20231029日 ウェルカムサンデー ヨハネによる福音書1章43~51節 

 吉岡くみさんの半生の中で働かれた神様と、神の御子主イエス・キリストとの出会いをお聞きすることができました。

 今朝のテーマは、「イエス・キリストとの出会い」です。キリスト教では、キリスト教という名前そのものが示す通り、イエス・キリストというお方を通して、神様に出会うわけなのですが、その神様との出会い方が、今お読みしました聖書の言葉に語られています。

 

 神様を知り、神様と出会うということは、普通は、どういう風にして起こるのでしょうか?それは、普通は、私たちから神様のことを選び取っていくことによって起こるのだと思います。キリスト教、神戸、須磨区、と検索すれば、板宿教会のホームページが出てきます。そのホームページを眺めて、さて、行くべきか行かないかを考えて、自分の希望に合うような教会だなと思ったならば、問い合わせてみる。そうやってここに来た。神様に出会うことは、とても大事なことですから色々なことを自分でよくよく考えて、判断して、ここに来るわけです。

 

 今お読みした聖書に登場するナタナエルという人も、そういう風に考えていました。ある時、友人であるフィリポが突然やって来て、「旧約聖書のモーセや預言者が書いている方に出会った、つまり救い主メシアに、神の子に出会った」とナタナエルに語りました。

 しかしナタナエルは、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と即答して、名もないナザレの寒村から、メシアが出現するわけがなかろうと言って、要らない、私は結構、と言って、興味を示しませんでした。

 しかし友人フィリポが、「来て、見なさい。」と、まず来て、その人のことをその目で見てから判断しなさい、と強く迫りましたので、興味を持たないナタナエルでしたが、そこまで友人が強く薦めるのなら、仕方ないなというかたちで、しぶしぶフィリポについていくというかたちになっているように見えます。

 

 けれどもそこから急に、実はこの話の展開の仕方が大きく変わります。フィリポに強引に誘われたナタナエルが、しぶしぶではあっても、しかしフィリポに腕を引っ張られて、イエス・キリストに出会いに行くのかなと思いきや、この場面を映し出している撮影用カメラの視点が急に切り替わって、47節からですけれども、急にイエス・キリスト目線から見た話になるのです。

 47節48節をお読みします。1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。」

 

47節の主語はナタナエルでなくて、主イエスになっていて、47節以降の場面を映し出すカメラは、主イエス・キリストのこめかみに付けられていて、そこから見える主イエスの視点で、ナタナエルを捉えていくのです。

よってこれは、ナタナエルがイエス・キリストを探し出し、見いだして、主イエスに出会う話ではなくて、その逆の、主イエス・キリストが、御自分の方から、ナタナエルに出会ってくださるという話になっているのです。そこではナタナエルが主イエスを見るのではなくて、主イエスが彼を見て、彼は主エスに見られる側に回ります。

 

47節~49節を改めて朗読いたします。1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」」

「まことのイスラエル人、この人に偽りがない」というナタナエルへの言葉は、この人こそが、本当に救いに値する、誠実で率直な人物だ、ということです。

 まだちゃんと顔を合わす前に、しゃべってもいない相手から、いきなりそのような、ナタナエルの人となりをしっかりと言い当てた言葉をかけられて、ナタナエル嬉しかったと思います。そして同時に、彼は不思議に思いました。「どうして私を知っておられるのですか?」

そこで主イエスはお答えになりました。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」

フィリポに会う前、ナタナエルは、恐らく一人きりで、いちじくの木の下に座っていたのでしょう。一人だったその時のナタナエルを見ている人は誰もいないと思っていた。ナタナエルが、今自分はたったひとりだと思っていた時に、しかし、そんな自分を見つめている目があった。ナタナエルがフィリポに引っ張られて主イエスのもとに向かう前から、主イエス・キリストは既に自分のことを深く知り、この自分のことを深く見ていてくださった。

「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」鳥肌が立ったと思いますし、ナタナエルは、神様という方は、自分が考えていたよりももっとずっと広く大きく力強く、自分を今まで包んで、守ってきてくださった方なのだということを、知ったのだと思います。自分が神様を知るよりも、もっと大きく、神様は、自分の全てを、誰よりも知ってくださっている。

 

 ここに集められている私たちは皆、自分が自覚するよりもずっと前から、主イエスを知らず、独りでいる時から、主イエスに見つめられ、知られていた一人一人です。

なぜ信じるのか?何ゆえに主イエスを信じて、神に従う者になるのか?それは、この二つの小さな目が、イエス・キリストを見出したからではありません。反対に、私たちそれぞれが、主イエスによって見いだされたからです。ナタナエルはそれが分かったから、主イエス・キリストについていきました。

 

ナタナエルに対して、主イエスは最後でさらに言葉を加えてくださっています。50節~51節です。「イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」。

 これは、天国が自分の前に開けるということです。最後の51節の終わりでは、ナタナエルのことを指すはずの「あなた」という言葉が、「あなたがた」という複数形に変えられています。そしてこの「あなたがた」という複数形の中に含まれているのは、実は、この物語を今朝読んだ、この私たち一人一人です。このナタナエルと主イエスとの出会いは、ただナタナエルだけに起こった出会いなのではなくて、吉岡くみさんにも、そして私たち一人一人にも、起こる出会いです。

 

私たちは、自分に寄り添ってくれる人を、いつも必要としています。けれども、いつ何時でも自分に寄り添ってくれる人など、現実的ではありません。私たちが、道端に、木の下に、公園のベンチに、所在なく独り佇むような、人生の悩みの時、人生の木枯らしが吹きすさぶようなその時に、しかし“今、あなたは一人ではない”と呼ぶ声がする。いつどんな時にでも、私のことを一人にせずに、“あなたは一人ではない”と言って、一緒に寄り添ってくれる、存在がある。今までも、今も、そしてこれからも、天国が目の前に開けるまで、主イエス・キリストという、神が、神の御子が、私のことを見ていてくださる。

 

私たちにとってとても大事なことは、自分が神様のことを信じられるかどうかということ以前に、既に、神様の方が、いつもあなたのことを見ていてくださり、あなたを探し、あなたに出会って、「あなたはひとりではない」と言って、あなたに手を伸ばしてくださっているという事実です。