そのような良き賜物も、神様は私たち一人一人の中にも、確かなものとして根付かせてくださっていて、育んでくださっているのだと思います。
今朝の説教題を「神の国を今ここに」としました。これは全てのキリスト教会の究極も目標です。そして、どうせクリスチャンをやるなら、キリスト教会をやるなら、ここに神の国を呼び込む勢いで、本気でやってやろうじゃありませんか。神の国を今ここに来たらせるということは、私たちが、今の倍の人数を備える大きな教会に様変わりしようということではなくて、確かにこの教会も人間の教会であり、本当に沢山の弱さや欠けもあるのだけれども、しかしながら、この罪ある人間である私たちにこそ、今この時代この場所に、キリストの教会を建て上げるという光栄ある務めが委ねられていますので、今朝の6節から8節も語っていますように、愛が証しされる、神様に喜ばれる教会となるために、神の御名のために、真理のために、共に働き、共に歩み続けたいと思います。
私たち自身は完璧とはいきませんが、しかし完璧な神様の愛と、それを言い表す真実の神様の御言葉がここにあることは確かです。ですからデメトリオのような、私たちがここで続ける小さな奉仕や信仰生活も、神様の愛を現わす働きとして用いられます。さらに、聖書がガイオやデメトリオという小さな名前を取り上げたのと同じように、この小さな教会とそこに生きる私たちの働きにも、神様は、必ず目を留めてくださいます。神の国を今ここにもたらすという、チャレンジが、板宿教会を通して、今週も、これからもずっと、私たちを通じて、この場所で力強く行われてゆきますように。