2020年10月4日 ルカによる福音書15章1~10節 「神があなたを見つけ出す」
先週の御言葉では、自分のために生きることから、主イエス・キリストを知って、神様のために生きることへと、人生が方向転換するというのが、弟子の道だということを示されました。
その生き方の大転換を、聖書は、それは悔い改めるということだと語ると、前に学びましたが、その悔い改めという言葉が、今朝の御言葉にも、二回繰り返して、7節と10節で語られています。
その悔い改めという、神様への、人生の方向転換が起こる。それが私たちを生かす。そして今朝の御言葉では、その悔い改めが、どのようにして起こるのか?人生が変わって、もう本当に、そうではなかったところから、人が神様に出会って、クリスチャンになる。それがどういうかたちで起こるのかという事と、そしてもう一つ、その悔い改めを、神様がどうとらえてくださるのかということが、豊かに語られています。
そこでまず、悔い改めが起こる、人が人生を転換させてクリスチャンとして生きるようになるなら、そこで何が起こるかということですけれども、今朝の御言葉には二つの譬えが語られていますが、この二つの譬え話は、シンプルに同じ内容を語っています。
それは、片方は羊、もう片方は銀貨ですけれども、そのどちらも、一匹の羊と、一枚の銀貨が見失われた。しかしそれが、kata
や羊飼いによって、そして銀貨は女性によって探し出されたということです。
そして、私たちが今朝まず注意して読むべきことは、羊にしろ、銀貨にしろ、羊については、「見失われた」と、また銀貨については、それを「無くした」と、何度か繰り返して語られているのですが、その言葉が、みんなギリシャ語の同じ言葉の翻訳であるということです。それはアポルーミという言葉なのですが、意味は、完全に破壊されている、あるいは殺すという意味の動詞なのです。この言葉がもし妊婦に当てはめて使用される時には、死産する、堕胎する、そういう意味になる強烈な言葉です。
ですので、ここで言われていることは、迷子のかわいい羊さんだとか、ちょっと銀貨をなくしちゃったとか、そういう何か牧歌的な話ということでは、これは到底済まされない話を主イエスはなさっているのです。その言葉の意味を直接当てがって今朝の聖書を直訳したら、これは、死んだ羊のたとえ、ということになる、そして裂けて砕けてまった銀貨のたとえ、それを主イエスが話されたということになります。
しかし、なぜここで、主イエスはそんな物騒な、死の匂い漂うような話を急になさったのでしょうか?その理由が15章の出だしです。1節から3節を改めてお読みいたします。「15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。」
主イエスが譬えを話されたのは、ファリサイ派と律法学者たちが不平を言ったからでした。その不平とは、この人は、罪人たちを迎えて、迎え入れるばかりか、食事まで一緒にしている、という文句でした。
罪人たちという言葉は、正道を外れた人、行くべき道から逸脱して、さまよう放浪者、という意味の言葉です。そして、ファリサイ派や律法学者という、自ら自分たちは正道を言っていると自認している人たちにとって、罪人たちは、神に救われる資格のない、逆に神によって天罰を受けて、破壊されて、死んで地獄に堕ちるべき、とんでもない輩だと本気で思われて、憎悪の的とされていた人々でした。
しかし主イエスは彼らを受け入れて、食事を共にした。一緒に食事をするということは、その人が自分にとって大事な存在であり、大事な友人であり、もちろんそれは主に感謝して共に与る食卓ですから、主なる神様の前に立つ、同じ神の家族であると、一緒に食事をするということは、そういう、もう他人とは言えない深い関係に入るということを意味しています。ましてや、このルカによる福音書のこれまでの流れを振り返ると、14章の始めから、場面は今日私たちが行う聖餐式の原型としての意味合いも持っている、安息日の特別な昼食の場面から始まり、その席上で主イエスは、神様が催し、そこに全世界の異邦人までをも招いてくださるという、神の国の大宴会のたとえをお話しになり、そういう一連の流れの中での今朝の15章ですので、神様の宴席のモティーフは、ずっとこの15章でも、次の放蕩息子のたとえの中でも続いているわけです。ですから、主イエスと一緒に食事をするということは、ずばりその人が神様に受け入れられて、神様の救いに与るということまでを意味しているのです。
しかし、律法学者とファリサイ派の人々は、断じてそれはならん、なぜなら彼らは罪人だからだ。彼らは地獄の刑罰を受けるべき忌まわしい人間で、我々とは違って、彼らは神様の前に一緒に食卓を囲むことはおろか、この場に立っている資格もない。今すぐ出て行け!という態度を取るわけです。
徴税人たちや、罪人と呼ばれていた人たちは、いつでもどこでも、四六時中、明確に差別をされていた人々でした。そして、人がこういう深い次元で、この人は罪人だと、この人は神の救いに与ることができないばかりか、神の前に立つことさえ許されない、という次元で差別を受けてしまうと、その人は、もうそれに抗う力も失って、何をやっても無駄だと考え、立ち直れなくなるのだと思います。徴税人たちは税金を割り増しして徴収して私腹を肥やしていたそうですけれども、こういうかたちで人々から背中を向けられたら、自暴自棄になってその犯罪的行為をもっと加速させてしまい、ますます抜け出せなくなるでしょう。また、こういうかたちでお前は罪人だと認定されてしまうならば、その人は生きる力と意味を失って、もう私はダメなのだと、亡霊のように下を向いて生きていくしかないと諦めてしまうでしょう。
ほとんどの人々は、自分は差別されていない。自分は大丈夫だと思っていると思いますが、いつ差別される側に回ってしまうやもしれない、予想だにしないようなことが起こらないとも限りません。特に今、新型コロナウィルス禍によって、コロナ差別という言葉も生まれています。また、そのことと時を同じくして、アメリカでの黒人差別の問題が表面化しています。かつては一億層平等社会などと言われたこの国ですが、しかし最近は格差という言葉が、もう当たり前の日常用語として使われるようになっていて、人と人との間にある色々な落差がよく見える社会となってしまっています。
もし今、コロナウィルスに感染したら、もちろんその病原菌そのものも怖いのですが、感染ということから引き起こされる自分の社会的立場の変化や人々の目の方が、もっと怖いというのが正直なところです。もし感染したら、今は親しくしているあの人も、この人も、自分から離れていくかもしれない。外に出られず、教会にも来ることができなくなる。とても上司に言えないし、部下にも示しがつかない。家族にも多大な迷惑をかけてしまう。教会の入り口にも、非接触型の瞬間体温計が置かれていますけれども、あれで体温を測るときのドキドキとする気持ちは、病そのものからくるドキドキと言うよりも、もし熱があったらここから締め出されるかもしれないという、その瞬間、一瞬で自分がOKな人間ではなくなるかもしれないという、大げさに言えばそれは、差別への恐れから来るドキドキなのかもしれません。
コロナは、差別を生み出すほんの一要素に過ぎません。実に私たちは、他にも色々な色眼鏡で人を区別し、人から区別され、時に差別の刃物で刺し刺され、それに悩み、それに囚われるがゆえに、本来的ではない変なところで一喜一憂したりしながら、実際には差別を恐れて、それをかいくぐるようにして、「自分はまともで、普通なはずだ、大丈夫だ」と言い聞かせながら、私たちは何とか頑張って、生きているのだと思います。
しかしその差別が、露骨に、ここで明るみに出た、その瞬間に、主イエスはそれを打ち消し、消し去る言葉を語ってくださったのです。4節から改めてお読みします。
「15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。15:5
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、15:6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。』と言うであろう。15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探さないだろうか。15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。』というであろう。15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
一匹の羊と、一枚の銀貨の間にある大切な共通点として言えることは、どちらも、自分では死に体で、どうにも、何にもできないということです。死に体とは相撲の用語で、つま先が上を向いて足の裏が返っている、あとは倒れるだけの、体が死んだ状態のことです。
羊は野生では生きていけない動物ですから、羊飼いのから迷い出たらその時点で、先程のアポルーミという言葉で表現されている通り、死んだも同然の状態なのです。銀貨も、さらに輪をかけてそうです。当時のパレスチナの窓をほとんど取らない、昼間でも薄暗い石造りの隙間とくぼみだらけの家で銀貨がなくなったら、簡単には見つかりません。銀貨は自分で動けませんので、ロストされたらもう終わりです。何もできません。
しかしながら、そこで持ち主のこの女性は、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す。そして、この羊飼いは、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る。それだけ熱心に、執念を込めて、銀貨の場合も羊の場合も、見つけるまで、見つけ出すまで探す。つまり、もういいやと諦めることは決してなく、その一匹を、その一枚を、瀕死の状態から、誰も見つけられない暗がりから、必ず、見つけ出すのです。見つからないという結末はありません。必ず、元居た羊の群れに、また銀貨は、一説によると十連銀貨のネックレスになっていたという解釈もありますので、銀貨もその元あった場所に帰る。悔い改めるという言葉にも、帰るという意味があります。死んでいた状態から、必ず見つけ出されて、元あった場所に帰る。失われたままでは、切り離されたままでは、死に体のままでは、放っておかれてはならないし、決して放ってはおかない。神様にとって、一人のあなたという存在は、それほど大切で重いということです。
存在という言葉を今使いましたが、本当にここで問題となっているのは、一人の存在のかけがえのなさ、ということです。差別が生まれる時、そこでは人を、ある基準をもって測って、OKか、セーフかアウトかに分けるわけですが、ここで問題とされているのは、アウトもセーフも関係のない、一人一人の存在そのものです。コロナにかかったって、道を外れていたって、普通じゃなくたって、そんなことは関係ない。神様は、たったの一人も、死なせたくない。諦めたくない。「ちょっと縁がなかったね」なんて言葉は、神様の口からは出ません。「自分が神に探されている」。「神があなたを見つけ出そうとしている」と知ったら、本当に身震いがするのではないでしょうか。
私がこれを知らなかった時には、神様と向き合う時の身震いにまだ目覚めることができず、神様から離れることに自由があると勘違いをしていました。しかし実際には神様から離れれば離れるほど、色々な差別や区別や背比べに心身をすり減らして、どんどんと不自由になり、生きづらくなり、くよくよと、色々な悩みに深くさいなまれました。しかし私の場合には、神様が、始めから私をクリスチャンの家庭に生まれさせ、幼児洗礼を施して、私をあらかじめしっかり掴んでくださっていましたから、そのおかげで、頑固で物分かりの悪い私ですけれども、なんとか、自分が神様から迷い出ていたこと、帰る場所があることを知ることができました。私の人生に起こった、命への大きな方向転換は、私自身が引き起こしたものではなく、それは神様が私に起こしてくださったことでした。
しかし、たとえ話は、なお終わりません。まだ大切な続きがあります。羊飼いは、羊を見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言う。さらに、女は、銀貨を見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言う。ここも両者に共通して、普通からすればちょっと異常な程の喜び方が描かれています。この異常な喜びようは何でしょうか?これは、とても一匹の羊や、一枚の銀貨の価値にそぐう喜びではありません。銀貨一枚は、今で言えばせいぜい一万円ぐらいです。それが見つかったからと言って、わざわざ友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うということは、普通はありえません。そう言うだろう。と言われていますが、誰もそんな愚かな、気の触れたようなことは言いません。しかし、神様は、これを全く躊躇なくする。そして、言ってくださるのです。「死んでいた一人が、今日見つかりました。死んでいた一人を、今日、捕まえました。死んでいた一人が、今日、悔い改めて、クリスチャンになりました。行方知らずになって神様から離れていた一人が、今日、主の食卓に、帰ってきました。わたしは今、本当に嬉しい。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。だからみんなで一緒に喜んでください。さあみんなで一緒に喜びましょう。」と。
神様が、こんなにも大きな喜びとしてくださるのが、この自分なのかと知る時、救われますし、他の一人一人のことも神様がその目で、その大切さで、その存在を見ておられることを知る時に、人を差別、区別することなどできなくなる。差別することの無意味さに気づくのです。
一緒に喜んでくださいと口にされた主イエスに、逆にファリサイ派の人々は不平を言いました。主イエスはこの後さらに、そのファリサイ派の人々をも救いに招く、放蕩息子のたとえを話されます。どれだけ主イエスの心は広く、その愛は深いのだろうと驚くしかありませんが、本当に、今朝は、一人が悔い改めてクリスチャンになるということが、そして現に、この場所にも今朝、これだけの人々が集められているのですが、これだけの人がこのクリスチャンの少ないこの国この町でも、皆さんが洗礼を受け、また、まだ洗礼に至っていない人もこれだけしっかり神様に見いだされて、教会に招かれて、この席に座っておられる。ここに対して、今、天の神様のもとで生じている尋常でない喜びを、今見上げて、私たちも一緒に、みんなで、喜びたいと思います。ですから今日はもう本当に喜ぶしかない。神様が今朝私たちを招いておられる所は、その大きな喜びです。