2020年10月18日 ルカによる福音書16章1~13節 「必死に生きる時に」
今朝の御言葉は、難しい説教しにくいテキストだと言われています。なぜなら、あれっ?いいのかなと、倫理的におかしいではないか、ということが書かれているからです。しかし、倫理的に、どうかという問いはあるにしても、これはたとえ話であり、たとえ話は基本的に一つのシンプルなメッセージを発信するものですので、これは決して難しくはない話なのだと思います。
主イエスは、15章から、今朝も連続してたとえ話を話されていますが、私たちは、主イエスがこれを、一体どういう状況で話されたのか、周りの人々はこの話をどういった形で聞いていたのかを、私たちはここで考えてみる必要があると思います。
当時は、テレビや映画はもちろんない時代です。さらには画用紙というものさえなく、字を書き記すためのパピルスや羊皮紙といった、布やなめした皮のようなものしかない時代です。ですから、絵は壁に書くしかなく、絵画というものが存在しない時代です。絵がないということは、言葉で伝えるしかない。言葉から絵面を想像するしかない。そういう時代の中で、主イエスが群衆を集め、たとえ話をたくさん話される。だからこそ群衆は、それに惹きつけられて、もっとその話を聞こう聞こうと願ってその周り取り巻いていく。
ですから、この当時に主イエスが話された話や、特にここで連続しているたとえ話というものは、絵画や映画のなかったこの時代において、人々を楽しませ惹きつける、こういう言い方が許されるならば、これは当時の第一級のエンターテイメントだったと言えます。その中で主イエスは、その巧みな話術と、話の突拍子もなさや、聞き手の予測を超えるような意外な展開によって、人々の想像力を掻き立てて、一度聴いたら忘れられない話として、聖書に書き記され、後世にまで語り継がれるような、印象深く、意味深いたとえ話の数々を残されたのです。
そして、その中で、今朝のたとえ話が語られました。弟子たちを中心する、その場にいた人々は聞き耳を立てました。主役は不正な会計管理人の男です。彼は元から不正にまみれた男で、出だしの一節にありますように、彼は主人の財産を無駄遣いしていました。
しかし、財産を無駄遣い、というこの言葉、これは先週の放蕩息子の譬えに出て来た言葉と同じ言葉です。弟息子が父親から遺産をふんだくって、「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。」、そこと同じ言葉が使われています。つまり、このたとえ話は、先週の放蕩息子のたとえ話とも、リンクしていると言えます。
先週読んだ本に、こんな言葉がありました。「現代の日本の青年は、生きる意味を見失っている。生きるということが分からない。生きる意味が分からない。しかも、それを観念的にではなくて、経験的にそれを求めているのです。だから、聖書研究会には来ないけれども、ワーク・キャンプなんかには出るのです。今の若い人たちに、どんなに「神様があなたのことを心配している。愛している」なんて言っても分からない。」
それは現代日本の青年に限らず、そのほかの大人にも、そしてさらに聖書のこの当時の時代の人々にも、同じく当てはまることです。観念だけの話では伝え切れない部分がある。そして、主イエスもそれをよくご存じだったのだろうと思うのです。だからこそ、放蕩息子のたとえのあとに、それと結びつけて、それの続編のような形で、もっと具体的な、実生活の経験の中で実感できるようなたとえを話された。もう本当に今朝の話は、聖書にも類を見ないぐらい、これ見よがしなぐらいに露骨で具体的なたとえ話です。
主人の財産を無駄遣いした男は、それによって主人から首を宣告されました。そこで彼は考えました。改めて3節からです。
「16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』」
不正な管理人は、自分ではなく主人に借りがある人たちの負債額を勝手に書き換えて、負債を免除減額し、その賄賂によって借りを売っておき、自分が会計担当の今の職を首になった後にも、その借りに免じて、援助してもらおう、助けてもらって、今後はそっちの方で、うまい汁を吸わせてもらおう、そう考えたのです。聖書の巻末に、今の時代の単位に換算したこの当時の度量衡が載っていますので、それを見れば分かることがですが、油百バトスとは、少なく見積もっても油2.3トンの量です。それを半分に負けてしまった。さらに小麦の単位に使われているコロスは、バトスの10倍を表す量ですので、小麦が百コロスとなると、少なくとも小麦23トンになります。当時の時代のひとつの街全体の消費量ぐらいゆうにあります。それを二割減免させてしまった。国家的規模での不正であり、犯罪です。
数週間前からこの御言葉を読む度に、どうしても頭に浮かんでしまう出来事があります。それは、ほんの数か月前、安倍政権末期に国会に提出された、黒川弘務検事長の定年延長と、検察庁法改正案の一件です。結局、全国的な反対運動が起きて、法案成立は阻止されて、黒川氏は賭けマージャンをきっかけに辞職しましたが、法案成立反対運動が起きたのは、安倍内閣が、今後の自分たちに有利に働くように、検察人事をコントロールできるようにしようとした、その目論見が有権者に明らかになったからです。そしてそこには、今朝のこの御言葉とも見事にシンクロする、同じ構造があります。
たとえ話だと言いながら、本当にこの御言葉は、私たちのリアル現実をえぐっています。権力者が自分を守るために、必死で、領収証、借用証どころか、法律さえも書き換えようとする。そういう残念な一部始終を、私たちは国家レベルで、ごく最近目にしてしまったわけですけれども、問題とされるのは、次の8節です。
「16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」
ここで、この日本語の翻訳を少し修正したいと思いますけれども、8節の初めの主人という言葉は、それ以前に使われていた金持ちという言葉とは明確に区別された、キュリオスという言葉です。キュリオスとは、主イエス・キリストと呼ぶ時の、主という言葉です。
ですから8節以降の言葉は、もうたとえ話のストーリーの中の話ではなくて、そのたとえ話からは外に出た、このたとえを話しておられる主イエスご自身の言葉として翻訳すべきです。そしてそのうえで主イエスは、この不正な管理人の抜け目のないやり方を、賢いと言って、ほめたのです。
もちろん、ここまで私たち丁寧に読んできましたので分かりますが、私たちのリアルな現実がこれに追いつき追い越してしまっているという問題がありますけれども、このエピソード自体は、あるメッセージを伝えるための、ある面、誇張されたたとえ話です。そして主イエスは、このたとえを語られながらも、犯罪や不正を奨励されているわけでは決してありません。管理人は、不正な管理人と呼ばれ、彼が操っていたものは自分の富でなく金持ちの主人からの富であり、彼が手にしようとしていたものは、不正にまみれた富だと、主イエスは、この御言葉の中ではっきりと言っておられます。
しかしながら、この不正な管理人の、不正にまみれた錬金術なのだけれども、その抜け目ないやり方と、賢さしたたかさ、それについては褒めるに値すると。さらに、10節から12節の言葉の中では、忠実という言葉さえもを、この不正な管理人のしたたかさに当てがってくださって、10節11節では、「16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」とまで言ってくださっているのです。主イエスはこのたとえによって、どのようなメッセージを私たちに受け取らせたいとお考えなのでしょうか?
主イエスは、不正な管理人を断罪されませんでした。けれども私たちはそうではありません。不正を犯した者には怒りを覚えますし、このようなどんなことをしてでも自分だけが生き残ろうとする自己保身を、醜いことだとあざ笑い、強く嫌悪します。しかし逆に主イエスが常々断罪され、また警告を発するのは、そういう風に自らを正しい場所に置く、自分は正しいと思って疑わない、律法学者やファリサイ派の人々に対してであって、当時、税金から自分の取り分を棒引きして不法を働いていた徴税人と呼ばれる人々や、職業や育ち、あるいは病気や障碍などを理由に差別され、礼拝への参加を許されていなかった罪人と呼ばれる人たちのことは、主イエスはかえって弁護され、彼らと食事を共にされ、主イエスは彼らを受け入れ、彼らと共に歩まれました。
聖書は、正しい者が救われるという救いを語りません。むしろ、正しくはあらず、断罪されてしかるべき者を、しかし滅びと死から引っ張り上げてくださる神が折られて、その神が、そういう人々をこそ救ってくださる、と語るのです。
本当に神様は、弟息子に財産のすべてを与えて、彼が望むままに送り出し、彼がそれを無駄遣いして帰ってきても、まだその息子が遠くにいるうちに、自分の方から息子を見つけて、嬉々として走り寄ってその首を抱き口づけする。断罪するなどとんでもない。深い愛でその息子のすべてを赦し受け入れてくださる。神は、まさに放蕩息子の父のような方です。
世の中の価値観に縛られない主イエスの眼差しは、どこまでも優しく、その愛は海よりも深く、大きく、寛大なのです。主イエスは、不正な管理人の自己中心的で不正な行動を、「良いものを持っている」と褒めてくださり、その深いユーモアと余裕で、「不正な管理人よ、この調子で行けばいいのだ」と言われる。「主人から解雇されて、このままじゃ生きていけないと、必死で食いぶちを探して、金の目当てをつけて、その後の命をつなごうとするのなら、どうぞその調子で、天国での永遠の命にまで食いつなげて、天国に至るまで、しっかりと生き残ってくれ」と。「いつ地上の生涯に終わりが来るとも分からないから、今のその勢いで、是非ともなりふり構わず、天国の命に至って欲しい」と。むしろ、主イエスは励ましてくださるわけです。
もう既に読み終えました、ルカによる福音書の10章の善いサマリア人のたとえの所で、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問への答えとして、有名な言葉ですが、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』という、旧約聖書からの御言葉が語られました。
永遠の命を得るためには、心を尽くして神を愛し、自分のように隣人を愛する必要があるということです。そしてそこには、「自分のように」という言葉が挿入されています。ですので、主イエスが今朝の御言葉で不正な管理人の心から、その自己愛、自己保身という部分を拾い上げて、これは使えると言って褒めてくださったように、神を愛し、人を愛するに至るためには、まず、自分への愛を知る必要がある。
今朝の8節でも主イエスが言われていますように、神を知らないこの世の子らは、ある部分で、神を知っている光の子らよりも、賢く、徹底して、自分を愛し、自分を守ることに長けていて、そのために、あざとく必死で生きています。そしてその時には、本当に具体的な話ですが、自分の人生をこの世で打ち立てるためには、実際正直な話、お金が必要になる。確かに、自分自身では力がなく、常に何事かに頼らなければ生きていけないのが私たち人間ですので、この世の子らが神を知らず、神に頼らないのであれば、必然的にこの世の中で、ある意味で神のごとき力をもっているお金に、富に頼らざるをえません。神を知らない者は、そうやって富を頼りにして自分のために生きるわけなのですけれども、主イエスはそこについては、一言、今朝の最後の13節で、こう言われました。「16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
よって、富を愛して自分の神とするか、本当の神様を神として愛するのか、どちらか一方であると。両方は取れず、人は二人の主人に同時に仕えることはできないと、主は言われます。主なる神が言われていることですから、それはこの通りの真実です。だから、結局主イエスが最後、仰ろうとしているのは、このたとえでも、迷い出た羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、父から離れた放蕩息子たちのたとえ話と同じく、帰ってこい!ということです。
「実際、あなたはお金を命綱にして、それで自分の命を守ろうとして必死に生きてきた。そのことを非難しない。そういう世の中なのだから。総理大臣でさえ正面切ってそういうことを目論むこの世の中で、あなたも、このコロナ危機にも苛まれながらも、なんとか必死で生き延びている。その一生懸命さを、わたしも認める。たとえ褒められた生き方でなかったとしても、必死で生きているあなたを認め、わたしはそれを素晴らしいと褒める。その生き方は、ある意味で、模範的でさえある。わたしにはそう見える。だから、どうか、そうやって一生懸命自分のために生きてきたその熱意を、これからは神と人に向けてみないか?その必死さで、神を愛し人を愛して生きてみないか?どうせなら、永遠の命の救いにつながる、全く新しい光の子としての、自分に光を集める生き方ではなく、あなたの光で人と神を照らす生き方をしてみないか?」と、今朝も主イエスは、あなたを招いておられるのです。