2023年11月12日 ヨハネの黙示録2章8~11節 「本当の豊かさ」
私たちは、誰しもが豊かでありたいと願うのだと思います。けれども、単に豊かと言っても、その豊かさとは何かということが問題です。何が私にとっての豊かさで、何が私を豊かにするのか?何が私を満ちたらせるのか?このことをしっかり知っているということは、豊かさを求めている私たちにとって、とても大事なことだと思います。
なぜなら、偽りの豊かさというものがあるからです。豊かになろうなろうと思って、これを手に入れさえすれば自分は豊かになれると信じて、物であれ、お金であれ、時間であれ、自分の地位であれ、色々なものを求めて、それをたとえ手に入れたとしても、けれども実は満たされなかった、残念ながらそれで豊かになることはできなかったという経験を、私たちは、実のところしょっちゅう繰り返しているのではないかと思うのです。
豊かさということを考えるとき、私たちはそれを、大抵物質的に捉えるのですけれども、しかし必ずしも物質が自分を豊かにするものではないということも、私たちは経験として良く知っています。しかしながら、豊かさを単に心の問題にして、単なる気持ちの持ち方次第だと考えるのも、私たちにとってはかなり物足りない、弱く儚い豊かさでしかなくなってしまうだろうと思います。ちょっと考えてみて欲しいのですけれども、皆様はどういう時に、「ああ、豊かだなあ」と感じることができるでしょうか?
色々な豊かさがありうると思いますけれども、パッと私の頭に浮かんだのは、アメリカの神学校に留学した時のことです。少し変わった関心かもしれませんが、特に大学の図書館が信じられないぐらい豊かでした。英語とドイツ語とラテン語で書かれた文献で、私の研究分野に関係するあらゆる資料が、図書館にもらっていた私の机の半径10m以内に、すべて揃っていました。いくら潜水しても決して底の見えない深い海のようなその場所で、私は朝8時から夜10時まで、日々新しい発見に出会いながら、その自分の読書量と学習能力をはるかに超えた、大きな豊かさを楽しんでいました。私はそこでとても豊かでした。
また、豊かさを考える時にいつも思い出すのが、知り合いの牧師が、世界でも有数の幸福度が高い国として知られている、ニュージーランドにほど近いバヌアツ共和国という島国の、その中の小さな島の一つに、青年海外協力隊の隊員として一年間滞在した話です。
ぎりぎり電気が通っている、自給自足のその島では、その友人が夕方に散歩をすると、いつも両手に溢れる程の魚や果物を、会う人会う人が、惜しみなく彼にくれるのだそうです。そして、漁師の人が、「私はまた海に潜ればいつでも魚を取ってくることができるが、お前は魚釣りができないから、私がお前に捕れた魚をあげるは当然だ」と言うのだそうです。物質的、また経済的に豊かでなくても、バヌアツは豊かで、そこに生きる人は幸福で、自由な生き方をしているのです。
つまり、ここから少なくとも言えることは、何かを自分の手の中にたくさん持っているということが、必ずしも豊かさに繋がらないということです。バヌアツの人々は、自分の手の中には何もなくても、無限に広がる豊かな海に、自分たちは抱かれ、養われて、守られて歩んでいる。そういう、決して倒れない、大きな後ろ盾が自分にあるという事実が、本当の豊かさを生む。つまり人が本当に大きな豊かさの中にある時、その人は、自分の懐で勝負していないわけです。自分の持てるもの、自分の頭の中に入るキャパシティーには限界があるので、そこをパンパンに満たしても、その豊かさはたかが知れています。ですから、自分の力や器を超えた大きなものに支えられる時にこそ、人は本当に豊かになれる。
今朝の御言葉は私たちに、9節で「だが、本当はあなたは豊かなのだ」と語ります。とても魅力的な言葉だと思います。いつも、もっと欲しい、貧しい、足りないと思い続ける私たちに、「本当は、あなたは豊かなのだ」と語る聖書の言わんとするところの、本当は、とは、どういう本当、なのでしょうか?
今朝のこの御言葉は、七つの教会に宛てて書かれた手紙の、第二番目の、スミルナの教会に宛てて書かれた手紙です。誰がこの手紙を書いたのかというと、書き手の自己紹介が8節にあります。8節をお読みします。「スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。』」1章にも「アルファでありオメガである」いう言葉が出て来ましたけれども、「最初の者にして最後の者である方」とは、とこの意味は、最初から最後まで、歴史の始まりから終わりまでの全てのことに関わっている方、という意味です。さらにこの方は、一度死んだが、また生きた方である。なればこの方は、十字架の死と、その三日後の復活を経験された、主イエス・キリストである以外にありません。その主イエスが何と言われるかというと、「私は知っている」と言われるのです。
9節をお読みします。「『わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、私は知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。』
聖書が語る、豊かさの根拠が、この9節の言葉の中に語られています。9節の文章には、動詞はたった一つ、最初に「私は知っている」という言葉が記されているだけです。ですから主イエスは、9節で言われていることの全てを知っている、というのです。十字架に架かって復活された主イエスが、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。」と言ってくださっている。主イエスは、決して豊かではない、見た目にはちゃんとしっかり満たされているように見えても、実は心がジリ貧で辛いとかいう、そういう私たちの苦難や貧しさを、知っていてくださる。
さらに主イエスが「知っている」と言われる時の、この「知っている度合い」には、特別に深いものがあります。ここで使われている「知っている」という言葉は、ほかにも、「親密な関係のなかにいる」とか「熟知する」とか「経験する」という意味があります。つまり、主イエスが、「あなたの苦難や貧しさを知っている」と言われる時、その時主イエスは、離れたところから私たちの様子を見ていて、そういう意味で知っているということではなく、主イエスは、人間としてこの世に生まれ、馬小屋での出生から十字架の死に至るまで、苦難の生涯を実際に生きた方ですから、私たち人間がどういうことで苦しみ、どういう難しさを感じ、どんな風に傷つき、悩んでいるのかということを、この主イエスは実体験を通して、つぶさに知って、経験しておられるのです。
ということはつまり、アルファでありオメガであって、全てのことに関与されている神様が、ただそれだけでなく、私たちと同じ人間としても生き、かつ死んでもくださって、この私しか分らないと思われるような、私の深い苦しみ悩みも、教会の経験する貧しさや行き詰まりについても、そのすべてを深く「知っている」と断言してくださるのです。
さらに9節の後半では、スミルナの教会のキリスト者たちが、同じ民族であるユダヤ人たちからも非難され、迫害されていることについても、主イエスは知っていると言ってくださっています。
この時代のキリスト信徒たちは、ローマ皇帝による激しい迫害によって、多くの殉教者を出していました。そんな彼らが、最も必要とした言葉とは何か?それは、主イエス・キリストからの、「わたしはあなたの苦難を知っている。あなたが非難されていることを知っている。」という、この言葉に他なりません。彼らが非難され、苦難を受けているのは、神が彼らを忘れたからではなく、捨てたからでも、彼らのことを見ていないからでもない。主イエスはスミルナの教会のことをちゃんと知ってくださっていて、迫害の中にある彼らを、その歩みを励ましてくださっている。決して自分たちは見放されていない。このことこそが、この時の彼らにとっては最も大切なことでした。
主イエスは、さらに彼らを励ましてくださっています。さらに10節をお読みいたします。「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」
悪魔があなたがたに試みようとしている。この先、あなたがたの内の何人かは牢に投げ込まれるだろう。だが、あなたがたの苦しみは、十日の間だと言われています。これは一週間と少しの、短い間という意味です。あるいは、7と並んで完全数である12に及ばない数ということで、この十日という苦しみの期間は、限定された短期間であると聖書は訴えています。なぜ十日が短いのかというと、その後に出てくる命の冠という言葉が、死後にもなお続く、永遠の救いの命を指すからです。死に至るまで忠実であれ。たとえあなたが死に至るまで苦しめられることがあろうとも、その苦しみは、その後にあなたがあずかる永遠の命に比べれば、ほんの十日に過ぎない。だからあなたは、受けようとしている苦難を恐れてはいけない、と言われています。
続いて11節の御言葉も読みたいと思います。「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」第二の死とは、地上のこの生涯の終わりの第一の死とは別の、やがてキリストによる最後の審判が起こるとき、そこで、決定的に裁かれる滅びの時です。それは永遠の命の逆の、永遠の死とも言うべきものです。主イエスが救い主として来てくださったのは、この永遠の滅びから私たちを救い出して、勝利の、命の冠を授けて、永遠の命に生かすためです。
耳ある者は、つまり、耳の開かれている聞く耳のある者は、これらの言葉をしっかり受け止めなさいと、主イエスは言ってくださいました。
どうでしょうか?私たちの豊かさや、勝利や、命は、当たり前のことですけれども、預金残高が決めるのではありません。あるいは、私たちがこの自分だけを見て、自分の持ち物、あるいは自分の才能、自分の人生の持ち時間、自分の力、自分の財布だけを見て、そこで自分の豊かさを量るろうものなら、泣きたくなります。
けれども主イエスは、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」と、この言葉を、今朝この私たちに語ってくださっています。私たちはよく、豊かさについての当てを外して、本当は自分を豊かにしないものを追い求めたりしてしまいます。そして疲れたり、挫折を繰り返したりしてしまいます。
しかし、こんな私たちを、何よりそのあなたを、豊かにしたいと願っておられる方が、ここにしっかりと存在してくださっているのです。そして私の不足や、貧しさは、その方に、最初の者にして最後の者、一度死んだがまた生きた方によって、つぶさに知られている。さらに、これから私が受ける苦難も苦しみも、アルファでありオメガであるこの方はそれも全て知っていてくださる。そして、そういうわたしが、あなたを救うから、豊かな命の冠をわたしがあなたに授けるから、だから決して恐れるなと励ましてくださっています。そして、この私たちの、あなたの、本当の豊かさを、それを、この主イエス・キリストが、あなたに与えてくださるのです。
神様を信じて生きるということは、この主イエス・キリストを信じて歩むということは、ひと言で言ってどういうことであるかというと、それは、一人で生きるのを止めるということです。私は、もう一人で生きているのでもなく、私を知り、私を愛して、私を豊かにしてくださる主イエス・キリストと一緒に生きるということ、そういう、生きた人生の並走者であられる主イエスと一緒に歩むことが、主イエス・キリストを信じて生きるということです。
私たちのバックには、いつも力強く主イエス・キリストがおられるのです。たとえ苦難が襲おうとも、死が目の前に見えてこようとも、私たちは、主イエス・キリストから無限の豊かさを汲み出して、それ受け取りながら、さらには、それを与えて、与え合いながら、豊かに生きることができる。私たちの豊かさとは、この方と、私たちが結びばれているということから来る。
そしてこの言葉は、スミルナの教会という、キリストの教会に向けて語られています。この言葉が読まれている、今のこの私たちに対しても、聖書は、「「本当はあなたは豊かなのだ」と語ってくれています。私たちの苦難や問題や、必要を十分に知っていてくださる、神様がいらっしゃること。その神様が、決して恐れてはならないと、困難があってもそれは10日だけで、そのあとには勝利と命が来ると、断言してくださっています。だからこの私たちは、この主イエス・キリストに下から支えられているからこそ、本当に豊かなのです。