20201025日 ウェルカムサンデー  詩編46篇 「力を抜いて、恵みの中を生きる」

 

 安原さんが、御自分の半生を振り返ってくださった先程の証の最後に、詩編37編の2324節を読んでくださいました。

37:23 主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。37:24 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。

 

 安原さんが、実際にその人生を通して経験なさった、その意味で、安原さんの人生に成就した、聖書の御言葉です。

 私たちは皆、初めは、人生は、この言葉の逆だと思って生きてきました。私が、私自身の力をもって、自分の人生の一歩一歩を決断し、定めるべきだ。私は、自分の思いと願い、それに叶う道を、切り開いていくのだ。倒れても、打ち捨てられても、ピンチこそチャンスだ。勝利を、この手で、自身自身の手で掴み取るんだ!

 そう教えられて育ち、そう考えて行動し、頑張ってこれまで生きてきた。それが私たちです。力を抜いて生きる、というのが今朝のテーマですが、そんなことをしたら、一気に踏ん張りがきかなくなって、人生の行くべき道から転がり落ちてしまう。そう思ってやってきたのですけれども、安原さんは今、実はそうではないと言われました。そして聖書も、それは違うと言っています。

 

私ではなく、主なる神が、人の一歩一歩を定めてくださる。神様が、その御旨にかなう道を、私たちに備えてくださる。人は時に倒れます。本当に、安原さんが経験された、早すぎる御主人の死と、震災によって住まいを失うという経験は、痛みという言葉で軽々には表現できない、人生の恐ろしく暗い影でした。しかし、人が倒れても、打ち捨てられるのではない。私たちが倒れる時、それは、神様がその人を捨てたということでも、神様がその人に罰を与えたということでも全くない。反対に、私たちが倒れた時、倒れた日に、主なる神様が、私たちをとらえていてくださる。この手を、神様が、掴んで離さないでいてくださる。そしてこれが本当なのだ。これが人生の本当の姿なのだと、安原さんも、そして聖書もそれを語り、何よりも神様が、それを保証して下さっています。

 

 ですので、今朝皆様にお伝えしたいことは、安心してください、ということです。ここでは、神様の前では、安心してください。教会では、私たちは、しっかりと安心できます。新型コロナウィルス禍によって、そのウィルスに感染してしまうかもしれないという不安があります。コロナによる経済的な不安もあります。これからの将来のことについての不安も、もちろんそれぞれにあるでしょう。けれどもその不安の解消は、病院に行っても、いくらPCR検査を受けても、ずっと家に閉じこもって自粛していても、ワクチンができたとしても、解消されません、消えてなくなることはありません。不安はこれからもその数を増し、私たちの人生に付いて回る。コロナのことで、本当に来月来年の予定さえ、目の前の一歩一歩でさえ、自分の力で定める確定することができなくなりましたので、自分で決めて頑張る一歩一歩が、不安の解消につながるとは、もはや言うことができません。病院に行っても、ウィルスの検査はしてくれて、あなたは陰性ですよ、大丈夫ですよと言ってくれるかもしれませんけれども、病院でできるのはそこまでです。不安はどこで治すのか、不安はどこの誰が解消してくれるのか?自分の頑張りが不安を解消するのではないということになったら、ではどうしたらいいのか?神様です。

 人の一歩一歩とか、人生の道というものは、人が自分の力で見出して、決断して、定めていくものではなくて、それは神様が定めて、私たちに備えてくださることなのだと、今朝聖書は、私たちに向かってはっきりと言い切っています。

 

 今朝お読みさせていただいた、もう一つの詩編、詩編4611節の言葉に、こうあります。46:11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」 万軍の主はわたしたちと共にいます。」

 ただやみくもに力を捨てよと言われているのではありません。そこにはちゃんと根拠がある。それは、万軍の主が私たちと共におられるからだ。万軍の主とは、一万の軍勢にも勝る力をお持ちの神、という意味です。

 

 詩編46編の2節から4節にも、先程の安原さんが読んでくださった言葉と同じ意味の言葉が語られています。46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。46:3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。」

 少し話は飛びますが、私は9年前の東日本大震災に被災しました。仙台でその揺れを体験しました。安原さんも阪神淡路大震災の時のことを話してくださり、あの時も目を疑うような光景がこの場所を中心に広がりましたが。東北の地震の時にも、皆様も御存じのように、信じられない高さの津波が沸き起こり、高台の斜面を激しい力で津波が駆け上り、山を飲み込みました。3節に、「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも」という言葉があります。以前の私は、聖書の中のこういう言葉は、比喩的な表現だと、言葉のあやであり、誇張だと思って読んでいましたが、「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移る」という聖書のこの言葉は、本当でした。それは現実を指す言葉でした。聖書は、神話でも、たとえ話でも、作り話でもありません。これは本当の言葉です。「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも、神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」だから、この言葉も本当です。「わたしたちは決して恐れない。」

 この神様が、私たちの人生の一歩一歩を定めてくださり、道を備えてくださり、打ち捨てずに、この手を握っていてくださる、というのが、実のところ、本当の現実なのです。

 

 だからこそ、力を捨て、その神様の恵みの中を生きることができます。力を捨てよ、とは本当のことで、神様が力を入れて支えてくださるので、不自然に力を込める必要がないのです。そういう風にして、力を抜いて、安心して生きられる。自分一人の力ではなく、神様に支えていただいて、神様と共に二人三脚で生きるという生き方が、本当に、ここにはあります。

 神様を知るという事は、もう一人で孤独に生きなくてもよくなることです。その神様の存在を、自分の人生の傍らにお招きする時に、主が人の一歩一歩を定めてくださるのなら、本当にそのようにしてくださるのなら、それならと、やっと、初めて力を抜いて、生きられるようになる。

 

 イエス・キリストの本当の名前を皆様ご存じでしょうか?イエス・キリストがこの世に生まれられた時、そのイエスという名前は、天使がマリアの夫のヨセフの夢の中に現れて告げた名前でしたが、その時天使は、イエスという名前の他に、実はもう一つの、イエス・キリストの本質を表す名前をヨセフに伝えました。

天使は夢でヨセフにこう言いました。1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」インマヌエルという、イエス・キリストのもう一つの名前、その意味は、神は我々と共におられるという意味である。

神様は、ただ見えない、居るか居ないのか分からない、空気のような方ではありません。神様は、天国からただ私たちを見守っているだけでは我慢できずに、天国から身を乗り出して、具体的に私たちを助けるために、私たちと共にいることを実現させるために、イエス・キリストという、クリスマスに生まれられた神の御子によって、天からこの地上に降りたってくださった。この私たちの人生と、私たち皆のこの手を握るために、降りて来てくださったのです。神様は人格と意思をお持ちで、私たちを愛して、本当に、この私の人生の一歩一歩を、深い愛によって定め、その考え抜かれた御旨にかなう道を、私に備えてくださるのです。

だから、「力を捨てよ。知れ、わたしは神。苦難の時、必ずそこにいまして、助けてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」

この神は、イエス・キリストを通して、安原さんだけではない、あなたの人生にも、共にいてくださる神です。不安の中を生きる皆さん、神様によって、安心してください。