2023年11月5日 ヨハネの黙示録2:1~7 「取り戻す」
今朝から、ヨハネ黙示録2章から始まって3章の終わりまで続く、「七つの教会へ宛てた手紙」を読み進んでいきたいと思います。黙示録では、この2章1節から3章終わりまで、立て続けに七つの教会への手紙が列挙されるのですが、これには一体どういう意味があるのでしょうか?
ある研究者はこの「七つの教会に宛てた手紙」を、ヨハネの黙示録が持っている、七つの異なる序論であると言っていました。そしてその見方によれば、「このヨハネ黙示録の執筆者は、明瞭に異なる七つの視点から読まれるように意図された、一冊の書物を書いている」と言われています。非常に興味深い取り上げ方だと思いました。2章から3章に出てくる七つの教会は全て、規模も、環境も、抱えている問題も異なっている別々の教会です。けれども、そういう七通りの序論に続いて、ヨハネ黙示録は語り出される。ということは、この黙示録の内容は、ある特定の教会にだけ必要な、そこにだけ当てはまる言葉なのではなくて、あらゆる教会によって読まれるべき、もっと言えば全ての教会に当てはまる言葉として、読むことができます。
7という数字は聖書においては完全数という特別な数です。それは単純に7という数だけではなく、物事の総体、事柄の全体を意味する数字です。ですから、七つの教会は、全ての教会の姿を代表している七つの教会なのです。そして適用をさらに深く当てはめていくならば、この七つの教会は、この私たちの板宿教会も含めて、全ての教会が持っている、あるひとつの教会の七側面だという風にも理解できると思います。ですから私たちは、この七つの教会の姿と、そこに向けられている神様からの言葉を聞きながら、これを自分の教会に向かって神様が語ってくださっている言葉として聞くことができるのです。
私などは、この七つの教会の姿を見れば見るほど、レントゲンのエックス線写真でこの板宿教会を眺めているような思いになります。この七つの教会を見れば見るほど、自分の教会の骨格が透けて見えてくる。そしてそれは当然です。なぜならこの七つの教会も、この板宿教会も、同じ教会だからです。そこには同じ血が流れています。同じ教会ですから、同じ骨格を持っているのです。
そして、そうであれば、病気や不具合が生じる時には、同じ様なかたちで具合が悪くなる。同じ症状が出て、同じところが痛んでくる。けれどもそれだからこそ、同じ薬が効くということにもなります。
さらに私たちは、この七つの教会に向けた手紙を読みながら、教会の一部分を担っている、この私自身のことをも発見することができます。私たちは、キリストの体なる教会の節々を構成している、その一部分一部分でもありますから、黙示録に出てくる七つの教会の姿はそのまま、私自身の中にもある、七つの姿、七つの要素として、この私という、教会につながる一人の人間のあり方にも当てはまってくるのです。ですから私たちは、そこに自分の教会の姿や、この自分自身の姿を重ね合わせながら、この御言葉に向き合ってゆく、ということが大事だと思います。
そこで今朝の1節から7節の御言葉なのですが、ここには、エフェソ教会に宛てて書かれた手紙が記されています。まず1節の御言葉をお読みします。「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。右の手に七つの星をもつ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。」前回は、七つの金の燭台の中央に主イエスが立っておられるという御言葉に励まされましたけれども、今朝の1節にも、「七つの金の燭台の間を歩く方」という言い方で、教会の間に身を置いてくださっている主イエスの姿が語られています。その七つの金の燭台の間を歩く方が、エフェソにある教会にこう書き送れとおっしゃいます。そして何をそこで言われるのかというと、褒められるべき良い点についてと、改善されるべき悪い点について、その両面をここでおっしゃっています。
そこでまず、褒められるべき良い点として、主イエスがエフェソ教会のどんなところを指摘しておられるのかを見てみたいと思うのですけれども、それはまず2~3節の御言葉にあります。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたこと知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」
主イエスは最初に、何よりもまず教会を褒めてくださっています。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。私はそのあなたの行いと労苦と忍耐を知っている。本当にもったいないぐらいの励ましの言葉だと思います。あなたはよく頑張った。わたしのためによく忍耐した。あなたの頑張りを私は認める。私はそれを知っている。クリスチャンとして、主イエスにこう言っていただけるならば、自分の全てが報われるという程の、本当に嬉しい言葉です。まず主イエスは惜しみなく私たちを褒めてくださっています。感謝しかありません。
エフェソという都市には、古代ギリシャの女神を祀ったアルテミス神殿という大きな神殿がありました。異教の神殿があったということは、同時にキリスト教徒にとっては不利な街だったということです。
けれどもそういう中にあっても、エフェソ教会のキリスト者たちは、よく忍耐しました。特に2節で言われていますように、「自ら使徒と称して実はそうでない悪者ども」をきちんと見分けて、彼らの嘘を見抜いたようです。この前まで呼んでいたヨハネの手紙にも語られていましたが、そのような偽預言者たち、反キリストと言われるような人々がここにもいて、自ら使徒だと、キリストの弟子の一人だと自称しながら、実は主イエスの福音を曲げていた。しかしエフェソ教会のキリスト者たちは、彼らの嘘を見抜くことができました。偽預言者のような異端的な教えを吹聴する人たちは、多くの場合、それなりの魅力を持って迫ってくるのですけれども、エフェソ教会はそれになびくことはなかった。それだけ、エフェソ教会のキリスト者たちは、神様の知識に富んでいた。御言葉に立つ力、御言葉に立脚して洞察力があった。識別する力、悪を除外する力があったのです。
さらに主イエスはそれに加えて、6節の言葉によって彼らを褒めてくださっています。「だが、あなたがたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。」
ニコライ派とは、聖書の説明が少ないために、詳しい実体は分らないのですが、これもこの頃に現れていた異端の一つだと考えられています。そしてニコライ派は何を主張したのかと言いますと、それは世俗主義であったと、彼らは教会の世俗化を促すような人々だったと考えられています。世俗化とは、教会が世の中と妥協してしまうことです。そしてこの世俗化の問題は、現代の教会が直面している最も大きな問題と言ってもよいと思います。教会には、世の中のやり方に合わせるべきなのではないのかという圧力が、常にかかってきます。
他の人たちはみんなやっている、世間ではそれが常識だ、という言葉に、私たちはキリスト教会として、注意しなければなりません。多くの場合、主イエス・キリストが語られることは、罪ある私たちが作り上げる世の中の常識とは逆を行くものです。教会が世の中に合わせて、世の中に埋没してしまったら、教会は、他のサークルや団体と何が違うのかということになってしまいます。教会にとって、世の中のためにできる一番良いこととは、教会がキリストの教会らしくあり続けることです。
しかしながら、同時に彼らには、悪い点、改善されるべき点もありました。それが4節から5節に語られています。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」
エフェソ教会の人々は、信仰の規準をしっかりと保っていました。何が正しい教えで、何が正しくない教えであるのかという、信仰的な正しさについて、彼らには揺らぐところありませんでした。これは教会にとって必要な、大切な事柄です。けれどもただ、信仰的に正しいか正しくないかというその視点を持っているのみでは、教会として失格なのだと主イエスは彼らに言われます。「あなたに言うべきことがある。あなたがたは正しい信仰を持っているかもしれないが、初めのころの愛から離れてしまった。だから、悔い改めよ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」この最後の言葉は、もしエフェソ教会が悔い改めないのならば、教会を取り消してしまおう。取りのけて、消去してしまおうという、滅びの警告です。
エフェソ教会は正しい教会だったのですけれども、教会として一番に必要な、欠いてはならいものを失っていた。それは愛だと主イエスはおっしゃいます。愛から落ちてしまったと言われてはいても、しかし彼らは、異教社会の中で、異端を排除し、世俗化にも打ち勝って、そこで教会を建てて、礼拝に集まってはいたわけです。外見上は熱心で真面目な教会にしか見えない。そしてエフェソ教会の人々自身も、自分たちに問題があるとは考えていなかっただろうと思います。けれども主イエスから見て、そこには、教会にとって一番必要とされる愛がなかったのです。
「冷たい正論を振りかざす」ということが時々言われたりします。言っていることは、やっていることは正しくて、文句のつけようがないのだけれども、そこに愛が欠けている。ある説教者によって語られた、正論についてのこのような言葉があります。「正論とは、道理は通っているが人間にとどいていないせっかちさです。道理は通っていないが人間に届いているゆるやかさ、それを愛と言います。道理が通っていないという理由でこれを斥けてはなりません。人間の弱さに対する洞察において、正論は遠く愛に及ばないのです。」
エフェソ教会は、福音の教えを忍耐をもってよく守った、真面目で堅実な、その面では成熟して分別のある、言うなれば大人の教会でした。しかし同時にその中で、自分たち自身のあり方に対する奢りや自信なども芽生えていたのではないかと思います。その中で次第に、彼らは硬直化していった。頭が固く、頑なになっていった。そして冷たくなっていった。知らず知らずのうちに彼らの内には、柔らかく、あたたかい愛が欠如していった。
しかし主イエスは、黙示録を通して彼らに、そして私たちに、思い出させてくださっています。正しさや正論よりも、永遠に残るものは、何より信仰、希望、愛であって、その中で最も偉大なものは愛である、ということを。主イエスは、彼らに対して7節の言葉を語ってくださいました。「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」主イエスが彼らに与えたいと思っておられることは、勝利です。勝利とは、負けないこと、敗れ去らないこと、死なないこと、消え去らないこと、そういう勝利とはつまり、永遠の命に生きるということです。そして「神の楽園にある命の木の実を食べる。」これ以上の勝利はありません。それを主イエスは、食べさせよう、と言ってくださっています。
正論の筋を通せば、私たちが命の木の実を食べる資格はもうありません。私たちはアダム以来の罪を繰り返し犯して、命の木の実の資格を失いました。しかし、そんな私たちを、主イエスは冷たい正論で裁かれません。創世記ではダメだった。でもそれで終わりではない。主イエスは私たちを勝たせたいと願ってくださっている。そこでは、失敗が否定されているのではなくて、失敗が許されて、罪が赦されて、罪の罰が十字架ゆえに免除されている。やり直せる。取り戻せる。いくらでも何度でも。際限なく赦される。聖書には、色々な矛盾と思われるような部分が、見方によっては見えるのかもしれませんが、しかし神の愛という筋はビシッと通っています。神様は、正論の道理ではなく、愛の道理を通し抜いて、いつでもどこでもどこまでも、一貫した愛で、全ての筋を通してくださいます。
主イエスがエフェソ教会に対して言われた「悔い改めて、初めのころの行ないに立ち戻れ」という言葉は、私たちへの言葉でもあります。ハリー・リーダーというアメリカの長老教会の牧師が、「From Ember to Flame」「燃えさしを炎へ」という、教会を再生させるための本を出されて、私は留学中にその本に出会って深い感銘を受け、リーダー先生のセミナーにも出向いて行って参加してきました。その本のことは、板宿教会の赴任当初にも紹介しましたし、神学校でも宣教学の教科書に使っています。実はそのリーダー先生は、今年5月に交通事故で突然召されてしまったのですが、先生が、教会の再生のために、最も力を込めて語っておられたのが、今朝のこの2章4節の御言葉でした。
統計的に成功しているように見えても、不健康な教会があり、リーダー先生が神学校卒業後に最初に赴任した教会がそうだったように、教勢が落ちて死にかかっているような教会もたくさんあります。アメリカでも、新規の教会も立つ一方で、毎年本当に多くの教会が閉鎖に追い込まれています。そしてそのような教会が、再び再生するために必要なのは、あらゆる無駄を省くトヨタ方式のようなビジネスモデルでも、新しい企業経営モデルでも、セラピーのような治療モデルでもなく、聖書のモデルであると、ハリー先生は強調されました。そしてそれで、ハリー先生は実際に教会を再生させました。このヨハネの黙示録2章4節にある通りに、「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めのころの行いに立ち戻れ」思い出しRemember, 悔い改めてRepent, 立ち戻れRecover、という、御言葉通りの、Remember, Repent, Recoverという3つのRを辿ることによってこそ、教会は燃えさしから炎へと蘇る。
先週の10月31日は、キリスト教会では、ハロウィンではなく宗教改革を記念する日でしたけれども、宗教改革という世界史を転換させた大変革も、ルターが、ローマの信徒への手紙という聖書の原点に立ち返って、罪人である私は、果たして何によって救われるのかと、真剣に問うたことによって生じました。
ですから、板宿教会が、そしてこの私たちが、新しくされていくためにするべきは、目新しい理論やプログラムに飛びつくことではなく、聖書と、そこにある主イエス・キリストの福音という原点を、いつも思い出し、思い出したら悔い改めて、そこに立ち返ることによってです。そしてそれは、具体的には私たちが毎週日曜日にこの教会に集いながら行っていることであり、先週の女性会でもそうでしたが、平日に集まって、あるいは個人で行っている御言葉の学びが、教会と、私たち皆の、根本的な力と愛の源です。そこへの原点回帰によってこそ、新しい変革が起きる。そこから、真に新しい創造性が生まれ、クリエイティブで新しいことが生み出される。クリスチャンは、そして教会は、常にそこから力を得て、未来を切り開いてきました。
今も昔も、私たちと、この世界が求め必要としているのは、それは愛と平和です。愛と平和が、この社会にも世界にも足りなくて、皆が困っています。そしてそれを取り戻す、愛と平和の源泉が、この聖書であり、この教会であり、この私たちなのです。
私たちが神様の愛と平和に立ち戻って、それを取り戻して、それを消えかかった燃えさしから炎へと燃え立たせることが、この世界に希望の灯をともすことになるのです。そしてこの私たちがこの場所で愛を取り戻すために行う、忍耐と挑戦と悔い改めを、主イエスは知っていてくださり、誰よりも応援して、支えてくださっています。