2020年9月6日 ルカによる福音書13章31~35節 「焦点」
今朝の礼拝は振起日礼拝です。それは、この夏の終わり、季節の変わり目、そして年の瀬まで4カ月というところに至ったこの日曜日に、今年の後半に向けて、改めて襟を正すという意味で行う礼拝です。
そして今朝の説教題を、「焦点」としました。そしてこれは、どこを見るかという問題、どこにフォーカスを当てて今年の後半に向けて歩んでいくのかという問題です。そして私たちが共々に、どこに集中して、どこにフォーカスを絞って年末に向けて歩めばいいのかと考える時に、今朝はぴったりの御言葉が与えられています。今朝の御言葉を通して、ひしひしと伝わってくるものがあります。それは、主イエスの凄味に満ちたフォーカスの強さ、主イエスの、並々ならぬ熱意です。
主イエスは、今朝の御言葉で、真っすぐに前を向き、率先してご自分自身のことを語ってくださり、明日への決意を語ってくださっています。この国では先日、長く政治的リーダーの座にあった総理大臣が突然辞意を表明して、今は政治が宙に浮いたようになっていますので、その違いが益々際立つのですが、主イエスは、まさに命がけで、使命を成し遂げるためには本当に自分の命を投げ出す覚悟を持って、その歩みを前に進めておられます。
主イエスは何を見て、どこを目指して進んでおられるのでしょうか?今朝の御言葉の中に、繰り返して名指しされている目的地があります。それは33節34節で三回繰り返されるエルサレムという都の名前ですが、エルサレムが出て来るのはここが初めてではなく、それは前回の13章22節にもありましたし、更には、それからずっとさかのぼった事の発端を振り返ってみるとするならば、ルカによる福音書9章51節のところに、「イエスは、天に上げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた。」という言葉が、もう既にしっかりと語られていました。9章の「エルサレムに向かう決意を固められた。」という言葉は、顔をエルサレムに固く据え置かれた、そちらに向けて顔を固定したという、これはヘブライ文化の中で、特別に強い意思や決意を表すための表現です。ですから、実はもうそれほど前から、ほとんど初めから、主イエスの顔は、その照準はエルサレムに向けられていました。
そして、その流れの中での今朝の13章の御言葉になるのですけれども、今朝の主イエスへの決意表明はなぜなされたのかというと、主イエスのエルサレム行きを邪魔しようとする人々の思惑が、まずここで働いたからです。
31節、32節です。「13:31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」
ファリサイ派の人々を通して、ヘロデの思惑が語られました。このヘロデとは、主イエスがお生まれになったときに迫害を行ったヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスのことで、自分の願いに対して首を縦に振らない洗礼者ヨハネを殺害した地方領主です。主イエスはこの時、エルサレムのからはるか北の、ヘロデ・アンティパス所轄内を進んでおられました。主イエスは、洗礼者ヨハネの再来とも言われていましたので、ヘロデ・アンティパスにとっては、不気味な、またしゃくに障る相手でした。ヘロデは主イエスを亡き者としようとしていましたし、それを告げ口したファリサイ派の人々もその思いは同じでした。先程の32節で主イエスが、「行って、あの狐に伝えなさい。」と言われた一言は、ヘロデとファリサイ派の思惑が裏で繋がっていて、彼らがグルになっていて、計略を互いに伝え合う仲だということを見破った一言でした。彼らの焦点は、イエスを亡き者にする。そして自分たちの利益や私利私欲のために、イエスを黙らせて、自分たちが願う通りに従わせたいというところに向いていました。
しかし、彼らのその目論みを振り払うかのように、主イエスはこう言われたのです。33節。「だが、私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」
33節前半に、私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。とありますけれども、ここには、自分の道という言葉も、進むという言葉も、実は原文にはありません。直訳するとこれは、「今日と、明日と、その次の日を、私は決して手から離さない。」という言葉です。そこから反れないと。そしてその先には、エルサレムがある。その次の言葉は、「預言者が、エルサレムの外で死ぬことなど、絶対にありえない」という言葉です。
エルサレムに至るということは、イコール自分が死ぬことである。しかし、そこで死ぬという事から、私は絶対に目を逸らさない。今日も明日も明後日も、そこに向かって行くという、引き返せない道のりが、主イエスの目線の先に見えます。
まさにその言葉の通り、このルカによる福音書では、マタイによる福音書や、ヨハネによる福音書とは違って、主イエスが十字架のあと復活して、またガリラヤに戻られるという事は起きません。まさに一方通行の片道切符で、主イエスはエルサレムを目指される。そこで死ぬために。そこ以外では死なないために。
主イエスがそこまで集中しておられるエルサレムとは、一体、どんな場所なのでしょうか?続く34節には、主イエスの気迫と積年の思いが込められたような言葉が語られています。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
エルサレムの町が、お前と呼ばれ、預言者たちと、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よと呼ばれ、悪い、神様に従わない存在として、町が一人の人のように擬人化されています。そのエルサレムに対して、主イエスは、町全体に対して語り掛けるようにして、「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」と嘆かれました。
もう今からかなり前の私が19歳の時のことですけれども、単純に旅行をして、ニューヨークに数日間滞在した時のことを思い出しました。自由の女神を見て、華やかで、心躍るようなニューヨーク島の南の方を観光した後、町の北の方にあるハーレムと呼ばれる地区の安い宿に泊ったのですけれども、今はまた違っていると思いますけれども、当時はまだそこは、ただ歩いているだけで身の危険を感じるような場所でした。そこでは、特定の誰が怖いということではなくて、ニューヨークという大きな街そのものが何か不気味で、明るい華やかな部分と、飲み込まれたら帰って来れないような底知れなさ、厳しさが同居している。街自体が巨大な生き物のような感じがしました。
その街が倒れたら国が倒れてしまうような、アメリカの顔、ですから逆にニューヨークの町に、アメリカ人の姿がそのまま表れるわけです。その、酸いも甘いも汲みつくしたような、人間の夢も欲望も、善意も悪もすべてを吸いつくす生き物のような街。ましてやそのニューヨークよりも、もっとずっと長い、何千年という歴史を経てきたエルサレムという都があり、そこで生涯を終え、そこで死ぬために主イエスは毎日前進しておられた。
旧約聖書の哀歌という部分には、荒廃してしまったエルサレムを嘆く歌が歌われています。「2:15 道行く人はだれもかれも/手をたたいてあなたをあざける。おとめエルサレムよ、あなたに向かって/口笛を吹き、頭を振ってはやしたてる/「麗しさの極み、全地の喜びと/たたえられた都が、これか」と。」
そして、同じ旧約聖書のイザヤ書にはこうあります。「51:17 目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。52:2 立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。」
ニューヨークのように、それ以上に、エルサレムには人間の罪の根本が、紀元前何千年も前から根を張ってきた。さらにそのエルサレムが、今や神の御子主イエスをも飲み込んで、十字架にかけて殺そうとしている。人間の罪はそこに極まる。そういう、神をさえ殺す、神殺しの都がエルサレムであるわけです。旧約聖書の時代から、神様は様々な預言者たちを通じてエルサレムに、立ち上がれ、立ち戻れ、目覚めよと、本当に、めんどりが雛を羽の下に守るように支えてきたのに、人間の罪は、その神の愛を裏切り、いつまでもかたくなに応じようとしない。エルサレムの都も、その都によって示されるイスラエルの民の目線も、常に神様からずれている。神様が支配される都には、神様の心を映し出すような神の国には、エルサレムは到底なりえていない。
そんなエルサレムに、今朝の最後の35節で、主イエスは強く言い放っておられます。なぜなら主イエスは本気だからです。36節「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
見よ、とは、「ホラッ」というようないわゆる掛け声です。「ホラッそんなお前たちは皆捨てられる。お前たちの家であるエルサレムもどうしてくれようか、しかしその家も捨てられる。」そして普通なら、言葉はこれで終わりだと思います。
けれども、主イエスの言葉はここで終わりません。主イエスはエルサレムに向かっておられて、エルサレムを見捨てられないからです。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
これは、先程説教の前にお読みした、詩篇118編の最後の言葉です。詩編118編は、神様が私たち、救いを呼び求める者にいつくしみを与えて、助け出して救い出してくださるという憐みの詩編です。そして、今朝のルカによる福音書13章35節のカギ括弧が付いているところで引用されている言葉の直前に、とても有名な御言葉があります。それは、詩編118編の22節から24節の御言葉ですが、そこにはこうあります。「118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」
家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これが主の御業。家を建てる者にとって、いらない石を見捨てるのは当然のことです。なぜならその石は、脆かったり、欠けていたり、割れていたりして、使い物にならないからです。けれども主なる神は、家を建てる者の退けた石を、礎石として用いて、その家にご自身の家を建て上げてくださる。
主イエスは、見捨てられて当然のエルサレムの都に進んで行かれる。主イエスは、そこで見捨てられた捨て石に、その身を重ねて、羽の下にかばうようにして、かえって御自分が捨てられてくださる。そこで死んでくださる。自分が助かることを主イエスは考えない。そこで死ななければならない。私たち、捨て石のために、自分が捨てられてしまわなければならないと、決意してくださって、実際に真っすぐエルサレムの都に突き進んで、主イエスはそこで十字架に架かって死んでくださいました。
今日も明日もその次の日も、主イエスはこの道を手放さず、その道から逸れずに、私たちを救うための十字架に、命を懸けて進んでくださいます。今朝の32節でも主イエスは言われました。今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒すと。先日の聖書発見講座でも、マルコによる福音書の1章を読みましたけれども、悪霊を追い出すこと、病気を癒すこと、それに加えて、権威ある御言葉で教えてくださること。この三つが、今日も明日も、主イエスがやり続けてくださることです。この主イエスの姿、これは本当に、このわたしたちの目に驚くべきことです。私たちは今朝改めて、こういう風にされている主イエスを見て、驚かなければならない。
主なる神の御業、神様のしたいこと。それは、思うがままに神として力を振るい、振る舞うとか、そういったことでは全くありません。神様のなさりたいことは、私たちに確かな教えを、生きるための命の道を、教えてくださること。私たちには手に負えない、見えない強い悪霊の力を追い出すこと。全ての病気が文字通り癒されるという事は起こらないかもしれませんが、しかし主イエスとの出会いによる、そこにしかない病の癒しというものが確実にあります。それをあたえること。そして神殺しさえ悪びれずしてしまう私たちを、死の淵に見捨てられることのないように、代わりに死んでくださること。神様がなさりたいのはそのことで、神の御子主イエス・キリストは、その道を、今日も明日も明後日も、突き進んでくださることです。
ここはこの主イエス・キリストの体、キリストの教会ですから、私たちがすることも、主イエスがなさったことと同じです。今日も明日も明後日も、今年の年末に向けても、教会の100周年もそれ以後も、この救いの御業のために毎日突き進まれる主イエスの後ろ姿についていくこと。主イエスの道がどんな道か教え、主イエスの力で悪霊を追い出し、主イエスの力によって、癒しを必要としている人の、癒されるべき病を癒す、そのために祈り取り組み歩むこと。私たちの道もそれ以外にありませんし、これはコロナがあろうとなかろうと、教会に変わらず課せられている働きです。
大変な時代ですけれども、どうかこの私たちキリストの体が、その一部分一部分を担っている私たちが、この時にこそ目標を見失わず、主イエス・キリストを見失わずに、その背中に付いていけるように。私たちが、この教会が、神様が雛を守ってくださる、その羽の一枚一枚のようにして、今週も、これからも、神様の救いのお働きに用いられるように祈りたいと思います。