2020年9月27日 ルカによる福音書14章25~35節 「幸せになる決意」
今朝の御言葉は、深く私たちの生き方が問われる主イエスの言葉です。キリストに従って生きる者を、聖書は弟子と呼びます。ですから私たちは皆、キリストの弟子であり、今朝もこうして、日曜日の朝に教会に集うことによって、キリストの弟子としての人生を皆で歩んでいます。今朝の御言葉の最初の25節にも、「大勢の群衆が一緒について来た」とあります。この主イエスについていく大勢の群衆の中に、今の私たちも含まれています。そしてその群衆に対して、主イエス・キリストは、振り向いて、今朝のこの御言葉を語られました。ここには、主イエス・キリストに従って歩む弟子たちに向けての、根本的に大切な言葉が語られています。そしてこれは、私たちの生き方を本当に左右する言葉です。
今朝の御言葉の表題は、これは、この新共同訳聖書を翻訳した編集者が、読み手のためを思って、聖書にない言葉を付けて、この御言葉をまとめてくれているものなのですが、今朝はここに「弟子の条件」と書いてあります。しかしこの題の付け方は間違いです。ここで語られていることは、これがクリアできれば弟子になることができるという、弟子になれるかなれないかの条件ではなく、既に弟子になった者が、弟子であり続けることができるための、心構えとでも言うべき言葉です。主イエスは、既に弟子になっている。主イエスに招かれて主イエスと共に人生を歩んでいる、そういう人々に、そういう今朝のこの私たちに、今後も、私たちが主イエスの弟子として歩み続けて行くためには何が必要か?今後も私たち弟子は、どう生きて行けばよいのか?をお伝えくださいました。
そしてここには、一読していただければ気付かれると思いますが、同じ言葉が三度繰り返されています。それは、26節と27節と33節です。それぞれ、改めて読んでみましょう。
「14:26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
わたしの弟子ではありえない。という同じ言い回しが三度使われていて、そしてこれは、それでは私の弟子にはなれないという、条件を付ける言葉ではなくて、これこれこういうことならば、私の弟子であり続けることはできないという、言葉です。
そしてもう一つ、この言葉を読む時の解説として付け加えたいと思いますことは、26節に使われている、憎むという言葉の意味です。これは、文字通りに本当に憎しみをもって、両親家族を恨まないといけないということではなくて、これは当時の言葉遣いです。ユダヤ人たちは普通、A,Bのどちらかを選ぶという時に、私はAを選んでBを憎む、という言い方をしました。ですからこれは、二のものを比べる時の常套句で、こっちを大事にする時には、反対にこっちを憎むという、比較の上での話です。
しかしながら、いくら比較とは言っても、ここで主イエスが比較しておられるのは、どちらも甲乙つけがたい、私たちにとって大切なものですから、ここで言われていることは、とても重い事柄であることは間違いありません。家族よりも、また自分の命よりも、神様に従う方を取る。自分の十字架を背負うということは、自分の処刑道具を背負って主イエスに従うことです。ですからそれは、具体的には、自分の思いをそのまま生かさないこと。むしろ自分としては嫌だな、違うなと思ってしまうような道を、敢えて取るということです。
そして、33節にある、自分の持ち物を一切捨てる、という言葉は、その前の31節からのたとえ話と結び付いています。改めて31節から読むと、こうあります。「14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
もしあなたが王様で、戦いに打って出る時、さらにそこで、相手の兵力が自分の二倍あるならば、どうするだろうか?普通なら、かたくなに勝ちにこだわる気持ちは捨てて、自分の大切な持ちものも、その場合には和解のための贈り物に使って、方針転換をして和睦を求めるはずだ。主イエスに従い続けるという目的のためには、必要とあれば所有しているものや、自分の気持ちやこだわりも、いつでも失う心構えがいると、そういう言葉です。
そしてこの弟子としての三つの心構えは、全部一体的につながって、結びついている事柄です。家族、自分の命、自分の十字架を背負って、自分の命を懸けて主イエスに従うこと。それは結局、33節の言葉にあるように、家族も、自分の命も、自分の人生も、一切を自分の持ち物だとは思わないということにつながるのです。
では、この心構えを具体的に実践するということは、一体どういうことなのでしょうか?「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」これはとても具体的なことです。そしてこのことは、私たちそれぞれが、人生の色々な場面で、神様の前にいつも問われて、その都度、決断すべきことです。
今朝の御言葉に向き合いながら、卑近な例に過ぎませんが、自分の生涯に起こった三つのことを思い出しました。
一つ目は、これは何度かお話ししたかもしれませんが、次男が生まれた時のことを思い起こしました。次男が誕生した時、アメリカ人宣教師の先生から、お祝いのメールが送られてきました。それを読んだ時、私は、一瞬読み間違いをしたかなと思ったのです。そこには、May God give you wisdom, love, and patience to raise your child as
his child.と書いてありました。「神様があなたに、その子を、神様の子どもとして育てていくための、知恵と、愛と、忍耐力とを、与えてくださるように。」私の子どもとして、じゃないのか、と。この子は、私が忍耐をして、神様の子どもにしていくんだ。「私の次男が生まれました!」と言うのは違うのだなと、のっけからいきなり、次男誕生の翌日に、思い知らされました。
二つ目に思い出したのは、2011年の東日本大震災の時のことでした。震災が起きてほんの数日後のことでしたが、原発が爆発し、その後の状況が全く読めなくなり、妻と、当時1歳、3歳、5歳の三人の子どもたちを仙台から宝塚の妻の実家に移動させました。私たちの家族には避難する場所があったということ自体、それはとても恵まれたことだったのですが、しかし新幹線も高速道路も寸断され、仙台空港も津波で水没していましたので、何とか新潟空港発伊丹行きのチケットを取って、他の二家族の母親と子どもたちと一緒に、山形経由で、知人の車とタクシーを乗り継いで、一晩で新潟まで行きつくようにと、ともかく着の身着のままのような形で、送り出しました。そのとき教会は小さな避難所のようになっていて、数組の家族が寝泊まりしていましたし、もちろん教会の働きがありましたので、私は教会に残って、結果的にはそのあと二カ月間家族と離れて過ごすことになったのですけれども、その夜、余震が続く中で二階のベッドで寝ることもできず、家族を送り出した玄関に布団を敷いたのですが、家族が心配でたまらず、自分が一緒に行ってやることができなかったという自責の念と、「もしこのまま、もう再会できないということになったらどうしよう」という思いも頭をよぎって、布団をかぶってそこでむせび泣くことしかできなかった、ということがありました。
また、その数か月後の話ですが、留学のために、被災地のその教会を離れることになった際にも、留学は前々から決まっていたことであり、それが私にできる最大限の神様への献身だということは頭では分かってはいたのですけれども、その教会とその環境を他では得難いものだと感じて愛していましたので、こんな時にここを離れていいのか?離れたくない、という感情が強くあって、自分の体を引き裂かれるような別れを経験し、その時も人目を憚らずむせび泣きましたが、しかしもしそこで挑戦することをやめていたら、それは教会のためにもなりませんでしたし、その献身の先にある、更に豊かな祝福を取り損ねていたと言えます。家族も、自分自身の人生も、もちろん教会も、この自分の所有物ではないのです。
よく耳にする言葉が、また時折、自分自身でも言ってしまいそうになる言葉があります。「どうせ自分のこの命なのだから、どう生きようが自分の勝手だ!」こう言われてしまったら、もう何も言えない、否定することのできないような物言いに聞こえますが、しかしそれは間違っています。そしてその言葉の間違いを、私たちはもう知っています。
私たちのこの命のためには、既にイエス・キリストの命の犠牲が支払われています。ですから、あなたのその命は、その命のために主イエス・キリストが死んでくださった命です。神戸の震災で6400人が亡くなり、この教会の会員もその時一名亡くなり、東北の震災で2万人が亡くなり、コロナウィルスでは既に世界で98万人が亡くなっている。本当にその中を潜り抜けて、他にもっと、死が間近に迫った瞬間がそれぞれ皆にあったはずですが、それもすべて潜り抜けて、私たちは今朝も生かされています。しかしこれは実に不思議なことです。この命、本当はいつ費えてもおかしくありませんでした。では何が起こったのか?神様に守られたのです。あなたの命は、そのために神様がその命と引き換えに守り、救ってくださった、神に救われた命です。「自分のこの命」だなんて言えません。
「14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」と主イエスは言われましたが、何よりそれを実行してくださったのは、ほかならぬ主イエスご自身でした。主イエスは十字架に付けられたわけではなく、御自分自ら十字架を背負って、自分のこの命は、私について来る者たちに与えるための命なのだということを知って、それをしてくださいました。
命は、捧げることができます。そしてそうする時に、命は輝きます。主イエスがこのルカによる福音書の9章で語られた言葉がよみがえります。「9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」自分の命を神様に捧げて、弟子として生きることが、キリストの死と復活に結ばれて、永遠の命を得て、自分の命を救うことになるのです。
そして今朝の28節から30節までの譬えで主イエスが語っておられることは、最後まで貫き通せ。弟子としての歩みを完成させよ、ということです。「14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、14:30
『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。」
主イエスはここでも、何よりも、御自分、自らこのあと最後に十字架に架かり、さらに復活されて、私たちのための救いを建て上げて、すべて完成させてくださったのです。
限られたこの命、一度しかないこの人生、しかもキリストによって愛され、守られ、支えられて今保たれている、この神様による命。死ぬ時に、もっとできたかもしれないと後悔しないように、使い切りたい。弟子としての歩みを完成させたいと思うのです。
そして自分の命も、自分の家族も、自分のものではなく神様のものとする時に、その時にこそ本当に、自分の命と家族に注がれている神様の愛を初めて垣間見ることができ、それだけ高く尊い自分の命の価値に気づくことができるのです。自分が守る自分の所有物としての家族というところから、本当に良い意味で、神様に家族を明け渡す時に、自分を超えた、神様の持ち物として、神様が大事に愛して育んでくださっている、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹が見えてくる。本当にその時にこそ、家族を神様に愛されている尊い家族として尊重し、大切にし、心から愛することができるようになる。そうやって、神様のものとして家族を捉える時にこそ、実は、私たちは家族を幸せにすることができるのです。
ここにも、家族を後ろに置いて、この日曜日に懸命に礼拝に集われている方々がたくさんいらっしゃいます。教会の礼拝が成立するためには、皆さんのその献身が欠かせません。またこの教会そのものも、教会は実際に大きな一つの体のようにして、一人も欠けてはならないそういう一人一人が為す、多種多様の神様への献身によって成り立っています。そういう、100年間、世代を超えてここに集うすべての人々の、愛と献身の結晶として、今朝もここに教会があるということに感謝したいと思いますし、私たちそれぞれの、主イエス・キリストについていくという決断が、自分の命と、人生と、そして家族を豊かに育み、そこに神様からの幸いを運ぶという真実を今朝掴みたいと思います。
最後の段落の34節には、「塩に塩気がなくなれば、役に立たなくなる」とあります。当時の塩は岩塩でしたので、塩を取ってきたと思いながらも、庭においていたりすると、雨や湿気で成分が変わって役に立たなくなるということがあったそうです。
そして、私たちキリストの弟子たちも、時に力がなくなったり、疲れたりして、キリストの弟子が弟子らしくあり続けることができないような、気の抜けた炭酸水のようになってしまう、そういう時を経験します。
ではどうしたらいいのか?それが今朝、まさに、これまで既に語られてきたことなのですが、弟子が弟子らしい元気を取り戻すためには、もちろん時に休みも必要ですが、しかし、ただ休めばいいということではなくて、キリストの弟子にとっての一番の力は、やはり主イエス・キリスト御自身であり、その救いの言葉、そして、使徒パウロがそれは信じる者すべてに救いをもたらす、ダイナマイトのような神の力そのものだ、と語って止まなかった、福音の力です。
ですから私たちは今朝も、この道を、歩みを止めずに進みたいと思います。自らの生涯が福音そのものである、この主イエス・キリストに従うという決意が、本当に私たち主に従う弟子たちが元気に生きるための力であり、幸せなのです。