2020年8月9日 ルカによる福音書13章18~21節 「ここからはじまる」
今朝の御言葉に、神の国という言葉が出てきます。そしてこの神の国は、聖書が伝えている救いの中心にあるものであり、神様が私たちの上にもたらそうとしてくださっている、とても大事な、そこに救いのリアリティーが宿っている事柄です。それはもう、このルカによる福音書にも何度も出てきましたし、特にこの続きの使徒言行録でも、神の国は主イエスの弟子たちが伝道する際に宣べ伝える内容です。
しかし、神の国という、国というものを考えようとする時、今どうでしょうか?ここにいる私たちのほとんどは、日本国に帰属する日本という国の国作りを推し進めていくべき日本国民ですが、日本の国民である自分を誇らしいとはなかなか思えないのが現状であり、国というものを考える時にも、それを考え始めた途端に、ため息や、憤りや、諦めがそこに生まれてきてしまいます。今の日本の為政者の狙いも、まさにそこにある。国民がそうやって国に失望するようにわざと仕向けているのではないかと思わせるところがあります。選挙に行ったって、誰に投票したって、どんなに訴えたって、どうやったって、どうせこの国は変わらない。国民にそう思わせておいて、どうせ何もやってくれないのなら、いっそ今の指導者のままでもいいのかも、と国民を諦めさせることは、支配し、コントロールする側にとっては、かえって都合の良いことです。だから、どんなにあべこべなことをしていても、どんなに訴えられても、頑として動じない。そうやって、もう諦めさせて、国家に対して無駄な努力や働きかけはもうしないでおこうと国民に思わせ、国を諦めさせ、国民が持っている国作りの情熱や、いろいろな権利も、自ずから放棄させてしまおう、そういう政治戦略の中に、今私たちは居るのかもしれません。
けれども神様は、神の国作りを諦められておられませんし、その国作りを私たちに諦めさせようとも決して考えてはおられません。国の悪いところばかりが露になっている今の状態ですが、しかし、国というもの自体、もう無くしてしまったら良いのかと言うと、決してそうではありません。
国があるということは大切なことです。それは領土がある、土地がある。所属できる場所がある、そこには戸籍や住民票があり、居場所があり、秩序があり、組織建てられて組み合わせられた社会がある。そしてリーダー、国を治める指導者がいる。そこには独自の言葉があり、文化がある、民族がある、帰属意識があり仲間が生まれる。そういう秩序や文化に支えられてこそ、人は生き、教育を受け、学び、成長することができる。
今ここに神の国がもたらされ、私たち一人一人が、神様に治められてそこに生きる神の国の国民になれるならば、それはとても素晴らしいことです。神様という王が支配してくださる国、神様の言葉が秩序となり、弱いものをこそ大切にしてくださる神様の愛の御心が、そこでの公然のルールとなる国。死を憎まれ、命を尊ばれる神の御子、主イエス・キリストによって、そこでは死が命に取って代わられ、具体的には旧約聖書の創世記にあるエデンの園で実現していた、尽きない命と、麗しい神様と人間との関係と、同時に、神様によって創造された世界との完全な調和と柔和、そして尽きない平和が、人間をやさしく包む。
そういう国がある。「味わい見よ、主の恵み深さを」と、神様ご自身も旧約聖書の詩編で語ってくださっているように、その国は、私たちにも味わい、見ることができる。このことに関して、神様には寸分の諦めも、それを私たちに諦めさせようとする意図も持っておられません。それがとんでもなく大きなプロジェクトであるということは、すでに間違いのないことなのですが、神様はそのような神の国を本当に建国なさろうとされて、またその国を、それを私たちの間に実際にもたらそうと意図してくださって、それをもってこの世界と私たちをスケール大きく救い上げて、立て直そうとしておられるのです。
しかし、私たちは、罪に落ちて、エデンの園から追放されて、その国の味わいを忘れてしまいました。そんな私たちに対して、主イエスは、この世には比べられるものがない神の国とは、実はこういうもので、こういう風にして作り上げていくのだと、譬えを通じて、比喩を用いて、教えてくださっています。
今朝の御言葉に、その神の国についての二つの譬えが語られています。一つ一つの譬えは、読んでしまえば、たったの一言、5秒で終わります。譬えだけで何の説明もありませんので、主イエスにしては、若干ぶっきらぼうな話し方だなと思います。けれども主イエスは、今朝の御言葉で、敢えてそのようにされたのだと思います。これは本当に、5秒だけ画面に映るテレビCMのような、フラッシュ映像のような、そんな御言葉です。その狙いは何か?直感的に、私たちの感性を刺激するインパクトの強さです。ですから今朝私たちは、オークション会場で、二枚の絵が、被せてあった覆いをバッと取られて、目の前に突然現れるのを目にする瞬間のように、絵画的に、インパクトのあるイメージとして、この言葉を受け取りたいと思います。
では一枚目の絵は何か?改めて、18節と19節をお読みします。「13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
からし種とは、直径1ミリにも満たない、丸く黒い種ですけれども、成長すると4メートルにもなります。からし種というと、聖書はもちろん、欧米世界では、最も小さな最小単位を表す代名詞とされています。そういう日常生活の中にありふれたものを通して、主イエスは私たちに、ありふれたものを、ただの、つまらないありふれたものだと見てしまわずに、改めてそこから、私たちのありふれた理解を打ち壊して、新しい世界を神様によって開かれた目をもって見開いて、物事を一から、新しく見直すように、ただの空、ただの種ということを超えて、神の国の気配と匂いを、その身近な場所に嗅ぎつけることができるようにと、私たちを招いてくださっています。
目に見えないほどの最小の種が、大木になる。これに、今朝改めて驚く必要があります。からし種の枝に鳥が巣を作るという、見るに値しない、全く何の感動も呼び起こさない、かけらみたいな小さな種が、全くの別物になるというこの5秒CMは、物理やあらゆる予測を凌駕した、驚きです。小さく始まったものが、最後にはたくましく大きなものとなる。神の国は、それに近い。原因と結果、始めと終わり、初動と結論が明示されています。逆に言えば、神の国とは、大きな結果が約束されている国であるが、始めはごく小さい。だとしたらそこでは、小ささというものは、嘆きや絶望を招くものではなく、むしろ期待と成長と、大きな展望の芽生えです。
次の絵が、20節21節です。「13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」」
3サトンとは40リットルほどの量です。これはパン150人分にもなる膨大なパン粉です。しかし、その全体を膨らますのは、ほんのわずかのパン種なのです。感化力、影響力、伝播する力、その大きさが語られています。小さなパン種が150人分のパン粉に伝染し、その全体を、パン種と同じ姿に、同じ性質をもつものに変化させてしまう。神の国はそのパン種にたとえられる。
今現在のこういう国に生きる中で、政治家でも、特殊工作員でもない私たちが、仲間内だけの何とか会とか、町内みんなを巻き込んでの町おこしとか、そういう次元の話ではなく、神の国を建国しようと目されている神様の意思を受け取り、自分たちもその国作りに参加する。それはとても大それた、どこから手を付けたらよいのか全く分からないような大きなミッションですが、主イエスは、それはやる価値のあることだし、やればあなたたちでもできることなのだと言われて、からし種と、パン種を、今朝見せてくださっています。神の国とは、特別な力を持った、特別な秘密を手に入れた人のみが知る、その人たちのみがその豊かさを味わい見ることのできる、そういう伝説的な秘境に隠された国ではなく、私たちが誰なのか、そしてどこにいるのか、というに関わりなく、どこにいても、どんな人でも、天からの神様の声に耳を傾ける人には、見つけることのできる、触れることのできる、味わうことのできる、そのような、既存の国を超えた素晴らしい国です。
ある説教者は、この最初の譬えは男性に、二番目の譬えは女性に当てはまると語っていました。なるほどそうかもしれません。男性は、外に出て、種をまく仕事をする。だからからし種の譬えがよく分かる。一般的に男性は、結果に結びつかないことや、実りが期待できず、その意味での意義が見いだせない仕事には精を出すことができません。でもそのような結果志向の男性たちに、主イエスは、はじめは小さいが、最後には結果が必ず出ると約束してくださいました。
また女性は、台所でパンの練粉にパン種を混ぜる。この譬えが語ることは、神の国の感化力であり、その広がりのプロセスです。一般的に女性は、結果だけが重要だとは思わない。その時の気持ち、結果に至るまでのプロセス、納得し、共感し合えて、共有し合えることを、男性よりも大切にします。神の国の国作りでは、その部分も、とても大切にされる。この国は、人の気持ちを無視し、それに寄り添わない、単なる大本営発表のようなかたちで、無理やり押し付けられ、進められていく国ではない。
そうやって主イエスは、すべての男女、つまりすべての場所のすべての時代を生きる人々に、一緒に、新しい国を作ろうと、参加を促しておられます。
すごくワクワクする、創造的な、クリエイティブなことではないでしょうか?私たちクリスチャンは、基本的に、新しいことをするために、新しいことをもたらすために、神様に出会い、救われ、生かされているのだと思います。ノーベル書作家の大江健三郎が結局最終的に訴えていることも、「新しい人になろう」というメッセージです。彼は、新約聖書のエフェソの信徒への手紙に出て来る「新しい人」という言葉に目を開かれたと語り、その新しい人である、イエス・キリストをみんなが目指して、「敵意を滅ぼし、和解を達成する新しい人になってください。新しい人を目指してください。新しい人になるほかないのです。十字架に架かって生き返った人は、この二千年でただひとりです。そしてこれからの新しい世界のための新しい人は、できる限り大勢でなくてはならないのです。」
と語りました。先週は、旧約聖書時代からの古い伝統である戒律に心も体も縛られて、人の救いや幸せや、イエス・キリストという救い主の存在さえも喜べなくなってしまった人々の姿を見ましたが、エフェソの信徒への手紙が語る、新しい人としての主イエスは、対立するものを一つにし、御自分の十字架によって敵意という隔ての壁を壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄してくださって、お互いを愛し、親切にし、赦し合い、お互いが神によって作り上げられた一つの体のように結びつく、新しい生き方を生きるようにと、すべての人を招き導いてくださっています。
神様は、神の国を、地上に実現する天国を、諦めておられません。新しい一人の人に出会った私たちが、そのパン種によって感化され、同じように新しい人となって、神様から受け取った小さなからし種を撒く、御言葉の種を口伝えに語る、それぞれの小さな日常の中で、仕事をしながら、あるいは台所で、その御言葉に生きる。本当にここから、この渇き切った土地に一粒の、希望のからし種が落ちる。そこから、大それたことが始まる。ここから大木が生まれる。
二千年前、地球の裏側の、真っ暗な馬小屋で、ほとんど誰にも気付かれず、祝われず、相手にされないかたちで、神のひとり子がお生まれになった。しかしその大河の一滴は、消えてなくなることなく、むしろ大きな流れになって、今朝のこの場所まで届いています。
新しい人として、新しい神の国作りにここから参加する。本当に骨の折りがいのある生き方がここにありますし、この道の先には、楽しみしかない。期待しかない。こんなに小さいのだから、あとは大きくなるしかない。からし種が大木に。ひとさじのパン種が、練粉全体に行き渡る。それを私達は、毎週も味わい見ながら歩むことができる。
毎日聖書を読み始めた人がいる。ある日から説教ノートをつけ始めた青年がいる。教会の庭木や畑に心を込めてくださっている方々がいる。この教会を愛して、この場所を愛して、丁寧に掃除をしたり消毒をしたりしてくださっている方々がいる。目を輝かせて、耳に力を込めて、聞き逃すまいと、み言葉に集中している皆がいる。ネット配信の向こう側にも、そういう方々がおられ、新しく加えられている。枚挙にいとまがなく、すべて語り切れませんが、みんなが、神の国のからしだねとパン種をその身に受けて新しい人へと作り変えられている一人一人です。本当にからし種のように小さなことかもしれない。数人がそれに気づくくらいか、あるいはその人自身にしかわからないことなのかもしれない。けれども毎週ここで目にするのは、無数のからし種が撒かれ、育っていることです。私には、今それを見てワクワクし、喜んでくださっている神様の胸の高鳴りさえもが、感じ取れる気さえします。なぜなら、これを見て、この教会を見て、今週ここから、パン種をそれぞれが持ち帰って、その生活の中に混ぜ込もうと歩み出していく皆様を、神様が喜んでくださらないはずがないからです。 今、この世界やこの国は崩れかけているのかもしれません、しかしこの今の時にこそ、新しい神の国を知っている、新しい人が出て来ることを、世界は、この国は必要としています。神の国は、私達の知らない誰かが、何処かで作り上げるものではなく、それは、今ここから始まるのです。