2020年9月20日 ルカによる福音書14章15~24節 「エゴイズム」
今朝の御言葉は、本当に素晴らしい。ダイナミックで、壮大な、神様から私たちへの招きを語っている御言葉です。その意味では、「エゴイズム」というこの説教題は相応しい題名ではないのですが、しかし本当にこの御言葉を読むとき、神様の招きの大きさをそこで味わう時、どうしてもその神様からのプロポーズを断ってしまう、そういう自分のエゴイズムが見えてきてしまうのです。
二カ月前に、ルカによる福音書の13章から説教をしましたその時、13章7節の、「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。」という御言葉を読んで、信仰生活25年目の自分の今の煮え切らなさ、中途半端さを問われました。そういう実りのない木は切り倒してしまえ、という言葉がそのあとには続いていたのですが、しかし主イエスはそういう私たちに見切りをつけて切り倒してしまうどころか、さらに加えて待ち続け、今朝の御言葉でも繰り返して、またしても、何度でも、親身に声をかけて、招いてくださるのです。13章では、待ち続けてくださる神様の忍耐が強調されましたが、今朝の御言葉では、さらにそれ以上のことが、神の愛の招きが語られています。
主イエスは、今朝の御言葉の中でたとえ話を語られました。なぜまた、主イエスはたとえ話を語られるのか?それは、それを聞く、私たちも含めたすべての人が、時間や空間の隔たりを超えて、このたとえ話の中に入り込んで、そこに感情移入して、感じて、目で見て、味わって欲しい景色があるからです。
主イエスがたとえ話を離されたきっかけは、安息日の昼食の場での、ある客の言葉でした。15節です。「14:15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と言った。」
ある説教者の解釈では、「これを言ったこの人は、信仰がないわけではないけれども、神の招きに本当には心を向けていない人だ。この人は、神の国での食事の幸いを語ってはいるけれども、この言葉にはどことなく悲しい響きある。この人はどこか遠くから見ている。神の国での食事の幸いとこの人の間には、ある距離感がある。」とされていました。
その通りだと思います。つまり、神の国で食事をする人の幸いを、「そりゃ幸いなことでしょうね」と、客観的に見ている。これは、自分でそれを味わって、うまい!幸せすぎる!と叫んでいる人の言葉ではなく、しかしこの人はその幸いについて、分かった気になって語っている。
そういう人が、この日曜日の昼食会の席にいて、そんな言葉をつぶやいた。それを聞いた主イエスは、「実際はそんな程度の幸いじゃない」ということをお伝えになりたかった。それゆえにたとえを話されたのだと思います。
16節からたとえ話が始まります。「14:16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、14:17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」
ここについては、研究者たちが一致して、この当時の宴会への招待についての、ある習慣があったことを語っています。それは、宴会への招待が二度にわたってなされるという慣例です。宴会への招待は、通常、何日か前に行われる事前の招待と、当日の食事の用意が整ったあとの二度目の招待という二回があった。そしてこのたとえ話でも、その慣例に従って、ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、と言われて、そのあとに、第二弾の招きとして、17節にありますように、「宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」ということです。
そして、盛大な宴会とは、これはしょっちゅうあるようなものではなくて、極めて稀な、特別の宴席ですから、そのための丁寧な招きを断るということは、それはとても失礼な、そこから争いが生じるような裏切りを意味しました。
そして、もうここで、このたとえ話の背後に隠されている神様の大きな御心、その深い意味を種明かしをしますならば、もちろんこの盛大な大宴会を催すある人とは、天におられる父なる神様のことです。そしてその神様は、もう既に神の国の大宴会の予定を組んで、そこに大勢の人を招いてくださった。これは、実は旧約聖書の段階を示しています。旧約聖書の時代から、父なる神様はずっと、大勢の人に対して、宴会への招きを語り続けて下っていた。先日の13章の34節でも、その父なる神の御心を代弁する言葉が主イエスによって語られていました。聖書の見開きの右側の13章34節です。「13:34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
実は聖書全体を貫く大きな歴史という枠で見る時に、こういう、父なる神様からの、何度にもわたる招きが繰り返されてきたという経緯があるわけです。けれども、エルサレムの人々は、つまりユダヤ人たちは、それに応じようとしてこなかった。
しかし今や、宴会の時がついに来た、その時刻になったわけです。そしてそこでは、その二度目の招きを告げるための僕が、主なる神様から招待客のもとに送られて、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせたわけです。この、父なる神から送り出された僕とは誰か?それは言うまでもなく、この譬えを語っておられる主イエス・キリストのことです。
主の日が来る。かの日がやがて訪れる。その時には天からメシアがおいでになる。救い主がお生まれになる。そうやってずっと預言者たちが語り続けて待望してきたその日が、もう来た。宴会の時刻に、今まさになったわけです。主イエス・キリストは、主の僕として、本当にご自分自らで、私たちそれぞれを訪れてくださって、直接、「さあ、あなたのための席が、あなたのための救いが、神の国が、用意できましたので、さあ今こそ神様の招きに応じてください。おいでください。」と招いてくださっているわけです。
しかし、そこで本当に痛ましいことが起こる。これは私のことです。神様ごめんなさいと、本当に目も当てられない。顔を伏せざるをえないようなことが起こる。
18節から20節です。「14:18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。14:19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。14:20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」
先程、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と、分かったような顔をして主イエスに語った同じ態度がここにあります。それは一見スマートなのです。「すいません。どうか、失礼させてください。」と、言葉遣いも丁寧なわけです。そして本当に悪びれずに、自分が実はとんでもないことをしてしまっていることに気づかずに、それが悪いことだと露にも思わずに、こういうことを、当日わざわざ招きにやってきてくださる主の僕に、分かった風に、さも正しいことを言っている風に、言うわけです。この冷たさ、つれなさ、他人行儀の加減といったら、何でしょう?この不気味な行儀のよさと落ち着きと、さっぱりとした平静さの背後には、表向きにはうまく隠されている、冷たいエゴイズムが隠されています。本当に私たちは、自分もこういうこといつもやるので、どの口から、どんな心からこういう言葉が出るのかが、よく分かるわけです。その意味では、主イエスの洞察は本当に怖い。聖書は恐ろしいと思います。本当に恐ろしいことに、本当にリアルな自分の姿が、聖書の中に、目を背けたくなるぐらいに、見えてしまうのです。
ある説教者は、ここでの、畑を買った。牛を二頭ずつ五組買った。妻を迎えた。という言葉が、全て過去形だという点に注目しています。なるほどその通りの言葉になっています。つまり、もう買い物も、取引も、結婚式も終わっているわけです。だからこの断る人たちの中には、僕の誘いを断らなくてはならない事情が、理由が、本当は、何もない。この神様からの大きな誘いを断るに足るだけの、この招き以上に大事な理由などというものは、実は誰の中にもないわけです。
もしこの大きな招きを断るこのできる大きなものが私たちの中にあるとするならば、その時それは、私たちの中で過度に肥大した悪しきエゴイズムがあるだけです。聖書はその、神の愛を遮断し、神様に、愛を裏切りで返してしまう自己中心性を、罪と呼びます。
しかし、ここで話は終わりません。神様の愛の招きは、ここで拒絶に会い、失速してしまうのではなく、逆にさらに加速します。21節。「14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』」
これは実際に主イエスがこの時現在進行形でしておられたことです。急いで町の広場や路地へ出て行く。つまり、家のない人、路地の隅に追いやられている人、罪を犯した人、徴税人。悪霊に取りつかれた人。穢れていて、人々が近寄りも触りもしなかった人たち。そういう神の国から遠いと思われていた人々が、僕主イエスによって招かれた。
しかしまだです。その上さらにさらに、神の招きの手は力強く広げられていきます。22節から23節。「14:22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、14:23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」
通りや小道とは町の外のことで、そこには同族ではない、他の神に仕えている異邦人たちがいた。しかしその人たちも含めて、全世界の人々を、無理にでも連れてきて、なんとしてでも、この神の家に招き入れ、祝宴の席につかせて、この家をいっぱいにしてくれ!こう主人が言う時、そこには主イエス・キリストによる救いへの招きと共に、主イエスが聖霊を授けて、その救いへの招きの御業を託してくださった、その弟子たちと、その弟子たちによって世界各地に建てられ広げられた神の家、キリスト教会の姿も視野に入ってきます。そして、「無理にでも世界中の人々を連れてきて、神の家をいっぱいにしてくれ」という、神様の何とかして一人でも多くの人を招く。そのために、そこの通りやあちらの小道にも出て行って招く!というこのミッションは、まだ閉じられずに開いている。今日もまだ、今もまだ、世界中の教会を通して進行中です。
この板宿教会の席もまだ空いています。ここに無理にでも人を招いて座らせたいという、この空席への神様の思いに、今朝はこの私たちの思いも沿わせたいと思います。その意味では私たちも主イエスの僕として、無理にでも、なんとしてでも、いつかは、いや、神様の力によって近いうちに、あの人をこの空席に招きたい。あの人に、ここに座っていただきたい。そしてここで一緒に神の祝宴に与りたい。そのために本当に祈り歩みたいと思います。
ある客が語った言葉、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」そしてその時に、「いやいや、本当にあなたはその大宴会がどんなものかを知っているのか」と、主イエスが語ってくださったたとえ。しかしそのたとえは、主イエス御自身が実際に身をもってなしてくださったことでした。「無理にでも連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ!」と、父なる神から仰せつかった主イエスは、本当に、無理をしてくださいました。十字架に架かって、私たちのために、命を投げ出してくださる。これ以上のことはもうありません。これ以上の無理はありません。神様の招きと、主イエスの招きを、次々に、連続して断り、神の愛を裏切り、死に値する罪をうずたかく積み上げながら生きる、私たちのために、これ以上ない無理をして、この方は私たちのエゴの犠牲になってくださいました。
もはや私たちがすべきことは、エゴを捨てようとか、利他的に愛を配って生きる者になろうとか、そういうことではありません。もうそんなことは二の次です。
主イエスは命を懸けて、こういうズルい、こんなに分かっていない、こういう冷たい、神様の手をはねのけるような人間が、でもそういうダメなところも、ズルいところも赦されて、ちゃんと楽しい宴会の席につかせていただくことができる。こういう神様の顔を直視できないような、神の国の食事はさぞ素晴らしいものでしょうねえと言いながらも、その素晴らしさを信じられないような、神様の前で喜びにはじけることができない、寂しさを心の奥に抱えた、疲れた人間が、でもその宴席の中心に招かれて、心から喜び笑うことができて、赦して受け入れてくださる神様の前で心底安心して、これが本当の幸せなのかと、味わったことのない大きな幸せと喜びに満たされることのできる宴会に、主イエスはそこに、本当に私たちを招いてくださっています。再来週に8カ月振りの聖餐式を行うことが許されるならば、本当に嬉しいと思います。聖餐式は神の国の食事のまだその前味、オードブルに過ぎませんが、でもイエス・キリストの十字架での体と血という、メインディッシュは、そこでちゃんと十分に与えられますので、共に喜んで、そのキリストの命を飲み下して、具体的にこの体に取り込みたいと思います。
そしてさらには、その私たちを赦し、温め、生かすキリストの体と血が、その聖餐式を待たずとも、今朝のこの御言葉を通して、聖書の福音によって、今、私たちに差し出されていますので、もう本当に、これが差し出されたら、もうこれは断れない。断っちゃいけない。私たちはもう、この主イエス・キリストを、無駄にできないし、無駄にしたくない。遅くても、後に遅れても良いので、ああ、今、それに気付いたということで、全く何も問題ないので、また主イエスも「神の国の宴席では、後の人が先になる」と言ってくださっていますので、今私たちがすべきことは、この方の招きを受けることです。本当に前に進み出て、主イエスが差し出してくださっている私のための席に、ありがとうと、喜んで着席したいと思います。