2023年10月15日 ヨハネ黙示録1章1~20節 「命の鍵」
今朝からは、ヨハネの手紙に続いて、同じヨハネが書いたとされるヨハネ黙示録を、また新しく読んでいきたいと思います。
しかしヨハネの黙示録といいますと、皆様の一般的なイメージとしては、ちょっと取っつきにくい、書いてあることが良く分らない、難しい、あるいはもっと言えば、書いてあることが非常におどろおどろしい。そういう意味で怖い、という印象があるかもしれません。
けれども、これからの説教を通して、その印象が正反対のものになると思います。実はヨハネの黙示録ほど、私たちにとって身近で、必要で、慰めに満ちた御言葉は、他にほとんど類を見ないと言えるほど、ヨハネの黙示録には、今私たちが求めている、私たちに不可欠な励ましの御言葉があります。そういう意味で、ヨハネの黙示録の御言葉との新たな出会いを、私たちはこれから一緒に経験したいと願っています。
先程、このヨハネ黙示録には、私たちに不可欠な励ましの御言葉があると申しました。それはどういう励ましであり、このヨハネの黙示録という書物は、何を伝えるためのいかなる書物なのかということを、今朝の1章は語ります。
ヨハネ黙示録の1章1節は、このような言葉で始まっています。「イエス・キリストの黙示」。この初めの一言が、そのまま「ヨハネの黙示録」という、この文書の名称になっているわけですけれども、この「イエス・キリストの黙示」とは、どういう意味の言葉なのでしょうか?黙示という言葉は、何か謎めいた言葉として、神秘的なイメージでとらえられてしまいがちです。しかしそういう意味での神秘だとか、謎解きのような仕方で、この黙示録の御言葉に向き合っていくことは、黙示録の正しい読み方ではありません。世界の終わりはいついつ来るだとか、大地震や大戦争はいつ起こるだとか、そういう誰それの大予言という様な事を語るのが黙示録ではありません。
「黙示」という言葉は、訳し変えますと「啓示」とも訳せる言葉で、この言葉の本質的な意味は、日本語で考えるよりも、外国語で考えた方が寄り分りやすいのですけれども、例えば英語では、この「黙示」という言葉は、「Revelation」と表現されます。そして、英語の聖書では、そもそもこのヨハネの黙示録という文書自体も、ヨハネという言葉は用いずにただ、Revelationと呼ばれています。そしてRevelationとは、謎とか神秘という意味ではなくその逆で、それは「覆いを取り去って明らかにする」という意味の言葉です。Revelationとは、暴露すること、だとか、意外な新事実が明らかにされること、だとか、以前には秘密だった驚くべき事柄が、突然知られるようになること、等の意味があります。ちなみにこれは、ドイツ語では、offenbarungという言葉で、offenとは開くという、オープンという意味で、barungは、コミュニケーションという意味ですので、offenbarungとは、コミュニケーションが開通し、意味が分かるようになるという言葉になっています。
つまり黙示とは、覆いが取り除かれて、隠されていた事柄の意味が明らかになるということなのです。それは端的に言えば、ヴェールを取り除く、カーテンを開けるということなのです。つまり「イエス・キリストの黙示」この一言で始まるヨハネ黙示録は、イエス・キリストについての覆いを取り去って、主イエス・キリストの何たるかを明らかにする書物なのだと、最初の一言めから言われているのです。
ではなぜ、そのキリストのヴェールと取り除く必要があったのかと言いますと、このヨハネ黙示録が書かれた当時のキリスト者たちの状況に、それは深く関係していました。この辺りの事柄については、この先手紙を読み勧める中でもだんだん明らかになっていくと思われますが、このヨハネ黙示録が書かれたのは、起源後100年頃の時代ではないかと考えられています。この時代は、ドミティアヌス帝というローマ皇帝が、皇帝崇拝を強要しながら、それに従わない者への組織的な迫害を始めた時期と重なります。この時代のローマ皇帝は、自らを主と、「キュリオス」と呼んで礼拝の対象とすることを求めました。そしてこれは、イエス・キリストを「キュリオス」と、主と呼んで、主イエスのみを礼拝の対象とするキリスト教信者のあり方に、真っ向から対立するのです。
そして、ローマ皇帝をではなく、イエス・キリストを主と呼ぶキリスト者たちは、迫害を受けて、多くの殉教者をだしました。このヨハネ黙示録が書かれたのは、その時代です。あの十二弟子の筆頭であったペトロも、そしてさらにあの使徒パウロも、最後はローマで殉教したと言われています。
さらにこの文書の執筆者である当のヨハネ本人も、この時どういう状況にあるかというと、それは9節の御言葉に記されています。そこには、「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」と書かれています。あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている、私たちクリスチャンの仲間であるヨハネ。しかしヨハネは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。つまりヨハネは、神の言葉にのっとって歩み、イエス・キリストへの信仰を証したゆえに迫害を受けて、このパトモス島という島に、この時島流しにされていたとみられています。
つまりこの時、信仰を持つということに伴う、深刻な迫害があり、それによって命を落とすような現実があったということです。
そしてこのヨハネの黙示録の現実は、私たちの現実と、遠く隔たるものではないのだと思います。私たちにも、色々と難しく、また苦しむようなことが起こります。必ずしもそれは迫害や殉教という激しいことではないかもしれませんが、しかしながら、キリスト教は、教会は、そして私たちクリスチャンは、この社会において無視されている。無関心という名の迫害を受けているともいえるのではないかと思います。私たちの社会では、何十年経ってもクリスチャン人口が1パーセントです。これ以上下がったら0パーセントになってしまいますので、世界的に見ても、日本のキリスト教人口は、これ以上少なくなりようがないぐらいの少数です。
そして、そこで問題になるのは、本当にこれで大丈夫なのだろうか?ということです。全地全の神様と祈りながら、イエス・キリストだけが私たちのキュリオスだと信じているけれども、本当にこの神様で大丈夫なのだろうか?神様はお祈りに答えてくださるのだろうか?祈りを聞いていてくださっているのだろうか?神様は本当に今も生きておられるのか?この先も、この神様を信じ従っていって、本当に大丈夫なのか?
神様は目に見えません。祈っていても、祈りが神様に届きましたという着信確認メールが携帯に届きはしませんので、教会も小さければ、クリスチャンもマイノリティーで、目に見える芳しい結果が出ていないかのように思われる私たちは、不安にさいなまれるわけです。
しかし、パトモス島に島流しにあって恐らく牢屋に幽閉されている状態のヨハネは、ちょうどこの今の私たちと同じように、主の日である日曜日に、自分で神様に祈り、礼拝をささげる中で、神の声を聞きました。それが10節11節の御言葉です。「ある主の日のこと、わたしは霊に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。』」
七は聖書においては事柄の総体をも意味する完全数ですから、これは単純に七つの教会に、七通の手紙を送れということではなくて、あなたの見ていることを巻物に書いて、全ての教会に、私たちのこの板宿教会も含めた、全時代の全ての教会に宛てられた言葉として、書き残して、あまねく伝えなさいという、神様からの言葉が、大声で聞こえてきたのです。
続く12節から、まず16節までをお読みいたします。ここには、ヨハネに向かって大声で語り掛けてくる、その声の主の姿が描写されています。大きな声で語り掛ける声の主はどんな姿をしているのか?その姿を思い描きながらお聞きください。12節からです。「1:12 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、1:13 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。1:14 その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、1:15 足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
大きな声がして、振り向いたら、ヴェールを剝がされた主イエス・キリストの姿が見えた。いかにも黙示録というような、おどろおどろしい主イエスの姿に思われるかもしれませんが、実はここでのこの主イエスの御姿は、聖書の中にある神様の偉大な姿とそのエッセンスを全部盛り込んで詰め込んだような、恵みと力に溢れた姿です。
そして、この主イエスの姿の見え方において最も大事なことは、そういう空前絶後の、今も生きておられる、強く偉大な主イエス・キリストが、七つの金の燭台の中央におられるということです。七つの燭台とは、七つの教会、すなわち、全世界の全ての教会のことを指します。つまり主イエス・キリストは、遠くから私たちのこの教会を眺めておられるのではなくて、諸教会の近くに、その真ん中に、その中央に身を置いてくださっているということです。ちょうど七つの燭台が取り巻く円の中心に主イエスが立っておられるというイメージです。主イエスは今どこにおられるのかというと、主イエスは今も生きて、今この地上の数ある教会の、その中央におられるのです。これは大きな慰めの言葉です。
さらに、少し戻って8節にもこうあります。「1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」
アルファであり、オメガである。日本語で言えば、アから始まりンで終わる。つまり、全ての言葉、全ての事物、全ての歴史を包み込んでおられる全能者イエス・キリスト。その方は、今おられ、かつておられ、やがて来られる方だと語られています。かつて過去におられ、そして今おられ、やがて未来に来られる方、という過去現在未来という言い方ではなく、今おられ、かつておられ、やがて来られる方だと。この語り方に、今、イエス・キリストが、今この時にも生きておられるのだという事実が強調されています。
続いて17節から20節です。「1:17 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、1:18 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。1:19 さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。1:20 あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」
ヨハネは、その主イエスの姿を見て、その足元に倒れて、死んだようになった。かつての十二弟子のひとりであったヨハネですから、リヴェールされて、ヴェールを脱いだ、最強の装備で誇張されたような主イエスの姿を見て、その想像を超えた姿があまりに衝撃的過ぎて、ヨハネは思わず気絶してしまうのです。
しかし主イエスは、倒れたヨハネに手を置いて、主イエスはこう言われました。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」
主イエスが、ヨハネに最初にかけてくださった言葉は、恐れるな、という言葉でした。恐れてはならない。恐れる必要はない。わたしは最初の者にして最後の者、出発点でありゴールである。即ち私が、世界の最初から最後まで、全てを支配している。私は十字架に架かったイエスである。十字架で死んだが、死んでしまった過去の者ではなく、今も、今から後も、限りなく生きている。そして私は、死と陰府の鍵を持っている。
管理が悪く、色々なものをつい無くしてしまうのが得意な私ですので、私はいつも、家の鍵だけは無くしてはいけない、これを無くしたら大変なことになる、という恐怖と戦っています。鍵を無くすという経験は、とても恐ろしい経験で、落とした鍵を誰かに拾われてしまったら、いつでも家に入られてしまい、自由に何でもされてしまいますので、それでは生きた心地がしません。
しかしこの御言葉では、死と陰府とが、自らの鍵を、主イエスに奪われている。主イエスが死と陰府の鍵を手中に収めていると言われています。主イエスは死からの復活によって、人間を死の地獄に閉じこめる陰府の門をこじ開けて、死にゆく私たちに、天国への道を開いてくださった方です。とても強い力を持っているように見える死と陰府の力は、しかしもう主イエスに対しては通用しない、この方に対しては、死は降伏して、その鍵を明け渡してしまっている。墓の中から人を甦らせるための命の鍵は、私たちの救い主、主イエスがしっかりと握っておられます。
そしてこれらのことが、黙示録の語る希望であり、黙示録がヴェールを剥いで明らかにしている、目には見えない現実なのです。主イエスが今も生きておられ、最初から最後まで、私の始まりから終わりまでの全てを支配してくださっている。この方が、この教会の只中に居てくださる。だから恐れるな、だから大丈夫だ、だから安心して行きなさい!この力強い主イエスの声が、この黙示録から私たちに向かって聞こえて来る声です。
これからのこの一週間の中で、私たちが死と向き合うようなことがもしかしたらあるかもしれません。そこまでのことはなくても、力を失ってしまい、本当に大丈夫なのだろうか?この自分自身も、自分が信じより頼む神様も、もう駄目なんじゃないだろうかと思ってしまうことがあるかもしれません。しかしそうやって落ち込む私たちのために、ヨハネは天国を垣間見て、そこで見たことを書き留めてくれました。主イエスは、今、本当に生きておられて、恐れているこの私に、今、恐れるなと語ってくださっている。主イエスが私たちの命の鍵を、握ってくださっている。ダメではない。大丈夫だ。だから恐れるな。