2020年11月1日 ルカによる福音書161418節 「誰の前に生きるのか」

 今朝の御言葉の最初の14節には、16:14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」とあります。この一部始終とは、どんな一部始終だったのか?それは、二週間前の話になりますけれども、主イエスが不正な管理人の譬えを語られたこと、さらにそのたとえ話の最後の13節で、「16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と語られた言葉に対して、ファリサイ派の人々はあざ笑いました。

 

 1節の、「金に執着する」という言葉は、英語の聖書では、loves money, lovers of moneyと訳されています。ファリサイ派の人々は、金を愛していました。本当かな、とちょっと思います。なぜなら、ファリサイ派の人々は、厳格熱心に律法を守り切ることを旨としていた、極めて宗教的な、信心深い人々の集まりだったからです。けれども、そんな彼らはことごとく、このルカによる福音書でも既に3回も言われていますが、他の福音書も合わせれば、ほぼ20回、彼らは主イエスによって「偽善者たちよ」といつも呼ばれていました。

 偽善者という言葉は、今朝の御言葉を読んでいくためにも大事な言葉になるのですが、それは役者という言葉であり、詐欺師たちという意味の言葉です。つまり彼らは本当に、役者になっていた。形だけになっていた。さも宗教家らしく、信心深そうに振る舞い行動していましたが、しかし実は、仮面をかぶっていた。その仮面の下は、money loversだった。金を愛する腹黒さを、偽善の仮面で隠す、詐欺師のごとき人々だったのです。

 

 そんな彼らにとっては、神と富とに仕えることはできない。などという言葉は、自分たちの信条からすれば正反対の、全く馬鹿らしい言葉だった。彼らはこう考えていました。つまり、神の律法に忠実であったら、必ずこの世の祝福と富を、人は得るのだと。神に従ったら、その分金持ちになるのは、祝福の表れなのであって、それは当然のことだ。だから彼らmoney loversたちは、金が欲しくて、金のために信じて、宗教家として偉くなろうと努力している。名誉名声を得るために。逆に、今貧しい人がいたとしたら、不幸に遭っている人がいたとしたら、病気の人がいたとしたら、それは、信心が足りないからだと、神に従う度合いが少ないからだと、だからその人たちは、神の裁きを受けて、罪人として神から見放されているから、貧乏なんだ、苦しんでいるんだと。恐ろしい話しですけれども、そういう論理です。だから、徴税人という、神様に従わず、聖書にかなう生活を行っていないにも関わらず、ファリサイ派の人々よりもお金を持っていて、そういう意味でのファリサイ派の人々が面の皮の下に隠していたがめつさを、それを前面に出しながら儲けていた彼らについては、ファリサイ派の人々にとっては、その徴税人たちというのは、それは断じて赦し難い、「汚ねえやり方でこの自分たちよりも儲けやがって、この野郎!」、というような心底憎たらしい存在だったわけです。

 

 そこで、15節から16節。16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」

 主イエスからの、ファリサイ派の人々に対する、真っ向からの否定が二つ言われています。一つは、その偽善者たちのスタイルです。あなたたちは人にいいところだけ見せて、正しい外面を人に誇って自慢し、見せびらかして、それでうまくいっていると、みんな自分のことをすごい宗教家だと、これで尊敬してくれていると思っているかもしれないが、神は、そんなあさましい、あなたたちの心の底まで、すべてお見通しであるということです。神を愛していると口では言うが、あなたは結局お金を愛している。違うか?ということです。

 もう一つの否定は、ファリサイ派の人々のその救いの理解です。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。」律法の厳守による、つまりルールを守り切って正しさと正当さを手に入れるということによる救いの時代は、洗礼者ヨハネまでで終わった。「今は、新しい時代、イエス・キリストによる神の国の福音の時代だ」と。「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。神の国の福音によっては、放蕩息子や、罪人、徴税人、自分から迷って群れから出て行く羊のような、到底正しくはあり得ない者が、しかし神様の福音によって招かれる。不正な管理人の、抜け目ないやり方も褒めてもらえる。もうあなた方が言い広めている、あなた方自身もそれで救われていると思っている救いは、古い。もう終わった。今、あなた方のそのやり方では、神の国は入れない。天国には入れない」と主イエスは仰っています。

 

 続く17節。16:17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」この意味は、しかしながら、律法による救いは終わって、福音の時代が来たのだけれども、それは律法がもう要らないという意味では決してない。それは無くならず、かえって正しい律法として、取り戻される、という意味です。

 その具体例が、次の18節に語られています。16:18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

 離婚について、旧約聖書の律法が扱っているのは、申命記の241節の言葉です。そこには、こういう風に書かれています。24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」これが律法の言葉なのですけれども、これは一点一画も消え失せないのですが、この永遠の御言葉を、人間の心が歪曲させてしまっていました。

 当時、離婚は日常茶飯事でした。離婚という方法に訴えることができたのは、男性だけでした。そして、旧約聖書の申命記に書かれている御言葉には、再婚のことには一言も記されてはおらず、その可能性への言及がないのですが、主イエスが、ファリサイ派の人々に向かって、「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯す」と、離縁して他の女を妻にする」と言われているように、この当時の男性が起こす離婚においては、再婚することが前提でした。つまりそこでは、ほとんど、見境いなく、妻の取り換えが行われていたということです。

24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」と聖書に書いてあるのをいいことに、男性は、ひどい場合には容姿が悪いとか、声が大すぎてうるさいとか、もっと美しい女性を他に見つけたとか、めちゃくちゃな理由によって離縁状を書いて離婚を突きつけ、他の女性に取り換えるという、そういうことがまかり通っていた。

申命記24章はそういうことをさせたいわけでは決してないのですが、明らかに人間の悪しき心が、律法の中に流れていた神様の心と愛を捻じ曲げて、裏切ってしまっている。

先週安原さんが読んでくださった詩編の御言葉、「神様が、人の一歩一歩を定めてくださり、その御旨にかなう道を、その神の心の中にある愛にかなう道を、神様が備えてくださる。」まさにこの言葉の通り、人生を導いてくださる神様が、愛のみ旨によって私たちのために与え備えてくださった相手ですので、愛し合って、添い遂げて欲しいというのが神様の心です。しかし人間の心から出る不純で自分勝手な動機が、その思いを無下にして、その御言葉を全く違う人間のための律法に、捻じ曲げてしまう。

 

主イエスは18節の言葉で、すべての離縁の正当性を否定されて、それは姦通につながると、第七戎に違反する姦淫の罪だと指摘されました。主イエスは、マタイによる福音書にある山上の説教で、すべての律法をすべての人の心の中にある問題として内面化されて、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」と、男性だけでなく女性も含めて、すべての人が姦淫の罪を犯していると、神はあなたたちのそのような心の中を、すべて存じだと言われたのです。

 

 ではどうすればいいのでしょうか?どうすれば神の国に入ることができるのでしょうか?自分では、入れない。自分の力で律法を守ることでは入れない。だから、神の国へと招くために来てくださった主イエス・キリストに、入れてもらうしかありません。

 

 先週、韓国語講座に来られている方々向けの聖書入門で、ヨハネによる福音書3章に出て来るニコデモの、主イエスとの出会いの御言葉を読みました。ニコデモも、今朝問題になっている人々と同じ、ファリサイ派に属する人でした。彼は、政治にかかわる議員であり、宗教的にも最大党派のファリサイ派に属しており、地位と名誉もあって、当然金持ちでした。ニコデモはその地位と富に加えて、永遠の命を得たいと言って主イエスのもとを訪ねてきたのですけれども、主イエスに、あなたはこのままじゃだめだと、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。

 新たに生まれるとは、一度死んで、自分の富も地位も全部藻屑のように捨てて、新しい人生を生き直すということです。どうやったらそんなことができるのか?そう問いかけるニコデモに、主イエスはそこで言われました。「私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 信じるという言葉が何度も出てきます。信じるという言葉は、信頼するという意味の言葉です。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。一度死んで生まれ変わるぐらいに、それだけ、自分の生も死も、そのすべての手綱を委ねることができるほどに、神がお与えになった御子の命があなたを生かすという救いに、信頼することができるか?ニコデモ問われたのと同じ、この信頼するということが、ファリサイ派の人々にも、そして今朝の私たちにも、深く問われているのです。

 

 結局、何を信頼するのか?富を信頼して、お金を愛するのか?しかし、神と富には仕えることができない。神に信頼できない、そのあなたの心を、神はご存じだ。だから神は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架にかけてくださいました。それは、神様を信頼できない私たちの罪を、偽善者である私たちの嘘を、人に尊ばれようとし、勝手に、わがままに御言葉を捻じ曲げて、姦淫の罪を犯し、神様からの愛をも裏切り、神様からも浮気を繰り返す、この私たちの罪を尻拭いするためです。

 

 天国に入るには、罪人の救いのために来られた、この主イエス・キリストの救いに与るためには、自分は正しいと思っているファリサイ派ではだめなのです。ニコデモではだめなのです。神はあなたたちの心をご存じである。この言葉は、一方では裁きの言葉として、私たちの心の中の罪をレントゲンのように炙り出しますが、この言葉は、もう一方では、恵みの言葉として、私たち皆が自分の罪を認めて主イエス・キリストのもとに行くための、入り口にもなります。

 私たちの心がレントゲンで照らされる時、富への執着があり、姦淫の罪があり、もう目も当てられない状態なのですが、同時にそこで見えてくるのは、そんな私たちの心を知っておられて、しかし敢えて、それを見つめてくださっている、神様の心です。その神様の心を覗き見る時、仰ぎ見る時、そこには、独り子をお与えになったほどに、私たちを愛し、信じる者に、滅びなく、永遠の命を与えようとしてくださっている神様の愛の真心が見えるのです。

 そして重要なことは、それを信じること。その神様の愛の心を信頼することです。それが富よりも、自分の弱さよりも、離婚、離縁、そういう、自分ではもはや取り返しのつかない事々よりも、その神様の愛が方が私の犯した過ち、罪よりも、大きく強いということ。自分の犯したすべての罪をも、きれいに赦し切ることのおできになるのが、この神様であり、いずれ自分が味わうことになる死よりも、もっと強い命で私を永遠の命に生まれ変わらせ、守ってくださるのが、この神様であると、本当にそこに信頼すること。その人生の軸のところで、自分の存在全部で、この足の裏まで、すべてで神様を信じ、この自分の全体で、全身を神様に委ねてこの方を信じること。それだけ深く神様を信頼すること。それが信仰です。昨日は宗教改革記念日でした。500年前の宗教改革で再発見されたこと、それは、人は実に、この信仰のみによって救われるということ。この救いのために、それ以外の何物も、必要とはされないということです。このあとの聖餐式で、神様と私たちが、信仰という固い絆によって、しっかりと結びつけられていることを確認したいと思います。