2020830日 召天者記念礼拝 創世記23章 「聖書が語る葬り」

 この教会は、家族的な、家族のような交わりの場なのではなくて、私たちは家族です。私たちはイエス・キリストによって、家族以上に深く、永遠に切れない絆で結び付けられている家族ですので、今朝ももしかしたらここに座っているはずだった17名もの方々をこの三年間で天に送り、そのほとんどすべての方々の葬儀を、この礼拝堂で行い、私たちは本当に、17人の自分の家族を失うという痛みを味わいました。

 

 愛する家族を失うということを、精神医学の世界では、対象喪失と呼ぶそうですが、そこで起こる問題について、ある専門家はこう語っています。

「現代社会では、生き別れの場合も死別の場合も、たとえどんなに激しい衝撃を受け、悲嘆の極みに置かれていても、取り乱したり、おろおろしっぱなしで、社会人としての役割を果たすことができなければ、その社会的人格を全うすることはできない。そこで、対象を失った衝撃と不安から、速やかに立ち直り、失った対象を悼む気持ちはしばらく置いて、とにかく社会生活や、いわゆる世間への適応をはからねばならない。対象を失った人物が直面するのは、このきわめて実際的な課題である。そのために対象を失ってしまった悲しみや怒りを、一時的に心の奥に抑え込む。そして、無感覚、無感動になり、全ての感情が麻痺し、機械的に実務を果たしていく。もちろんふと気が緩み、あるいは心を許せる身内や親友だけになると、種々の感情があふれ、亡き人への思慕の情が募る。しかし当面の実務的な仕事やお悔やみにみえる近隣や親族の対応は、対象とのこの関わりを、すぐにまた中断させてしまう。そのために悲哀の心理は、むしろこの緊急事態が終わり、静かな生活に戻ってから、その人の心の本格的な課題になることが多い。」

 その通りだと思います。私たちは、今朝のこの礼拝の機会を、まず第一に、喪失の痛みと悲しみを共に味わい直す機会にしたいと思います。

 

 今朝の聖書に出て来るアブラハムという人物もそうでした。アブラハムは妻のサラを失いました。今朝の23章の始めの1節から2節にこうあります。「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」

サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ、という言葉は、サラのために嘆き悲しみ、そして涙を流してそぞろに泣いた。という言葉です。アブラハムと異母兄弟として子どもの頃から近くにいて、長年連れ添ってきた、そのほとんどは苦難の連続でしたが、これまでずっと人生の苦楽を共にしてきた、そういう、美しく、信仰においても素晴らしいと新約聖書で讃えられている、かけがえのない妻サラが死んだ。

アブラハムはそれを、心から嘆き悲しみ、涙を流して惜しみました。私たちも、先程の17名の名前を見る時に、また私たちは、それ以外にも、ここにお名前の挙がっていない、さらに多くの方々との別れも経験してきましたので、その一人一人のことにも、今思いが広がります。もっと、そのお一人お一人とお話がしたかった。その言葉を、もっと聞きたかった。もっとたくさんのことを教えていただきたかった。もっと一緒に居たかったと本当に思います。私たちにとって、これほどに大きな喪失と悲しみは、他にありません。

 

確かに私たちは、大きな悲しみや痛みが襲ってくるとびっくりして、そこから逃げたり、それを否定したりしてしまいがちです。では、どうして私たちが、悲しみから逃げたり、色々な忙しさにかまけて、この大きな損失と悲しみから目を背けてしまうのか?それは、そこでは、悲しみの大きさによる衝撃と共に、本当にいつも、「なぜ」という大きな問いが必ず生まれてくるから。さらに、その「なぜ」という問いについての答えが簡単には見いだせない袋小路に、私たちそれぞれが陥ってしまうからなのではないかと思うのです。

「なぜ、この私に」「なぜ私の家族に?」「なぜ、あの人が?」「なぜ、この今に?」「そもそもなぜ、そういう結果にならなければならなかったのか?」「なぜ、何がいけなかったのか?」「誰が悪いのか?」「自分は何をしなければならなかったのか?」「自分には何ができたか?」「自分は間違っていたのではないか?」「そして今、自分はこの現状のままでいいのか?」簡単には答えの出せない、無数の問いかけが洪水のように、一人の人の死から生まれてきて、とても処理できない。それを考え詰めていたら普通に生活ができないですし、同時にそれは内臓が痛んでくるような重たい問いですので、本当に苦しくて、それを考えていたらこの身が持たない。だから、ある程度目を背けざるをえない。切り離して、別のことを考えて、やり過ごすほかない。そういう現実があると思います。

 

対象喪失克服についての精神医学からのアプローチは、それは一言で言うと、悲しみに向き合いながらも、そのことについて、断念すること、もうその人は戻ってこないのだからと区切りをつけて諦めることによるのだと、いくつかの書物には書いてありました。けれどもそれは、「なぜ」と問うことをやめること、その答えについても、答えなんかないんだと、結局その問いについて考えるのを諦めるという方法なのだと思います。

しかし聖書は、そういう断念や諦めによって喪失を乗り越えるという方法ではなく、私たち皆が様々に考え悩む「なぜ」という問いは、必ず豊かな答えを持っているのだ、という希望を語り、それを私たちに知らせることによって、乗り越える道を私たちに開きます。

 

アブラハムは、ひとしきり嘆き悲しんだあと、妻サラを葬ります。葬りとは、残された私たちが表す、死者へのひとつの愛情表現であると、普通は考えられると思いますが、キリスト教では、葬りは、死者への弔いである以上に、何よりも、神様のもとに帰っていく死者の、神様に向けての送り出しという意味と、そして残された私たちにとっての、それは良い意味での記念であり、死者の人生について神様に感謝を捧げて、その人の人生をこの心に刻む作業。残された私たちが、死に至るまでの人生を、果たしてどのように、故人に続く者として歩んでいくのかを考える。そういう意味を持っています。

そしてその葬りにおいて大事なのは、死者その人自身の供養うんぬんを私たちがするというよりも、その死者その人のことは神様にお任せして、むしろ死者を通して、その人生全体を通して、神様が私たちに、何を与えてくださったのか、という事に目を向けるという事です。

 

死は、人の生涯の終わりを意味しますが、言い換えれば、それは、人生に句読点が打たれ、ピリオドがつけられて、ひとつの文章が読点をもって、丸をもって終わるようにして、一人の人の人生が始めから終わりまでのひと続きとして完結する時です。そして人の人生は、死によってピリオドがつけられて完結した時に初めて、それがどういう人生だったのかという全体像が見えるようになるのです。それが葬りの時に明らかになります。

 

アブラハムは、今朝のこの創世記23章で、とても注意深い、厳格な交渉を通じて、サラの墓にするための土地を手に入れました。そしてそれは、その土地を手に入れることによって妻を供養しようとか、没してしまった妻をそれによって喜ばせたいとか、そういう動機でなされたことではありませんでした。

この時のアブラハムの頭の中に終始あり続けたのは、この当時からさかのぼること、実に62年前に、若き日のアブラハムとサラに語られた、「あなたは生まれ故郷を離れて、わたしが示す地に行きなさい。あなたはそこで、大いなる国民になり、祝福の源になりなさい。」という神様の約束でした。

その約束に引っ張られるようにして、アブラハムとサラは、この土地に入ってきて、半世紀以上も旅をして、ここでさすらってきたのです。しかし、たたみ一畳さえも土地を持っていなかったアブラハムは、ついに約束の地に土地を持たずに、そうする前に死んでいったサラと、そしてこの後すぐ25章で続いて死ぬことになる自分自身と、さらにその子孫たちの墓とするために、墓地を取得しようとするわけです。

 

そうやって、今墓を買い、そこに妻を葬り、そこに自分も、その子孫も入って行くということは、62年前のあの時の神様の言葉に促されて、やがてその約束が実現していくための布石として、サラの人生が用いられ、アブラハム自身の人生も用いられたのだという、妻の人生の総括であり、その人生全体の意味の表現であり、神様に対する、このような人生を送らせていただいて、このために今まで生かしてくださったことを感謝しますという感謝の表明でした。そして同時に、土地を取得してのその葬りは、あとに続いていく子孫に対しては、この墓地は、オセロゲームの駒が敵陣の中心にひとつ置かれて、そこから回りがひっくり返されて塗り替えられていくような、そんな神様の約束の未来への布石なのだという、強いメッセージを伝えていく、大きな足掛かりだったのです。

サラが死んだということで、アブラハムには、はるか東の自分の出身地に戻ってそこに墓を建てるという選択肢もあったかと思うのですが、アブラハムはこの部分においては徹底して、まさしくそこに骨をうずめる覚悟で、カナンの地に至り、そして実際ここに骨を埋めたのです。この事の中に、残されたアブラハムの、大きな決意表明が表れています。

 

キリスト教では、死のことを、天国に召し入れられるという意味の漢字を用いて、召天と呼びます。カトリック教会ではそれを、天国に帰るという意味で、帰天という言葉で表現します。また聖書のほかの箇所には、「私たちの本国は天にあります。」という言葉もあります。

つまり私たちが生まれて、生きて、死ぬという事は、そのまま、天国からこの地上に送り出されて、そこでそれぞれが生涯の中で何らかの役割を果たして、また天国に帰るということなのです。ですから、そこでの死は、この地上での役割の終わりなのであって、それは一貫の終わりだとか、電源喪失による停止だとか、そういうものではなく、それは神様のところに帰るために、天国の門をくぐるということなのです。

 

神様は私たちそれぞれに、生きるという機会を与えて、生まれさせてくださり、死ぬということを通しても、それによって人生にしっかりとピリオドを打ってくださって、私たちそれぞれが、何のために生きたのか、なぜ生きたのか、どんな人生だったのか、そしてなぜこの時に死を迎える必要があったのか、なぜサラにとっては127年で、アブラハムにとっては175年で、この三年間で教会で召された17名の方々にとっては、なぜその時に召天しなければならなかったのかを、神様はそれぞれの人にとって固有に、綿密に御計画なさっています。

ですから17名の方々のこの名前は、今朝私たちが、断念し、その方々のことについて諦めなければならない17人なのではありません。その名前を読めば、その家族である私たち皆にはあの時ピリオドが打たれたこの方の人生が、私に何をもたらしてくれ、私に何を伝えようとし、神様は、その人を何のために生かし、その方を通して、何を私たちに与えてくださろうとしたのかが、瞬時に、そして自然に分かります。

 

その意味で、死は、いけないものではない。私たちが目を背けて、避けなければならない、最後の最大の敵なのではない。「なぜあの人が」と、「何が悪かったのか」と、そういう苦しい問いだけをそこに残して、終わりなき後悔を、絶えず悔やみ続けることを、愛する家族の死は、私たちに要求しているのではない。この故人のそれぞれの人生が、神様から私たちそれぞれへの贈り物である時、彼らの死もまた、痛みや喪失であるだけでなく、それは私たちへの贈り物になります。

 

新約聖書に、こういう御言葉があります。あの三浦綾子さんの、「塩狩峠」という作品の一番終わりにも置かれている御言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」一粒の麦が、地に落ちて死ぬことによって、そこにある一粒の種が破れて、割れて、その中から新しい命を生み出し、多くの実を結んでいく。

本当にそういう事が、この教会で、家族を天に送った、その方々の周りで、幾度も起こってきましたし、今も起こっています。一人の方が天に召されて、この場所で葬儀がなされて、多くの人々がその葬りに参列して、神様がその方の生涯を通じてそれぞれに皆に与えてくださった、豊かな恵みを受けとる。生きているうちは、直接会ったり、電話をしたりしていましたけれども、天に召された今はどうなったかというと、その人の言葉や姿は、葬りを通して、更に印象深いメッセージとなって、永遠に消えない言葉となって、本当に一粒の麦から多くの実りが生まれるように、私たちそれぞれの心に植え付けられ、残り続けます。この方々は、死にましたが、決して死んではいません。今も私たちにはっきりと語り続けてくださっていますし、この私たちよりももっと多くの、故人たちとのかかわり持つことができた方々の間で、今もなお、たくさんの実りが、そこから生み出され続けています。

死は、心の籠った贈り物です。何より、主イエス・キリストが、そういう死を、十字架で死んでくださいました。イエス・キリストによる十字架での死によって、私たちはそこから、私たちを縛るすべての罪からの赦しと、心臓の鼓動の命を超えた、死のあとに天国に帰ってそこで永遠に生きることの許される、永遠の命を、このまたとない、これ以上この上をいくものがない、素晴らしいものを与えられました。死んで、命と実りをもたらす一粒の麦とは、何よりも私たちの主イエス・キリストのことです。

 

そして、主イエス・キリストだけでなく、この私たちもそれに続いて、先に召された方々と共に、そういう人生と、そういう死を迎えることができます。このことについて、カトリックの司祭のヘンリー・ナウエンが、こういう言葉を語っていますので、ご紹介いたします。

「次のことを、あなたが深く確信している状態を想像してみてください!あなたの愛、友人への親切、貧しい人への惜しみない助けは、小さなからし種であり、それが成長して、たくさんの鳥が巣を作ることのできる強い木になることを。あなたがなそうとしている愛の働きかけのひとつひとつが、決して古びることなく、更に広い範囲に広がっていくさまを想像してみてください。ちょうど、静かな池に小石を投げるように。想像してみてください。もっと想像してみてください。その中で、あなたは落胆したり、怒ったり、憤ったり、復讐心に燃えたりすることができますか?憎んだり、破壊したり、殺したりすることができますか?短いとはいえ、あなたの地上に存在する意味を捨て去ることができますか?もし私たち小さな人間が、選ばれ、祝福され、裂かれたのは、増え拡がるパンとして、他の人に与えられるためであることを本当に知ったなら、あなたと私は、喜びのあまり踊りだすでしょう。あなたと私は、もはや死を恐れることなく、自分のすべてを他の人への贈り物とすることを最大の望みとして、それに向かって生きるでしょう。」

 

 私たちは今朝、召天された方々のことを断念せず、諦めないで、むしろその人生から、その死から生まれた豊かな実りを、こぼさずに受け取りたい。その死がもたらし生み出した実りの豊かさに改めて気づいて、その実りを集め直したい。そして、それだけでなく、やがて死を迎えるこの私たち自身のそれぞれの人生についても、これは小さなものだ、つまらない人生だ、どうせ死んだら終わりだなどとは決して考えずに、天に先に行かれた方々のように、この私という一粒から生まれる実りがある、ということに希望をもって、自分の人生についても、自分の死についても、それが意味と実りを生むという望みを持って、諦めないで、生きていきたいと思います。