2020913日 ルカによる福音書14114節 「謙遜」

 謙遜という説教題を掲げました。控えめな態度をとること。自分の能力・価値などを低く評価すること。それが、国語辞典が語る謙遜の意味ですけれども、私はこれから、そんなつまらない道徳を勧めるような説教はもちろんいたしませんので安心してください。「わたしは柔和で謙遜な者である」と語られた、主イエス・キリストの姿を今朝も語ります。謙遜とは、その主イエスの姿から見えてくるものだからです。

 そもそも説教とは何か、という話をするならば、こうやって私が教会で、聖書の言葉を通して説教をしながら、毎週何を皆さんに語り伝えているのかというと、私は、皆さんが普段使っている言葉を、聖書に書かれていることを通して、再定義しています。私は皆さんに、説教を通して毎週言葉を語りますが、ここで皆さんが全く聞いたことのない新しい新語や造語は語りません。みなささんが既に知っている言葉を語るのですが、しかしその時、皆さんがもともと知っていた言葉についての、新しい意味付けを私は聖書から語ります。

 言葉の新しい意味が獲得されると、言葉は思考を導きますから、私たちの考えが新しくされます。そして、新しい言葉と共に新しい考えで考えることによって、これまでにはなかった新しい世界が開かれ、見えるようになり、その新しい世界を生きることができるようになるのです。謙遜という言葉と共に、今朝、私たちには、神様が見えるようになり、謙遜に歩まれた主イエスの後ろ姿が見えるようになり、自分と、またここに一緒に座っているそれぞれの人間らしさを、愛おしむことさえできるようになります。その新しい世界を御言葉によって開かれたいと思います。

 

 私たちは、ひと続きのルカによる福音書を続けて読み進んでいますので、先週からの繋がりをまず捉えたいと思うのですけれども、主イエスは今朝の一段落前の、13章の終わりの御言葉で、エルサレムと何度も語られ、エルサレムを目指して旅をし、しかもその場所で死ぬ。その場所以外では決して死ねないという、そういう覚悟をもって、歩み続けるのだとおっしゃいました。もちろん主イエスはそこで、エルサレムに辿り着いた暁には、御自分がそこで十字架に架かるということを既に見据えておられました。その歩みを妨げようとするファリサイ派の人々や、地方領主ヘロデ・アンティパスがいて、更にその主イエスの思いを全く理解しない人々と、そんな救い主主イエスを拒絶して十字架にかけてしまうエルサレムの街とそこにいる多くの人々がいたのですが、主イエスはそれらの思惑にも全く屈することなく、主イエスはエルサレムへの行進を、今日も明日も明後日も、悪霊を追い出し、そして病気を癒しながら続けるのだとおっしゃいました。

 

 私の牧師室に、力強く歩まれる主イエスの後ろ姿を描いた絵があるのですが、この度その絵を改めてまじまじと眺め、想像しました。この時エルサレムに向かって歩まれた主イエスの背中には、力と、そして自らが十字架に架かることによって人々を、邪悪なエルサレムの全体を、その罪から救い出すのだという、命がけの愛がみなぎっていたはずです。

使徒パウロは語りました。「2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」いつもキリストの勝利の行進に連ならせ、という言葉は、本当に素晴らしい言葉だと思います。行進とは、パレードをするということです。今日も明日も明後日も、このキリストについていく、キリスト共に、キリストを先頭に、みんなで行進をする。パレードをする。そうやって生きていくのが、キリストの弟子としての私たちです。

 

そのエルサレムへの行進の最中、ある安息日の日に会堂で礼拝をされて、そのあと、安息日には当時決まって行われていた、礼拝に集う人々皆が参加することのできた、安息日の昼食の交わりがありました。この食事の慣習は、今私たちの教会でも行われている聖餐式にも繋がっていると考えられています。この聖餐式の原型となる安息日の祝宴の席に、主イエスは加わられました。そしてその場面での話が14章から17章までずっと続いていくのですけれども、14章の始めのその安息日の昼食の場面で、主イエスは病ある人を癒されます。2節を見ると、水腫という病気を患う人が主イエスの前にいたとあります。水腫は、体や足に水が溜まって、皮膚がパンパンになるほど、手足やおなかがむくんでしまうつらい病気です。

その瞬間、主イエスは律法の専門家や、ファリサイ派の人々に問いかけられました。3節の言葉ですが「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」もちろん答えは、「安息日に病気を治すことは、律法で許されていない。」のはずです。専門家がその答えを知らないはずはありません。けれども、彼らは黙っていた。その答えを口に出せなかった。

それを見計らって主イエスは、4節にありますように、「すると、イエスは病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。」今日も明日も明後日も、エルサレムに向かって、十字架による私たちのための救いの御業に向かって歩まれながら、悪霊を追い出し、病気を癒してくださる主イエスの歩みは止まらないのです。それはユダヤ人の歴史の中で千年単位で続いてきた社会通念、かつ揺るぎない常識によっても、押し留めることができない。この主イエスによって、安息日の本来の意味が、千年単位の時を経て、回復されていく。一週間の働きの中で疲れ、病んでしまう人間が、この日には本当に神様の前に出て、そこで癒されて、力を回復し、祝福を受け、真の安息を神様の前に取り戻して、また新しい一週間へと遣わされて、自分の持ち場に、新しくなって帰っていく。これは今でもこの日曜日に、この場所で起こり続けていることです。日曜日にここで主イエスの前に立ち、主イエスに触れていただき、この手を取っていただいて、病気を癒されて、帰していただく。水腫の病を抱えていたこの人は、この私たち一人一人のことです。

 

このルカによる福音書で、主イエスによる、このような安息日の病の癒しが語られているのは、今朝の御言葉で、初めから数えてもう三度目です。この福音書を書いたルカの職業は医者だったと、聖書にも記されていますが、特別にこの主イエスによる安息日の癒しにこだわって、この福音書を書いていると思われます。ルカがこの福音書を書いた時代にも、まだまだユダヤ教の力の方がキリスト教会よりも強く、迫害も起こり、キリスト教徒が殺されたり、町から追い出されるという状況でした。そういう中で、本当の安息日は、ユダヤ教が伝統的に守っている、その日に病気を癒せないなんて言う日では、決してないはずだ。その日にこそ、人は神と出会い神に癒され、回復させられるはずだ、それこそが安息日だと、強く訴えているのです。

これまでの主イエスによる安息日の癒しでは、反対勢力が激怒して主イエスをその町から追い出したりしていたのですが、今朝の御言葉では、彼らは、先程の問いかけに対しても黙っていましたし、6節にも、「彼らは、これに対して答えることができなかった。」とあります。もう反論できなくなっている。主イエスの方が彼らを押し出して、ぐうの音も出ないようにしている。海を二つに割って進むような、主イエスの勝利がここには表れています。

この日曜日、安息日に、私たちは礼拝に招かれ、この場所に結ばれることができた。こうやって私たちは、今日も皆で、この力強い主イエス・キリストの行進に連なっている。今日もこの日この時が与えられたこと自体が、今本当に嬉しいです。

 

そして続く7節からの御言葉でも、その同じ場所での、同じ状況で主イエスが語られた言葉が記されています。その言葉のきっかけは、その時の主イエスの目に飛び込んで来た、ある光景があったからです。

7「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」聖餐式にも通じる安息日の昼食とは、それは、ただ食事を摂るためだけの場ではなく、そこは言わば、礼拝の一部として、神と出会い、神に触れられ、病を癒され、心身共に元気になれる場所に、主イエスによって作り変えられ、取り戻されたのです。ですから、そこで、様に向き合って癒されるお互いを、やれ律法違反だ、それは許されないなどと責め立てることはもってのほかで、そこはお互いが神様によって引き上げられたことを喜び合う、祝祭の場になったのです。しかし、それにもかからず、その場で自分が上席に座ることこそが大事だと、そういう勢いで席次争いする者たちの姿が主イエスの目に入った。

 

そこで主イエスは、たとえば結婚式の時、あなたはどうするか?と、突然、婚宴の席でのたとえ話をされました。この譬え話が婚宴の譬えであるように、やはりこの場所は喜びの祝宴なのです。8節以降の言葉です。14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

これはもちろん、結婚式のエチケットや、結婚式では末席に座るのが謙遜の美徳だという話ではありません。この日は安息日で、この状況は安息日の昼食です。水腫の人が、主イエスに癒されて、元気づけられて送り出される時です。百歩譲って、平日なら人は自分の身分や、人の上下関係に気を遣って生きる必要もあるでしょうけれども、この日は、神様に向き合い、神様の前での自分の位置付けを考える時です。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。神様に創造され、神様に生かされている私たち人間が、この日は、自分自身も含めて、万物の創造者であり支配者でもあり、それだけでなく、私たちを救い、癒してくださることを、その本分としてくださる愛なる神様の前に出て、へりくだり、神様に礼拝をする日です。この日神様は、へりくだる者、病に悩む者、井戸の穴に落ち込むような危機に瀕するものを、高めてくださる。引き上げてくださる。回復させてくださる。

聖書が語る謙遜とは、自分の能力を低く見積もって、能ある鷹は爪を隠すではないですけれども、控えめに、遠慮して、本当の自分を隠して生きることではない。聖書が語る謙遜とは、神様の前に、人間である自分が、人間としての分をわきまえること。変に背伸びをしたり、人より高い席次を取り合ったりせずとも、土の塵から作られた人間でしかない私が、過度に自分を誇張せず、しかし逆に、過度に自己評価を低くして控えめに自分を隠すのでもなく、本当に人として、神様の前に、人間らしくあること。

アダムとエバが最初に罪へと誘惑されて、誘惑に負けて罪を犯してしまった時の殺し文句は、「それを食べると目が開け、あなたは神のようになれる。あなたは神のように善悪を知る者となる。」という言葉でした。この誘惑に負けた時、アダムとエバは、そしてその子孫である私たちも、人間であることに飽き足らず、傲慢にも、神のようになろうとした。その傲慢さこそが、まさに罪をこの身に呼び込んだのです。神のようになりたい。神のように思い通りに力を発揮し、周りの人間を支配しひざまずかせたい。そういう傲慢さが今も私たち皆の心の奥に根を張っていて、色々な時にその思いが頭をもたげてくるのです。それが罪の傲慢さです。その高ぶりが寄せ集まって、バベルの塔を生み出した。傲慢な人間が、人間の限界突破を目指して、その総力を結集して作っても、そこで出来上がるものは、極めて人工的な、バベルの塔のような巨大なゴミの塊に終わるのかもしれません。謙遜とは、腰を低くしておべっかと使うこととは全く違って、それは今ここで神様を礼拝している私たちが行っていること。内面に邪悪な罪を抱えている私たち人間が、自分の限界と罪とを認め、それを告白し、悔い改めて、神様の前に、神様を見上げる礼拝者として、人間らしく立つこと。この日曜日の礼拝に現れる神様との関係のままに、生きることです。

 

最後に、12節からの御言葉もお読みします。14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

これは、会を催す人々への主イエスの言葉ですので、今この状況に、これを当てはめるならば、これは、既に洗礼を受けた、この教会の教会員の皆さんに向けて語られている言葉です。この安息日の食卓は、この日曜日のわたしたちの礼拝は、全ての人に開かれるべきだ。特に、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

 日曜日の私たちの謙遜さは、どこに現れるのか?まさかこの礼拝堂で、遠慮して、奥ゆかしく後ろの席に座ることが謙遜ということではありません。日曜日の私たちの謙遜は、神の前にへりくだることと、そして神様がここで私たちに皆に豊かに与えてくださる恵みを、独り占めにしないということの中に現れます。

 傲慢さは、自分のことだけ、という自己本位を生み出し、排他性、閉鎖性へと導きますが、謙遜さは、恵みに対する感謝と、大らかさ、人に対する愛と開かれた優しさを生み出して止まないものです。先月末の召天者記念礼拝に続き、先週には、愛する信仰の家族の葬儀がありましたけれども、謙遜であるという事は、自分もやがて死ぬのだということを深く理解して生きる、ということでもあります。だからこの教会も、この神様のことも、決してこの自分だけで、この自分たちだけで独り占めするようなものではないし、そうできるようなものでもない。この思いは、開かれた自分の人生と、開かれた教会と、開かれた礼拝と、開かれたこの安息日、日曜日を、多くの人を招き、多くの人に豊かに与えるための、祝福の源とする。

 今私たちも、主イエスと一緒に、エルサレムに向かう歩みを、日々進んでいるのです。毎週新しく主イエスに癒され守られながら、十字架に向かって、死に向かって、主イエスと共に、主イエスに手を取られながら、私たちも進ませていただいています。主イエスが言われたように、「9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う。」謙遜な死の先にはキリストからの命があります。新型コロナウィルス禍で、みんなが戦々恐々と生きている中で、私たち教会が見据えるべき道は、この状況下でも変わることなく、礼拝者として生き、主イエスの背中に付き従うことではないでしょうか。そして、本当に謙遜なのは、こんな私たちをちゃんと引き連れて、私たちを愛して、一緒に歩んでくださる主イエスの方です。このとても幸いな歩みを、謙遜に、人間らしく落ち着いて、共に歩みましょう。