2020年8月23日 ルカによる福音書13章22~30節 「戸がこじ開けられている」
今朝の御言葉でも、主イエスは、24節から30節までの長い言葉を私たちに与えてくださっています。今朝の主イエスの言葉のひっかけは、ふとしたひとつの質問でした。
その質問とは、23節にある質問です。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」この質問は、この日本で、圧倒的少数者として、主イエス・キリストの神に対する信仰を持って生きている私たちにとって、とても切実な質問です。
私はアメリカに留学していたことがありますが、そこにいたアメリカを始め、世界中の国々出身のほとんどすべての人たちから、これは嫌というほど尋ねられた質問です。日本は、総人口に比べて、世界で一番クリスチャンが少ない国のひとつですし、実際にアメリカで色々な国の出身者に出会いましたが、そのどの国よりも日本のクリスチャン人口は少なく、それは世界中の人がそのことを不思議に思うるぐらいの少なさですので、「どうして日本のクリスチャンはそんなに少ないのか?なぜなのか?」といつも尋ねられました。ある時には、ハンバーガー屋さんで偶然にちょっと知り合った青年からも、すぐにその質問を受けて答えに窮したということさえありました。私は韓国に行くことが好きで、行くたびに大きな祝福を受けますので毎年、何度でも行きたいと思っているのですけれども、でも正直に申しまして、行くたびに羨ましく、悔しく感じて、毎回涙ながらに神様に祈るひとつのことが、このことです、「なぜ、日本で、救われる者は救ないのでしょうか。」
聖書が、そして主イエスが、この、私たちにとっては痛みが伴うこの質問を見過ごしにせずに、ちゃんと取り上げて、それに答えてくださっているということ。私たちの主イエスは、私たちの気持ちや私たちのこの状況を分かってくださらない、それとは関係のないところにおられるような主イエスではないということに、私たちはまず、共に感謝したいと思います。
そのうえで主イエスは何をおっしゃったのでしょうか?24節で主イエスは、「狭い戸口から入るように、努めなさい」と言われました。
「狭い戸口から入るように、努めなさい」戸口が狭いということであれば、大勢が一気に入ることはできない。戸口が狭いならば、一人ずつしか入ることができないわけで、この言葉から受け取らなければならない一つの目のことは、やはり、救いを、誰かほかの人の問題という事ではなく、それを自分自身の問題として捉えよ、という今までも繰り返して語られてきたことなのだと思います。
救われる人は多いのか少ないのか、それは国や環境によって違ってくることなのか、そういう統計学的なこと、批評的な観察的なことに目を向けて、自分自身の在り方を棚に上げて、そこと離れたところで、クリスチャンが少ないことのあれやこれやの原因を探ることが重要なのではなくて、主イエスが問われるのは、人のことではなく、あなた自身でありその人生なのだ、ということです。しかも24節で、努めなさい。と訳されている言葉は、戦え!という命令形の強い言葉です。ある聖書の翻訳では、24節は、「狭い戸口から入る戦いをしなさい。」と訳されています。その狭いところから入る戦いとは、どういった戦いを意味するのでしょうか?
それがわかる言葉が、今朝の御言葉の最初の22節に語られています。22節「13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」主イエスはこの時、エルサレムに向かって進んでおられる最中で、そこを目的地に定めて歩まれながら、「狭い戸口から入る戦いをしなさい。」と言われました。
エルサレムが目的地ということはどういうことか?そのエルサレムに至った時には、主イエスは何をなさるのか?主イエスは、ちょうど過ぎ越しの祭りの時期に合わせてエルサレムに到着し、過ぎ越しの祭りにおいて罪の身代わりに血を流して屠られる子羊として、ご自分の命を十字架において差し出されました。それが主イエスの生涯の目的であり、主イエスがこの世に生を受けられた目的でした。神のために、そして何よりも人のために、さらに罪人のために、御自分の命を捨てるという道。この道を進んでいくことは、自然にできることではなく、勇気と力のいる狭き道であり、戦いです。自分の命を相手のために捧げる。その究極の愛の道。それは決して、たくさんの人が我先にと押し寄せて来て、みんなが通ろうとするような、広い道ではない。
けれども、主イエスは既にこのルカによる福音書の9章23節24節で語っておられ、そしてこの主イエスの言葉は、四つある福音書のすべてに記録されている重要な言葉なのですが、主イエスはこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
主イエスについていく人の先には、十字架が立っているのです。先週水曜日のゼカリヤ書の御言葉にもありましたが、人は自然のままに、お互いに思うがままに振る舞うならば、当然のように何よりも自分を大切に、自分優先で生きようとします。しかし、人が自分にこうしてくれたらいいのに、とか、あの人のことをどうこうしなきゃとか、そうやって自分を真ん中に置いて、思うがままに振る舞う、そういう広い道ではなく、主イエス・キリストの十字架への歩みについていく、神と人を愛するという狭い道に自分を向かわせていくこと、それは戦いです。
しかしながら、ここで一つ、今朝この狭い戸口という事と共に皆様と考えたいのは、じゃあ救われる人が少なく、戸口が狭いというのなら、そこでは本当にごく限られた人しか、少数者の、更にごく限られた狭き門をくぐることのできる人のみしか救われないということなのか、神の救いに与るという事は、本当にそういう狭き門で考えるべきことなのか、ということです。
そこで、この後に主イエスが語ってくださった譬え話の内容をよく見てみたいと思うのですけれども、これは、少ない言葉の一つ一つの中に、実に様々要素が凝縮して詰め込まれているような言葉ですので、とても解釈が難しい御言葉なのですけれども、今朝私たちは、この救いに入る人は本当に少ないのかどうか、戸口は本当に狭いのかどうかという、この御言葉の問題を、時間的な軸を中心に据える中で、解釈し、理解したいと思います。
つまり主イエスは24節で、狭い戸口という切り口で話を始められるのですけれども、そのあとの話は、広さ狭さというよりも、先か後かという時間的な順番が軸になっているように思われます。25節にこうあります。「13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」これは、戸が閉じられてからでは遅いという話です。さらに今朝の御言葉の最後の30節にも、後先の順序の問題が語られています。「13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」このことの意味は、先ほどお読みした旧約聖書の創世記のノアの箱舟の時のことを考える時に、見えてくるのだと思います。
ノアの箱舟の時には何が起こったか?あの時、結局箱舟の中に入って命を救われた人間は、全部で8人だけでした。けれども、箱舟の中には、すべての他の動物たちの雄と雌の一つがいが入ることのできるスペースがあった。また箱舟は、陸の上に何年もかけて建造されたと思われますので、その間に、十分その箱舟に乗り込むチャンスが、ノアの家族の8人以外にも与えられていたはずです。しかし天気が良くて、洪水が起こっていない平穏な時には、いくら神様から命じられたことだとはいえ、人々は洪水を信じられず、たった8人のノアの家族を除いては、誰も、わざわざ狭い戸口から入って、箱舟に乗り込もうとはしなかった。
しかしながら最後、今朝のルカの御言葉でも、家の主人が立ち上がって戸を閉めると言われているのと同じように、あのノアの時にも、神様が、皆が乗り込んだ後、ノアの後ろで箱舟の戸を閉ざされました。そしてそのあとには、もう誰もが手遅れで、箱舟に入っていくことができずに、洪水に飲まれてしまいました。救われる者は、結果的に、とても少なかった。
では主イエスは、今もノアの箱舟の時と同じなのだと、今でも少数者しか救われる見込みはないとおっしゃりたいのでしょうか?そうではありません。その反対です。
「主よ、救われる者は救いないのでしょうか」と問われて、主イエスは、「そうだ。少ないのだ」とは仰いませんでした。逆に主イエスは、その質問をした人が考えたこともないぐらいたくさんの人々が、大規模に救われるという答えを、今朝の29節の言葉で語ってくださいました。「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席につく。」救いないなんてとんでもない。東西南北、四方八方からの多くの人々が、神の国で宴会の席につく。それはなぜか?
もうノアの時とは違うからです。神様も、ノアの箱舟のあと、御自分に誓ってこう言われました。「わたしは、このたびしたように、生き物をことごとく打つことは二度とすまい。」そうやって、これを二度とすまいと誓われた神様によって、この救い主主イエス・キリストが、この世に遣わされたのです。主イエスは御自分自身のことを、ヨハネ福音書で、こう言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」
もう二度と、人間を滅ぼすようなことはしない。ごく少ない人だけを入れて、他を締め出すような、ノアの箱舟のようなことは二度としない。そうしないために、箱舟に乗れない、そこに乗って来ない、8人以外の、私たちも含まれるその他大勢の、狭き門から入れない者たちのために、主イエスは、「狭い門から入るように努めなさいと」私たちに語ってくださりながら、実はご自分が、天国の方から、救いのゴールの神様の側から門を開いてくだったのです。そして、御自分が道となり、門になってくださって、神様と私たちとの間に道を開通させて、それも、主イエスは、選ばれたごく一部の人だけがそこに届くことのできるような高いところにある門ではなくて、もう吹きっさらしの、ドアも鍵もない、誰でも入ってこれる馬小屋でお生まれになって、最後は十字架に架かられて、「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、ご自身の十字架を理解できない者たちをも赦し、招く、そういう広い門を、熱い愛によって、向こうからこじ開けられた、嬉しい戸口を、今私たちの前に開いてくださったのです。
実はこの先の、ルカによる福音書17章に、ノアの箱舟について主イエスが語られた言葉が出てきます。こういう言葉です。「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。」危機が目の前に迫っても、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。結局人は今でもそうなのです。めとったり嫁いだり、妻や夫のこと、彼氏彼女のこと、あの人は好きだ嫌いだ、あの人いると楽しい。そしておいしいものを食べたり飲んだり、カフェに行ったり楽しんだり、したい。そういうことが心の大部分を占めている。とてもいいことなのですけれども、それがもとで、神様と、そこにある命の救いを逃してしまったとしたら。
来週は召天者記念礼拝ですけれども、いつ、自分がその召天者の列に加わることになるのか、全く分かりません。私たちに皆の余命は確実に減っていますし、主イエス・キリストという救いの門に向き合って、主イエスの招きをこういうかたちで耳にできる機会も、毎週着実に減っています。
そういう人々の只中で、主イエスは、エルサレムに向かって進んでおられました。誰のためのエルサレム行きか?誰のための十字架なのか?それは私たちを招くための、私たちを箱舟から締め出したりさせないための、本当にあなたと、手と手を取り合って、戸口の内側に招くための、主イエスのエルサレムです。
狭いですし、狭く思える戸口ですが、私たちは知りました。その戸口の前に立つ時に、その門であられる主イエスに私たちは向き合えますので、そこには実は、本当に広い、優しい、懐深い、主イエス・キリストがおられます。そして主イエスは、私が通るための道を用意して、向こうから、「さあおいで、みんなおいで」と、扉を開いて招いてくださるのです。本当に豊かで、広く、大きな神の国の宴会には、私の席もあるし、先に旅立っていかれた方々の席もあるし、皆さんの席もちゃんとあるし、そして、さらに多くの、この町の、またほかの町の、東西南北から集まる多くの人たちの席も用意されていることを信じたいと思います。
狭く見えて、広い戸口。ここから入りなさいと、主イエスは招いておられます。狭い関門を突破する力が私たちにあるから、救われるのではないのです。関門を突破できない私たちに対して、主イエス・キリストからの一方的な愛によって扉が開かれている。私が血が愛さない先から、私たちのことを愛して、エルサレムを見つめてくださっている主イエスがいる。私たち皆は、今そのラブストーリーの只中にいるのです。