2020年11月15日 ルカによる福音書17章1~6節 「傷つけ合いを越えて」
今朝の御言葉の冒頭から、主イエス・キリストの肉声によって、「つまずきは避けられない。」という重い言葉が語られています。聖書の原文から訳しますと、「つまずきは必ず来るので避けることが不可能だ」という言葉です。
つまずきという言葉は、教会の中でよく語られる言葉ですし、聖書の中にも旧新約聖書に半数ずつ、合計で40回近くも出て来る言葉です。そしてこの言葉は、私たちそれぞれのこの心の傷口に、ひりひりと沁みる言葉でもあります。傷口に沁みるということは、つまずき、つまずかれたことによる傷が、古傷であれ、まだ新しい傷であれ、それぞれの心にあるということを意味し、その傷が、完全には塞がっていない、傷が癒えていないということを意味します。しかしその上、それに上乗せするようにして主イエスも、「つまずきは必ず来るので避けることが不可能だ」と断定されておりますので、このつまずきの問題は、これから先も、無くなることなく私たちについてまわり、このことによって私たちが悩まされ、苦しみ続けることは、もう確定です。私たち皆にとって、つまずかないという道は、残念ながらありません。
イザヤ書と、ローマの信徒への手紙と、ペトロの手紙一に、合計して4回、「つまづきの石」という言葉が出てきます。これが、つまずきとは何かということを、端的に表しています。それは、道をふさぐ大きな障害物ということです。つまずくという言葉だけ取ると、けつまずいたとか、それで小指をぶつけたとか、それもそれで痛いですけれども、まあ大したことではない。つまずくというのは一般的にはそういうイメージの言葉ですけれども、しかし聖書に語られているつまずきは、致命傷です。つまずきの石と言われる時のその石とは、小石ではなく、岩のような巨大な石のことです。そのつまずきの石があることで、道をまっすぐに進めなくなるような石。それによって道から転げ落ちたり、道から逸れて大きく迂回しなければならなくなったり、これ以上道を前に進めず立ち往生することを余儀なくされるような石がつまずきの石であり、そういう深刻な事態がつまずきによって持たらされてしまいます。
そしてこの場合の道とは、人生という道であると同時に、何よりも信仰の道、信仰者として神様の前に生きる道のことです。そこにつまずきが避けられない。ですので、実のところ、信仰者として歩む道は、真っすぐストレートの最短距離で進んでいく道ではないということです。『失敗マン』という歌があって、そこには、「悔いのない生き方は、後悔の繰り返し」という歌詞があるのですけれども、本当にそのように、主イエスが十字架に付けられようとしていた大事な場面で、主イエスを三度知らないと言った弟子のペトロ然り、元はと言えばキリスト教に対する大迫害者であり、最悪の人物であった使徒パウロも然り、後悔だらけの、遠回りの、失敗とつまずきだらけの実際の生き方なのですけれども、しかしそこに悔いなし、そこに救いありとするのが、実のところの信仰者の王道であると、そう言えるには言えるわけです。
けれども主イエスはそれに続けて、「だが、つまずきをもたらす者は不幸である」とも言われました。不幸というこの言葉には、前にも出て来た、ウーアイという、そのままで悲痛な叫びを表すような言葉です。邪魔に入られて道をふさがれてしまう、つまずかされる人も不幸だが、それを引き起こす障害物になる人も、同様に不幸である。
さらに主イエスは、2節で、「17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」とまで、言われました。大阪弁のひどい悪態のつき方に、「おんどれ、大阪湾に沈めたろかワレ」というのがありますが、主イエスが2節で口にしておられる言葉は、それに輪をかけてさらに上をいくフレーズです。そして、なぜ主イエスがここでここまで言うのかというと、それは、それだけ、その小さい者の一人のことが大切だからです。
小さい者の一人という言葉には、ミクロンという微細な小ささという言葉が使われています。そしてこのミクロンという言葉が意味しているのは、サイズの小ささだけでなく、力の弱さ、クオリティーの低さ、年齢の幼さという、様々な意味での小ささです。つまりそれは、私たちが、文字通り小さく見ていて、あまり大切とは思えない人のことを指すのです。利益や、生産的なものを生み出すようなことができず、かえってその逆に迷惑ばかりかけるような人、あるいはつまずきの原因になるような、問題を抱えている人、それは、この当時、罪人と皆から後ろ指を指されていたような人々のことなのです。しかしその小さな一人が、つまずかせられてしまうなら、それを引き起こす者は、それをするぐらいなら、首に石臼をかけられて海に沈められるほうがまだましだ。何なのでしょう?この出口のなさは。つまずきは避けられないのに、つまずいた人もつまずかせた人も、ちゃんと道を歩めないことになる。
思えば、この17章に至るまでのところで、主イエスは、一匹のはぐれた羊のたとえを語られ、無くした一枚の銀貨のたとえを語られ、放蕩息子のたとえを語られました。そこで言われていたことは、はぐれて、道を外れた小さな一匹の羊や、銀貨や、放蕩息子は、失われていて、死んだも同然の失われた状態だったということでした。
そして、そこに与えられる一筋の希望は、神様の助けでした。羊飼いが小さな一匹を見つけ出してくれる。銀貨が見いだされる。放蕩息子が父親に赦されて迎え入れられる。
3節の出だしに、「あなたがたも気をつけなさい」とあります。この言葉は、直訳すると、自分自身のこととして考えなさい、という意味の言葉です。
人は皆罪人同士、もしクリスチャンであると言っても、それは聖人君主であることを全く意味しません。信仰者は罪がなくなり、罪を犯さなくなった人ではなくて、罪赦された人ですので、持っている罪を、ただそれを赦されているだけですので、皆れっきとした罪人です。そういう罪人同士が集まり集うのがこの教会ですから、みんな根本的には罪のエゴイズムに駆られていますから、そういう罪人同士が集まり触れ合うなら、お互いが近づけば近づくほど、教会でもそのほかの場所でも、必然的に、避けられないこととして、お互いの刃でお互いを傷つけ合う、ということになってしまいます。つまずきは避けられませんし、そこではどうしても小さい人、弱い人ほど深く傷つけられるでしょう。でもその時相手を傷つけている側も、つまずかせることによって罪に引きずられ、道から外れて、首に石臼状態になってしまうのです。自分の周りで、先週も、毎日これは引き起こされている事態です。
だから主イエスは仰るのです。もうこれは本当に、他人事ではなく、あなた自身の、自分自身のこととして考えなさい。もうこれは、羊飼いや羊がどうのどうのこうのという、主イエスの説話の話ではなくて、あなたのその現実の問題だと。あなたのその存在と、あなたが持っているその言葉の刃で、あなたにとってみればそれは、あなたが自分を守るために言い放った、正当な言葉であるかもしれないけれども、しかしあなたのその言葉によって、傷ついて、つまずき倒れている人がいる。あるいは、あなたをつまずかせたことによって、首に石臼状態になってしまっている人が、今、あなたの目の前に、一人や二人のレベルでは収まらないかもしれないぐらいに、実際にたくさんいるのです。この事実を見なさい。あなた自身の差し迫った問題として、これを考えなさい、ということです。
ではどうしたらいいのか?主イエスはもっと具体的に、語ってくださいます。3節途中から、4節です。「17:3 もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
まず、戒めなさい、と命令形で言われていますが、それは、赦しなさい、という二つめの命令へとつながる言葉です。そして結論としてこの3節4節の文章が最終的に訴えていることは、赦しなさい、ということです。4節を見れば、戒めることと、赦すことのどちらが大切にされているかが一目瞭然で分かります。一日に七回罪を犯しても、七回悔い改めますと言ってくるなら、赦してやりなさい。一日七回、大体二時間おきに、七回連続して、一日中罪を犯す、一日中、言葉や行動の刃を向けて来る、自分を絶えず傷つけてくる相手がいるならば、二時間前にその赦したその相手をまた赦せ、二時間後にもまた赦せ。つまり無限に赦し続けなさい。
この部分の御言葉について、山中雄一郎先生の解説には、赦す思いを備えつつ忠告する、と書いてありました。実際にガラテヤの信徒への手紙6章1節には、こういう言葉があります。「6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。」
つまり、最初から柔和な、柔らかい心で、最初から赦す思いで、赦しを前提にして忠告するということです。実際にただ相手を責めるだけの忠告は、何の効果も発揮しないどころか逆効果です。ガラテヤ書も語るように、柔和な心で接しなければ、相手を正しい道に立ち返らせることは不可能です。
でも本当にこれは難しい。これは人間離れした業だと言わなければならないぐらいに、難しい。だからこそなのだと思います。そこで弟子たちの間から、続く5節の言葉が、出て来たのです。5節「17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言った」
つまずきが避けられず、罪人同士の私たちは互いにどうしても傷付け合ってしまう。なのに、相手に対して、うまく、柔和に忠告し、その相手を赦し受け入れて、正しい道に導くなど、今の私たちには到底できない。だからそれができるようになるために、主イエスよ、信仰の量をもっと増し加えてくださいと弟子は頼みました。
しかし主イエスは6節で、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と、量ではない。ドーピングをして筋肉増強剤を注入するようなことは、解決にはならない。ただ、からし種一粒ほどの、小指の先ほどの信仰が、しかし、本物の信仰がそこにあれば、桑の木が抜け出して海に根を下ろすような、ありえないことが起こる。つまり、奇跡が起こると言われました。
ここに、先週のたとえ話に出て来た、ラザロという名前との繋がりが見えます。すなわちその名は、神はわが助け、という名前だった。この神の助けなしに私が生きる時には、私が人を赦し、さらに際限なく赦し続けるなど、決してできるものではありません。がしかし、ラザロ、神はわが助け、神に助けられて、神の力で生きようとする時、起こりえないことが起こる。
人から刃物を向けられたら、ゾクッとしますが、それと同じようなことを、言葉の刃物を向け合うようなことを、私たちは、どこでもかしこでも、ずっとみんなでやっています。主イエスが、「口から出て来るものは、心から出て来るもので、これこそ人を汚す」とはよく言ったもので、結局人は現実でも仮想現実のネットでも、言葉を使って人と関わっているのですが、極端に言えば、何を言っても、何を書いても、この口から出て来る言葉は、心の中に巣くっている悪臭に満ちた罪を反映してしまう。そういう人間が近づけば、すれ違えば、人に向けている刃でいつも傷つけ合ってしまう。他の人種を、他の国を、他の政党支持者を、全力で攻撃することによって生きるということをしてしまう。今朝のつまずきという言葉はスキャンダルという言葉の語源でもあるのですが、それこそスキャンダルを犯してつまずいた芸能人や、そういう他人を、皆で言葉の刃を使って社会的に袋叩きにする。本当にみんなで、ナイフを人に向けて、次に叩く相手をみんなで探しているような状態です。昔はここまで酷くはなかったと信じたいですが、そうでもなかった、たいてい同じだったのかもしれません。この話題を主イエスが扱われるということ自体、聖書の時代から人が変わっていないということです。
しかし、ラザロ、神はわが助け、と思って、神様に助けを求めながらそういう、傷つけ合い世の中を生きる人々には、本当に神様の助けが与えられ、奇跡が起こります。人が、言葉の刃物ではなく、赦しを、互いに相手に差し出し合いながら、繰り返し相手を赦し合って生きていくという奇跡が、神の助けで起こる。そしてその奇跡が起こる現場こそ、この教会です。この教会が、罪人の集まりでありながらも、ここで100年間も続いているということは、桑の木が海に根を張るどころか、石臼をつけて沈められた人が、海の水をモーセのようにかち割って、石臼を救いの冠に変えて陸に上がってくるような、まさにありえない奇跡です。しかしこういう奇跡が本当に起こってしまうのが、この神様がいらっしゃって、私たちを助けてくださり、この私たちを新しい者に変えてくださる、この教会という場所なのです。
私たちは罪人ですけれども、お互いを通して赦しを知っている、そして何よりも私たち皆のために十字架に架かってくださった主イエス・キリストという救い主によって、罪を赦していただいた、赦し赦されることを体験した罪人たちです。これを体験して、この主イエスの救いを得ている私たちなのですから、どうせ生きるなら、一度しかないこの人生、この時間を、この高度な、難しい、でもそれで人を生かし赦し、主イエスの十字架の道に繋げられる、傷つけ合いを越えた生き方に使いたい。どうせやるなら、こっちにチャレンジしたい。
何よりも、御自分の命を懸けて、小さな私たち一人一人を見つけ出し、取り戻し、愛してくださった主イエス・キリストがここにはおられます。このキリストの愛によって、打ち貫かれたい。そしてその愛に突き動かされて、つまずき、離れ、倒れているあの人この人を、赦し、迎え入れ、愛したいと思います。
今日、半年前には名前も知らなかった、何の縁もゆかりもなかった内田姉妹が、血縁の家族よりも強い絆を持つ家族として、赦しを向け合い差し出し合う相手として、愛する家族に、兄弟姉妹の一人として、加えられました。ようこそ、愛の交わりである私たちの教会へ。もちろん色々な罪や弱さ足りなさはたくさん目につきますけれども、しかし、それを神の助けで乗り越えて、互いに赦し合い、共に愛し合う。一朝一夕にはそれができなくても、百年かけてそれをやってきた。そして、小さくて大事なそのことに、もう百年かけて毎週、たゆまず取り組んでいく、この私たちの教会へ、ようこそ。