2020年7月12日 ルカによる福音書12章54節~13章5節 「今がその時」
今朝の御言葉は、聖書の中でもあまり有名ではありませんし、一見何気ない御言葉ですが、全編が主イエス・キリストが直に語られた言葉であり、受け止め方によっては、これは私たちの一生を左右するような、大事な御言葉になる。今朝の御言葉はそういう言葉です。
ここで特に問題になっていることは、54節の隣の「時を見分ける」という表題にもありますが、時代を見分けること、今の時代に起こっている色々な事柄について、具体的にそれをどう受け取るのか、ということです。
そして、13章の1節から5節に、主イエスがおられた当時の社会で起こったこと、今で言えばテレビのニュースや新聞の記事に載るような事件が、2つ語られています。
そのひとつめは、13章1節にありますように、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたという事件です。そして二つめは、4節にありますように、エルサレムの町のシロアムの塔が倒れて18人が死んだという事件です。
どちらも、人の命が失われています。最初の方の事件は、使徒信条にもその名前が出てくる、ローマから派遣されてユダヤを治めていた総督ピラトが、何人かのガリラヤ人たちを不条理に虐殺して、その血を、同族のガリラヤ人たちのいけにえに無理矢理混ぜて、そのいけにえを無効なものとした事件だと、文字通り読めばそう取れますけれども、またこれは、他方では、何人かのガリラヤ人たち、つまり彼らは主イエスの出陳地である国の北部の地方から出てきた身分の低い者たちだったのだろうと考えることができますが、そういう弱いガリラヤ人を、強大な権力を持っていたピラトが、もっとも聖なる場所であるべき、エルサレム神殿で斬殺した、そういう事件ではないかとも言われています。とにかく、時の最高の政治的、軍事的権力者による虐殺事件があった。ポンテオ・ピラトとは、実際そういう暴君でした。そしてもう一つの出来事として、ちょうどエルサレムの南と東の城壁が交わる角っこの、シロアムの池と言われる貯水池近くにあった石の城壁が、何の拍子かそれが崩れて、予期せぬかたちでそこにいた18人が下敷きとなり、犠牲となった。
その二つの事件を語りながら、主イエスはこう問い掛けられるのです。13章2節からです。「13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
先週一週間の間に、九州地方には記録的な大雨が降って、車が流されたり、家が土砂で埋まってしまったり、そういうことがたくさんの人の日常を襲いました。もちろん九州の人の行いが悪く、彼らが私たちよりも罪深かったからではありません。球磨(くま)川が、教会からすぐそばの妙法寺川だったとしてもおかしくはなかったと思います。
自然災害だけの話ではありません。シロアムの塔が突然倒れてくるようにして、身に降りかかる災難、突然の病名の告知、新型コロナウィルス感染、コロナにかかっていなくても、自粛によって生活が変わってしまう、突然仕事がストップしてしまう。東京に住んでいるというだけで、突然人々から距離を置かれてしまう。自粛という言葉に振り回され、生活を崩されて、これでは人災ではないかと、怒りが湧いてくる。
あるいは、自分では意図していなかったような、人間関係の突然の悪化、人間関係のストレスによって痛みを負うこと、突然傷を受けて、眠れないような思いで毎日を過ごすこと。そういうことも、昨日までは何ともないと思っていたのに、そういう事態が突然起こり来ることがあります。
そういう事柄を、どう理解して、どう受け取ればよいのでしょうか?しかし主イエスは、なぜそういうことが起こったのかという原因を突き止めて、もうそういうことが起こらないようにと対処法を練るということはされません。災難を被ったら、災難を被ったその人が悪かったのか?その人が罪深いからそうなったのか?決してそうではない。と言われます。
そして主イエスが二度も繰り返して、語られたことは、私たちに、悔い改めを求めるということです。悔い改めるとは、どういうことでしょうか?それは実は、この悔い改めるという言葉が示すように、単純に読んで字のごとくという言葉ではありません。ギリシャ語の悔い改めるという言葉には、第一の意味と、第二の意味とがあって、悔いて、改めるという、思い直し、反省するという言葉の意味は、二つあるうちの第二番目の用法です。そして、メタノイアというその言葉の第一の用法とは、「心を変えること。そして、人生の目的を変えること」です。ある辞書には、この言葉の、こういう定義が書いてあります。「悔い改めるとは、それは、罪と正しさに関する、その人の態度と思想を完全に変えることによって、人生全体を変えることである。」
これは、不幸や災難に遭った人の問題ではなく、自分の問題だと、あなた自身の人生を変える問題として、受け取るものだと主イエスは言われる。社会で虐殺が起きた、ある場所で災害が起きた、社会や自分の人生に、不測の事態が起きた。それを、単にたまたま起こったことだとは受け取らない。ただの不幸なニュースだと、それで流してしまわない。それを自分に関係させ、それによって自分の人生が変わることが求められている、と取る。そこには、そのニュースを受け取ったあなたへのメッセージがあり、それによって、あなたは、あなたの心と生き方を、全く新しい方向に変えるべきなんだ。あなたが悔い改めて、あなたが変わるべきなんだ。
そこで変わらない人は、そのままただ滅びていく、そのままの状態で、ただ人生を終えていくだけだと。主イエスは12章の56節では、「偽善者よ」という、こういう非常に厳しい言葉を使ってまでして、本当に社会を見れば、新聞を少しでも読めば、そこにはあなたを悔い改めさせ、あなたを変えるための神様からのメッセージが溢れているのに、それに知らんふりをして、それらは自分とは関係のないことだとうそぶいて、神を見上げずに、雲を見上げては、明日の天気ばかりを熱心にそこから読み取ろうとする。それは偽りの者の、偽善者のすることだ、と主イエスは言われるのです。
本当に私たちは、自分ではなく、他人についてあれこれ考えることに大変大きな時間と、ほとんどの思考力を使ってしまっています。けれども私たちは、実は、そうやって他人についていくら自分が考えたところで、他人はちっとも変わらないということを知っています。そして、主イエスも言われていますように、唯一自分が変えることができるのは自分自身でしかなく、変えなければならないのは何よりもこの自分の心である、という事実を、私たちはそれを知っていながら、しかしそこについては無視して、むしろ自分を変えることを避けようとする、自ら、悔い改めを拒むのです。
そんな私たちの心を知っておられる主イエスは、12章57節で言われました。12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」
この自分で判断するという言葉は、自分で自発的に、自らすすんで、何が正しいかを見分けよ、という言葉です。そして、自分自ら、正しい方向に、方向転換をして行く必要があるのです。これが先程の、悔い改めということと通じてきます。
それをしなかったらどうなるか、58節以下で語られていますが、あなたはそのままだったら、積み重ねている過失によって、訴えられて、裁判官の下に連行されて、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守は牢屋に投げ込む。そして、あなたが神と人とに対して積み重ねている罪の賠償金を、最後の1円、1銭に至るまで搾り取られて、あなたはすべてを失うだろう。そういう言葉です。
生きていれば、必ずいるわけです。あなたを訴えようとする相手が。あなたが迷惑をかけ、その人を傷つけ、その人から賠償を請求されなければならないような、できれば顔を合わせたくないような相手が、一人二人ではなく、実際に、生きていればそれだけいるわけです。悔い改めなければならない。何かにつけて、私を囲んでいるすべてのことについて、今自分の生き方が、鋭く問われている。問われているのは自分なのです。関係ないのではなくて、これは自分の問題だと、しかも自分が、今この時に、自分が自ら進んで方向転換をしなければ、今それをしなければ、あとになってはもう取り返しのつかない状態になると。
主イエスは58節でも言われています。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行く時には、その和解に至っていない人間関係を、それをそのままに、あの人のせいだ、相手のせいだと考えて、自分から何もしないのはおかしいと。その時には、あなたが最終的には裁判官のところに連れて行かれてしまう前に、いち早く、あなたが自ら今のその生き方を変えて、途中でその人と仲直りをするように努めなさい。その人と、あの人と、仲たがいしたまま、そのまま進んで行ってしまってはならない。今、あなたの方から、自ら進んで変わるべきだ。和解につとめるべきだ。
御言葉に基づいて、私は今、大変なことを皆さんに語っています。本当に説教者である私自身も含めて、これが、心に刺さらない人は誰もいません。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」という言葉で主イエスが求められたことは、こういうとても具体的な、自分がまだ和解していないあの人この人と、今この時にやり直す、という生き方に、あなた自身が悔い改めて、方向転換をし、変わるということなのです。
主イエスが私たちを導きたいと願われているのは、いつ何時も平安で、この生き方を私が変える必要はないのだ、私はどこも間違ってはいないのだという、揺るぎない、自信に満ちた、動じない、不動の人生ではありません。そういう生き方は、主イエスから見ればむしろ傲慢な人生なのであり、そうやって自分は正しい、自分は大丈夫だ、自分はビクともしないのだと悠々と構えて、雲や風向きばかりを気にしているのは、偽善者です。
しかしながら、ここで主イエスがそれを大事にしてくだり、大切な感覚だとして扱おうとしてくださっているのは、弱さや、揺らぎや、はかなさや、いつ南海トラフ巨大地震が起こるやもしれない。いつコロナに感染してしまうかもしれない。私は今日も人を傷つけたかもしれない。私を裁判官に訴えたいと願う人が、もしかしたらいるかもしれない。あの人もそうかもしれないと案ずる、その正しい意味での恐れの心なのだと思います。そういう恐れや、揺らぎや、もし自宅近くの川がいきなり氾濫したら、この自分の人生もいつどうなるか分からないと、肝を冷やすように、真剣に考えることは、決して悪いことではない。なぜなら、それが、悔い改めのチャンスになるから、あなたが生き方を変えるチャンスになるからです。自分の罪に深く気づき、天気を読むように、聖書を読んで、神様の御心を見分けて、自分の国ではなく、神の国を求めて生きる。自分に死んで、自分を十字架に架け、自ら自分の命を失い、イエス・キリストのために生きる。そうやって生きる者こそが、十字架に架かった主イエスからの永遠の命の救いを得る。そっちの方向への方向転換が、あなたの人生の中で本当に起こるなら、それこそが、神様の求めておられる、最も大切なことなのです。
なぜ主イエスは、偽善者よ、と言われたり、和解が済んでいない人との関係を修復しなさいと言われたり、シロアムの塔が倒れて18人が死んだことをわざわざ言って、私たちを急き立て、不安がらせるようにするのというと、これがなぜ福音なのかというと、ひどいことがあなたの周りに、またはあなた自身に起こって、あなたが怯えたり苦しんだりすることがあっても、その怯えや苦しみのあるあなたの心の内側の、その場所こそが、同時に、あなたが神に出会う場所。あなたが悔い改めて、神を見上げる場所。暗闇を光に変える神の力が輝く場所になるからです。
天気を読むように、聖書を読む。人との関係を修復し、平和と和解を打ち立てる。こういうことは、神の国を求めようと思わない人にとっては、どちらも、する必要のないことなのかもしれませんし、この二つのことだけでも本気でしようと思うなら、それには本当に一生かかります。私たちが、なぜ、日々祈る必要があるのか、なぜ日々御言葉に触れ合う必要があるのか?それは、神の国を求めていくためには、私たちが益々キリストに似た生き方へと方向転換していくことは、本当に骨の折れることですし、そのためには、本当にこの日曜日だけ神様と一緒に居るのでは、全く足りないからです。私たちは日曜日だけで心がすべて満たされ、生き方が変えられ、力が満ちるようには、そんなに強く逞しくは、私たちはできていません。しかも、そういう私たちに、毎日毎週どんどんと、色々なニュースが唐突に襲ってきます。私たちは追い込まれますし、苦しみますし、不安に駆られます。また、絶えず罪も犯しますので、人からも訴えられるようなことが、累積的に増えていきます。しかし追い込まれるからこそ、神様に手を伸ばす。神様に向き直るのです。それは、闇から光へと方向転換するチャンスであり、私が、死から命へと向きを変えるチャンスです。
今年95歳になられた、今、もう歩くことができなくなって、病院に入院しておられる坂口光子さんと、昨日病室で、明日は礼拝でこれを読みますと言って、今朝の御言葉を一緒に読みました。ずっと食事を摂取することができないでいる不安、自分の明日がどうなるかとも知れない不安、いつ苦しいことがやってくるやもしれない不安があるのですけれども、でも不安が襲ってくるたびに、それを神様はそれを私たちが悔い改めるための良き機会として用いてくださり、むしろその不安をバネにして、神様は、私がこの心を御自分へ向けることへと導いてくださる。暗闇が見えた時には光に、死が見えた時には永遠の命に、私たちは向き直りましょう。落ち込もうとする時にこそ、かえって神様に向かって、高く飛び上がりましょう、と言いました。
私たちができること、私たちが今すべきこと、それは悔い改めて、顔を光に向けることです。それを直視できないような、自分が死んでしまうような苦しく痛いことが目の前に起こったとしても、私たちがそれによって悔い改める時、命の神へとそこで方向転換するならば、その時、その苦難は私たちを死に追いやるものとはならず、私たちは必ず命へと、正しい道へと導かれます。