2020118日 ルカによる福音書161931節 「人生の結論」

 このところずっと、どう生きるのか、何を前にして生きるのか、どういう中で生きるのかという、生きるということがテーマの説教が続いていますが、今朝も同じく、聞き逃してしまうことの許されない、すべての人間のすべての人生に関わる事柄が、聖書から語られています。それは、人生の結論。人生は何で結論付けられるのか?私たちの人生は何で判断され、何で決まるのか?という問題です。

 それを教えてくださるために、主イエスは、先週の御言葉とのつながりの中で、今朝のこのたとえ話を話されました。ここには、地上でのこの人生を生きている間のことが最初に書かれてあり、その後、23節から場面が転換して、死後の世界のことが描かれています。そして、今朝のこの話はたとえ話であり、たとえ話とはある一つのメッセージを伝えるための話ですので、ここに書かれている細かなことから、天国や地獄についてのことを細目にわたってのことを描き出したり説明することよりも、このたとえ話が全体として提示しているメッセージを掴むという読み方が大切になってきます。

 そして、このたとえ話は、当時にこの地域に流布していた民間伝承をベースにしていると考えられています。確かに、こういう話は他にも、この日本にもあります。例えば、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という作品も、仏教の民話をベースに書かれた話ですが、同じようなストーリー展開だと思います。それは、殺人や強盗を犯して地獄に堕ちた男が、生きている間に一度だけ、小さな蜘蛛を踏み殺しかけたのを止めて、命を助けた。それを認めたお釈迦様が、彼を地獄から救い出してやろう、この糸を登ってくるがよいと、天国から一本の蜘蛛の糸を地獄に降ろしてくれた、そんな話です。 こういうような話が、今も昔もたくさんある中で、主イエスはそういう、誰もが知っているような話しの筋を用いながら、しかしそれを巧みにアレンジして、単なる民間伝承ではない、主イエスだけが語ることのできる別のメッセージを語ってくださっています。

 

 先週、金に執着するファリサイ派の人々、という言葉が出てきましたが、その言葉に対応しているような、19節の書き出しの文章です。16:19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」この金持ちは、高価な衣装をまとって、来る日も来る日も贅沢に遊びくらしていた。贅沢に、という言葉は、光り輝くという言葉です。そういう、誰しもがうらやむいわゆるセレブとして、きらびやかな毎日を送っていた。しかし、対照的に20節。16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」その金持ちの家の門の前に、本当にみじめに生きた人が、悲惨の極みというかたちで横たわっていた。彼には寝る家もなく、道端で寝起きして、病気になった結果としてできもの傷でその体はいっぱいになってしまい、投げ与えられる食べ物のくず、つまり食卓から堕ちるゴミで腹を満たしたいと願っていた。しかし彼は金持ちから無視され、人ではなく、路地に群がる犬しか彼を相手にせず、犬に憐れまれるようにして、犬たちの間で彼は死んでいきました。これは、たとえ話でありながらも、当時の社会の中に、町の裏通りを覗けば、そこに実際にあった光景であったはずです。昔も、そして今もそうです。

そして2223節。16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」やがて、貧しい人が死に、金持ちにも、同じように死がやってきます。金持ちよりも早く死んで、短命に終わっているとみられる貧しい人は、聖書にはただ死んだとされていますが、そのあと死んだ金持ちは、死んで葬られたとあります。きっと、盛大で立派な葬儀が、この金持ちに対して話されたのだろうと考えられます。そして葬られたということですので、路上の犬に囲まれて息絶えたラザロと違って、金持ちには立派な墓がちゃんとあったのだろうと予想できます。けれども、しかし死ののちには、貧しい人と金持ちとの間で、全くの大逆転が起こります。

貧しい人は、死んで、そのあと、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。ずっと、前々から14章からすでに語られている天国での祝宴がここでも語られて、貧しい人は、天使によってその宴席に招かれた。しかもその人は、アブラハムのすぐそばに招かれた。アブラハムのすぐそばに、という言葉が、12節にも13節にも、繰り返して語られていますが、このすぐそばに、という言葉は、懐に、深い胸の内側に、心温まる場所に、という意味の言葉です。

アブラハム、これは聖書の中の超ビックネームです。最初の信仰者であり、すべての信仰者の信仰の父、父祖であり、これ以上の人物はいません。そのアブラハムが天の宴会で鎮座している、その最高の上席に、この貧しい人は招かれて、このアブラハムの懐に包み込まれるようにしてそこに座す。これは、いわば、天国で人間が達しうる最上位であり、最高の状態です。そういうアブラハムに匹敵する価値が、幸いが、金持ちが身に付けていた豪華な装いとは全く比較にならない、天国の、神の輝きが、この貧しい人を丸ごと包んだということです。

 かたや金持ちは、陰府でさいなまれながら、その遠く隔たった天国の宴席を、はるかかなたに見上げるのみだった。

 

 まず、ここの部分までのところからはっきりと語ることのできることは、ちょうど私は今、神学校でも終末論を講義しながら、世界の終わりのこと、また死後の状態のことなどを教えているのですが、聖書が語る確かな真理として、私たちが死を迎える時、そこでは皆が神様による裁きを受ける。裁きとはジャッジメントということですから、神様によってこの人生を私たちは判定されます。そして、その厳粛な裁きによって、死後の状態を、私たちは神様によって定められ、私たちは皆、その神様の判断に服することになる。死後に天国か、それ以外の所に行くのか、陰府にくだるのか、そういうことは私たちが自由に選べるものではない。

さらに死後、私たちのこの人格や意思、心というものは、消えてなくなるものではないということも言えます。死んだら、バッテリーがすべて切れるようにして、コンセントを抜かれるようにして、すべてが無に帰して、真っ暗になり何も感じなくなり、私という存在も消えて無くなるのかというと、そうではありません。それは残り続ける。聖書が語り、またウェストミンスター大教理問答も「終わりの日には、正しい者も正しくない者も同様に、一般的な死人の復活がある」と語っていますように、死は電源オフということではなくて、信仰者も、不信仰者も、死ののちに復活し、天で生きるか、あるいは、この金持ちのように、命の源である神様から、はるか彼方に離れたところでさいなまれ続けるのか、ということになる。そして、私たちは、死後になってからその状態を変更したり変えることは、もはやできないのです。そういう意味で、引き返せない、やり直しの効かない、人生の終局的な結論がどうなるのかという判断が、死をもって、決定的に起こる。これは、死後のことを知りえない私たち人間に、これは神様が、聖書を通して教えてくださっている厳粛な事実です。

 

ですから、ここで、問われざるを得ない、考えざるを得ないのです。何が、死後の状態という私たちの人生の最終的な結論を分けるのか、ということを。金持ちと貧しい人との間のすさまじい逆転がここには起こるのですけれども、この逆転は、何ゆえに起こるのか?ということです。

 苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、なのでしょうか?今も昔もあるようなお決まりの童話ならそうなのかもしれませんが、主イエスはそれを伝えようとしてこれを語られたのではありません。そしてこれはもちろん、芥川の蜘蛛の糸とも違う。蜘蛛の命を助けるような善行が、天国への救いの糸をもたらすのでもありません。

 そして、ここでやはり手掛かりになるのは、ひと繋がりになっている先週の御言葉です。先週の1615節で、主イエスはこう言われました。16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」

 主イエスは金に執着する、マネーラバーズになっていたファリサイ派の人々に向かって、人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われると、言われました。ファリサイ派の人々は自分の正しさ、立派さを人に見せびらかす。人々からそれは尊ばれる。立派な葬儀をし、立派な墓に入る。しかしそれは、神には忌み嫌われるものだ。人はそれを、立派な人生、正しい人生だと言って尊ぶだろうが、人の判断と神の判断は違う。神はあなたたちの心をご存じである。人から一目置かれて、人に尊ばれる人生は、それはいい人生に違いないと自他共に考えてしまう私たちですけれども、実はそれは危うい。それでは、それだけでは、天国に行けないのです。

 そして、アブラハムの懐にいるのは、ラザロです。金持ちではなく、ラザロが天国に行ける。ラザロの人生を、神は尊ばれる。なぜでしょうか?なぜラザロなのでしょうか?ここで、神様の前に露になる、ラザロの心の中を知るための唯一の手掛かりに目を留めたいと思います。それは、この貧しい人ラザロの、ラザロという名前です。主イエスがたとえ話の中の登場人物に、名前を付けて話しておられるのは、このラザロに対してだけです。ですので、主イエスがこの貧しい人を、ラザロという名前で呼んでいるということの中に、この貧しい人の生涯を通じてここで示したい特別なメッセージが込められていると考えることができます。

 ラザロという名前、それは旧約聖書のモーセの子どもの一人であるエリエゼルという、神は私を助けてくださるという、名前から派生している名前です。名は体を為すものですから、つまり、ラザロの心には、神は私を助けてくださるという思いがあり、信仰があり、ラザロはそう言う人としての人生を生きたということが、名前によって示されているのです。そして神が尊ばれるのは、このラザロの人生だということです。

 人から見れば最低の人生を生きたどん底の人間が、神から見れば、最高の、アブラハムの懐に位置する尊ばれるべき人間である。主イエスが語り伝えておられるのは、この、神と人との見方の違いです。本当に人にとって大事なのは、ラザロの心だと、神が私を助けてくださるという、神の助けを請い願う、神を求める心であると。今朝は、もうその一点です。

 もう、人生に正しい人生か、間違った人生か、などという区別はない。神様はそこで分けない、それによってジャッジしない。長生きか短命か。優秀で明るいか、暗くて地味か。金持ちか貧しいか。健康かそうでないか。恵まれた環境だったか、厳しい中を歩んだか。多くの人に囲まれていたのか、孤独に苦しんだか。人から尊敬されたのか、人望があったか。そういうことは、人生の結論において決定的なことではない。そういうことで、人生が諮られ判断されるということではないのです。

 

 陰府に落とされて、金持ちは、初めてそのことに気づいて、その事実を、何とか自分の5人の兄弟に伝えたいと願いました。27節から最後の31節までを改めてお読みします。

16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 金持ちに対して、アブラハムが答えています。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちを、ファリサイ派の人々に当てはめて考えるならば、彼らは十分に、ラザロの名前の由来を知るモーセについて、預言者について、旧約聖書についてよく学び、旧約聖書を既に良く知っているはずで、そこには、ここで受け答えをしているアブラハム自信を筆頭として、神が助けてくださる、神はわが助けであるということを証しする生き方が、既に聖書にしっかりと示されている。だからわざわざラザロが地上に帰って伝えに行かなくても、その必要には当たらない。そして仮にもし百歩譲って、ラザロが死んだ者の中からよみがえって、兄弟のところに行って、神の裁きと人生の結論を伝えに行ったとしても、金持ちの兄弟たちは、その言うことを聞き入れはしないだろうと、アブラハムに主イエスは答えさせています。

 本当にその通りだと思います。もし死人ラザロが本当に生き返るようなことが、例えば今日の正午に、そのことが大阪駅前で起こって、その人がいくら「私は天国のアブラハムの懐から戻ってきて、皆さんに、人生の結論について伝えに来ました」と言っても、誰もが気違いだと、見なして、誰もその人の言うことを信じず、相手にしないだろうと思います。

 ラザロ、神が助けてくださるということは、助けられなければ生きていけないという自分の弱さを認めて神の助けを仰ぐことですから、これは力で上からねじ伏せて無理やり説得納得させるような種類のことではなく、人々が我先にと殺到するような、儲かる話しでもありません。その点、当時も今も、全く同じです。

 

 しかし、「たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と、主イエスはこのたとえ話で語られながらも、けれどもこの方は、御自分で実際にそれを実行してくださいました。ラザロに代わって、本当に主イエスはご自分で死から復活してくださって、復活した姿で弟子たちの前に立ち、このルカによる福音書の終わりで、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」と、つまり「モーセと預言者が語っていること、あなた方が手に持っている旧約聖書に書いてあることは、必ずすべて実現する。神があなたを救い助けるということは、本当のことだから、私のように、十字架に架かって死んでも、再び永遠の命の救いに神様が与らせてくださるのは絶対に本当で、天国でアブラハムと一緒に過ごせるということも嘘ではないから、必ずすべて、聖書の約束は実現するから、信じていい。」と、ラザロに代わって、本当に主イエスは伝えてくださったのです。

 

 そしてその主イエスは今朝も、このご自身の体なる教会に、聖霊において宿り、開かれたこの聖書の言葉を通して、モーセと預言者による旧約聖書に加えて、主イエス自らの言葉を納めたこの新約聖書さえも用いて、私たちが聞くべき声を聞かせてくださっている。神はこの人生に触れて、この人生を、助けてくださる方なのだと、語ってくださっています。

 ラザロ、神は私を助けてくださる。このことを心に据えて、信じて歩む人生を、神様は必ず助け、最上の結論へと本当に招いてくださいます。