2020年7月26日 ルカによる福音書13章6~9節 「待っておられる神」
今朝のこの御言葉をこの礼拝を通して味わう私たちに、ここで何が起こるのでしょうか?この御言葉を通して、今朝私たちは、私たちが持っている神様に対する考え方、捉え方を、根底から覆されなければならないと思います。
今朝の短い御言葉について、ここに書かれていることは、内容自体は分かる言葉だと思いますが、しかしどうしてか、ひとつの掴みづらさを感じる御言葉でもあると思います。
なぜなら、この御言葉は、パッと読んだだけでは、この私たち読者の身の置き所が分からないからです。主イエス・キリストが語られたたとえ話ですが、ぶどう園の園丁と、その主人が何やら話をしている。これは誰と誰の、どんな話なのか?そして、ぶどう園がこのたとえ話の舞台設定となっているのですが、そこに植えられたイチジクの木に実がならない、ということが問題とされています。これは何を表すのか?直接的に、私たちが自分のこの身を、このたとえ話のどこに置き換えたらいいのかがパッとは分らないので、自分のことが言われているのではないように、自分とは関係の遠い話のように最初は見えてしまうかもしれないと思います。ついでに言えば、このたとえ話には、この後に続く結論が省略されてしまっている、これはそういう話だと思います。
説教題にも掲げさせていただきましたが、今朝のこのたとえ話で語られていることは、「待っておられる神」です。神が待っておられるのです。私たちが待っているのではなくて。どうでしょうか?本当にそのように考えたことがあるでしょうか、私たちはそのように考えられるでしょうか?
今朝の6節7節です。「13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
このたとえ話の中での、私たちの身の置き所は、このいちじくの木です。なぜぶどう園なのに、いちじくの木なのか?ぶどうのつたを絡ませるために、当時はいちじくの木をぶどう園に植えたのだという説明もあるのですが、7節の終わりに、なぜ土地をふさがせておくのか、という言葉があるように、やはりぶどう園はぶどうの木を植えるための場所であって、本来はいちじくの木に居場所はないはずだと思います。しかし何かの拍子に、いちじくの木が植えられた。主人は手にしたいちじくの木を、これはぶどう園に入らないからと言って捨ててしまわずに、いちじくの木でも植えておけば、実がなるかもしれないと思って、ぶどう園の中に、いちじくの木を置いてくれた。
しかし、実を探しても、実りがない。このいちじくの木を御自分のぶどう園に引き取って植えてくれて、実を探しにくるこの主人は、もちろん神様のことを指しています。実りがあるはずのところを、三年間も待ち続けて、忍耐している神様の姿。これが、このたとえ話の出発点です。
私たちは、そこを出発点にできているでしょうか?私たちがいつも考えていることは、むしろその逆ではないかと思います。私たちが、神を待っていると、私たちは考えがちではないでしょうか?
苦しい時の神頼み。苦しい時に、神を見上げる。まるで、ヒーローを待ち焦がれるようにして、私たちは神様を待ち焦がれていると、そういう求め方で、渇いた口と、渇いた心で、喘ぎ求めるようにして、神様の到来を待つ。自分が求めている解決、自分が求めてきた勝利、求めてやまない勝利を、この手に与えてくださる、それをしてくださる神を待つ。
ヒーローという存在は、とてもありがたいようでいて、ちょっと、あるいはなかなか、困った存在でもあると思います。なぜならヒーローは、いつも自由で、なんだか移り気で、必要な時に、なかなかやってこないからです。私たちは、ヒーローには待ちぼうけを食らうのが常なのです。どんなアニメや、ヒーローものの映画を見てもそうですけれども、まだかまだかと、ギリギリまで追い詰められて、耐えている間に、ヒーローは、最後になって、大分遅れてやってきて、しかも上から目線で、待たせたな!と格好をつける。そしてヒーローは、瞬く間に問題を解決し、敵を打ち負かし、勝ち名乗りをあげて、どうだ見たかと、誇らしげに、悠々と、そしてまた私たちの知らない所へ、飛んで行ってしまう。もしくは、自分たちとは別の、ほかの助けを必要とする人のところへ行ってしまう。ヒーローはとても忙しいので、私たちとずっと一緒にはいてくれないのが常です。
神様も、私たちにとって、このヒーローのような存在なのでしょうか?まだ来ない。なぜまだ来ないのか?神様が来るのが遅いから、神様が早く来てくれないから、私たちの問題が解決しないのだと。神様がこの自分には恵みを与えてくださらない、だから、自分の生活は、この人生は、今のようなかたちになってしまっているのだと。私たちはやきもきし、私たちはイラ立ち、「神様どうなってるんですか?何とかしてくださいよ、この状況を」と祈ることもしばしばです。
しかし神様は、ギリギリになってからやっと、私たちを助けにやって来てくれるような、私たちに待ちぼうけを食らわせるような、そんなヒーローのような方なのでしょうか?
もちろん、この聖書の終わりにある、新約聖書の一番最後の言葉は、「アーメン、主イエスよ、来てください。」という言葉であり、それはイエス・キリストの再臨を望み見る言葉で、神様を待つという側面も聖書の中には確かにあるのですけれども、しかし聖書が、今朝の御言葉と共に常々語るのは、神様の側の忍耐です。神は、耐え忍ぶ神です。神は何を耐え忍んでおられるのか?それは、この私たちが、神様にとって何の役にも立たないことを、耐え忍んでおられるのです。待っても待っても、私たちが何の実りをもたらさないことを。
神様は3年間も既に待っておられるという言葉がありますけれども、これは私たちクリスチャンの信仰を問う言葉です。信仰に入って、確かに何年か経っている。私の場合は18で自覚的に信仰を持って、もう25年経っています。25年間、本当に神様の役に立てたことがあるか?明らかに総合成績はマイナスです。迷惑は何度もかけてきました。しかしそんな中で、私自身、献身者でありながら、自分のこの信仰が、そしてこの教会という神様のぶどう園の中で過ごさせていただいている自分の信仰生活が、神様にとってではなく、この自分自身にとってどれほどの役に立っているか、自分自身がどれだけ恵みをいただいて、自分が豊かになって、喜べたか、楽しめたか、ということばかりに目が行って、そこにばかり、どれだけの気を取られてきたかということを、今更ながらに思い返しています。
『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
これは、私への言葉以外の何ものでもない。この言葉の前に、私は、うつむいて、ただ恥じ入るしかありません。25年もやっていて、まだそんなに傲慢で、つまらない自負心も捨てられず、まだこんなに他人と自分を見比べては自分の不遇をかこつ、神様まだですかとせがむ。クリスチャンなのに、牧師なのに、それでは他と、あまり変わったところがないではないか。その通りです。もう切り倒せと園丁に言う、この主人の判断は正しい。間違っていません。
普通なら、話はここで終わりそうですが、しかしありがたいことに、そうはなりません。園丁は、主人の言葉を聞いて、はい、それではと言っていちじくを切り倒しません。そうせずに、園丁はいちじくをかばいます。8節9節です。「13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
御主人様、今年もこのままにしておいてください。25年目ですけれども、今年も待ちましょう!もっと丁寧に、手を入れてみます。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうしてさらに待てば、来年には、26年目には実がなるかもしれません。
この園丁は誰か?主イエス・キリストです。主イエスは、このたとえを語られながら、御自分をこのたとえ話の中に登場させた。そうすることによって主イエスは、御自分がこの世に生まれたのは、御自分が今、なさろうとしていることは、まさにこの園丁がやっていることなのだと、このたとえ話の聞き手のすべてに、はっきりと伝えてくださっています。
主イエス・キリストは、実りがなく、当然の報いとして切り倒されてしまうことから、私たちをかばうために来られた。こういう切り倒されて当然の私たちに肥料をくべて、その命をかばい、守り、切り倒されて殺されないで、生きることができるようにするために、来られた。
今朝の御言葉と、そのひとつ前の段落の御言葉とは、一つに繋がっています。今朝の直前の13章5節では、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と主イエスは言われて、悔い改めなければならない、ということが強調されました。
悔い改めるとは、方向を変えること、神様に向かって振り返ることだと、2週間前に申しました。主イエス・キリストが今朝も私たちに求めておられることは、悔い改めることです。人生の方向を変えることです。神様に180℃回って、ぐるっと振り向くことです。
主イエス・キリストは、クリスマスに人間として生まれてくださった方ですから、私たち人間のことを知っておられます。私たちが、実りという実りを実らせることができるに値しない、罪人であること、神様のために、神様の役に立てるようにと、四六時中願い考え行動するということなど、とてもできない私たちであること、私たちが、信仰を与えられながらも、クリスチャンにされながらも、何年経っても神様の方向から顔を逸らして、自分のことばかりを中心に据えて考えてしまうような者たちであることを、主イエスはよく知ってくださっています。だから主イエスは、園丁には「もう一年、来年までは待って」と言わせていながら、主イエスは絶対にあと一年で切り倒そう、そこで区切りをつけようとは思っておられない。この園丁は、切り倒されることを自分の身に引き受ける。そういう決意を持って、いちじくの木を、来年再来年とか、そういう条件や制約をつけずに、自分の命をすべて丸ごと与えて惜しくないという、無償の、無限の愛で愛してくださる園丁です。
ルカによる福音書をこの先読んでいくと、主イエスは実際に、この園丁が主人に対して語ったいちじくの木をかばう言葉を、十字架に架けられた状態の中で語ってくださいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ぶどう園の主人に当たる、父なる神への、私たち、実を実らせないすべての罪人をかばう言葉です。「見逃してやってください。ちゃんと分かって主イエスを十字架に架けているのですが、彼らは自分が何をしているのか知らないので、熱に犯されたようになって、訳が分からないようになってしまっているので、どうか、赦してやってください。彼らを切り倒さないでください。」
そう言って、十字架で切り倒されて、その身に刃を受けられて、血を流し、釘を打たれて殺されたのは、主イエス・キリストでした。主イエスは、このたとえ話の続きであり、ここではそこまで語られていなかったこのたとえの結論を、十字架の上で、実際に体を張って、私たちに見せてくださったのです。
その主イエスが、この私たちに、今朝求めておられることは、悔い改めです。悔い改めて欲しい。振り向いて欲しい。こんなにもあなたを愛しているのだ。こんなにもあなたを大事に思っているのだ。だからこそ、こんなにもあなたを、私は待っているのだ。だから、方向転換をして、私に振り向いて欲しい。それだけでいい。何かをして、実りを実らせよということではもはやない。悔い改めて、生きる方向を変えて、あなたはもう、神なしで生きるのをやめて、こんなにも神があなたを愛している、あなたという一本の木を命を懸けて、十字架に架かって死んでまでして守りたいと願っている主イエス・キリストがおられるので、その方を見ないで、そういう園丁の存在を知らないであなたがこれからも生きていくのには、耐えられない。
真っ暗な地平線から日が昇る時に、地平線の上に太陽が見えたその瞬間に、一瞬で暗かった世界が照らされて、一瞬で真っ暗だったところが金色に照らされて輝くように、この神様の愛は、太陽よりも明るく強いので、一瞬で、真っ暗な私たちのこの心の深みまで、真夏の真昼ように照らしてくださることができます。私たちが振り向いて、神様に出会う時、私たちのすべてが、一瞬にして新しく、変わります。そんな悔い改めを、そんな出会いを、主イエス・キリストは待っておられる。
まるで、今か今かと、胸を高鳴らせて、ヒーローを待つように、あなたが振り向くのを待ってくださっているのが神様です。この愛に気づいて欲しい。悔い改めて、振り向いて欲しい。ヒーローを待ち焦がれるような思いで、私を背後から見つめていてくださる主イエス・キリストがおられる。私たちが待っているのではない。むしろ、この私たち一人一人が、待たれている、神様にとっての、ヒーローなのです。
この主イエスと目が合ったその瞬間に、その一瞬に、あなたを愛する神様がまず喜んでくださり、神様が満たされてくださいます。「よし、待った甲斐があった、私が欲しかった実りは、今日、私に振り向いてくれた、あなたの存在そのものなのだ」と。そしてその神様の喜びと愛が、同時に私の深いところにも届いて、すべてを満たす。神の愛は、あなたと神様を結び付ける。そんな命がときめく出会い。その瞬間を、あなたが生まれる前から今日まで、本当に、あなた待ってくださっているのが、神です!振り向いてください!
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