20201122日 ルカによる福音書17710節 「教会」

 食欲の秋です。私は、自分で思っている以上に、食いしん坊なのだと、最近もつくづく思います。おいしい御飯があると嬉しくて、後先考えず食べてしまいます。単純に、食べることはいいことですし、嬉しいことだからです。色々と説教などで、人生について語り、何が人間の本当の幸福なのかだろうか、などと難しい顔をして語りつつも、結局私は、ケーキひとつで幸せな顔になってしまいます。食べ物を食べるということは、これは私たちにとって、ガソリンを給油するような無味乾燥なことではなくて、それはとても単純に、嬉しいこと。幸せなことだからです。

 そして主イエスは、ヨハネによる福音書で、御自分が大好きな食べ物を紹介してくださっています。それは、ヨハネによる福音書434節の主イエスの言葉です。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業をなし遂げることである。」

 主イエスは、ここで何か難しく、高尚なことを語られたのでは決してなくて、単純に、楽しげに、おいしい食べ物を食べた時と同じように、嬉しい表情を顔に浮かべられながら、「わたしをお遣わしになった神様の御心を行うことは、御飯を食べることのように嬉しいことなのだ、それは幸せなことなのだ。これが私にとっての、何よりのおいしい食べ物なのだよ」と、この言葉を語られたのではないかと思います。

 

 「神様の御心を行う」と言うと、それは厳格な、難しいことを遂行するというイメージで捉えてしまいがちですし、そこに激しい戦いが生じることももちろんあるのですけれども、しかし主イエスが根本的に捉えておられる、「神の御心を行う」ということとは、それは悲壮感からする苦行ではなくて、美味しいご馳走に舌鼓を打つことです。

 食べ物は、実際に自分の血となり肉となります。神様の御心を行うことも、食べ物に勝って自分を養い、育て、そればかりか救いの完成にまで至らせてくれる良きものです。御心を行う、神様のために生きるということは、何かを費やしてしまって疲れたり、何かを失ったりすることなのではなくて、むしろその逆です。それはたくさん食べさせてもらうこと。たくさん食べて、おいしく食べて、嬉しくなって、益々元気になる。御心を追い求めて、そのために用いられ、生かされて歩むこととは、自分のために最も良い、安全で、栄養価の高い食べ物を、豊富に与えられて生きるということ。それは、おいしい、元気の源となっていく食べ物であり、楽しみと、嬉しさと共に受けとるご馳走なのです。

 

 そしてこの理解の中で、今朝の主イエスの御言葉を読みたいと思うのです。7節から9節です。17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。」

 これは、僕と主人の関係、僕とは奴隷という言葉ですから、当時の普通の一般的な日常生活の中の風景でありました、奴隷と主人の関係を語っている言葉です。当時は奴隷制度というものが、社会的な階層の違いや、戦勝国と敗戦国との間柄などに当てはめられて、それが日常生活の中で行われていました。そして当時の奴隷は、ただ単にひどい扱いを受けて虐げられていたということではなくて、奴隷たちの生活はきちんと生活を保障されていて、家庭を持つこともできて、教育も受けることができた。その中で、主人よりも奴隷の方が賢く、実際的な力を持っていたという例もたくさんありました。よって当時は主人と奴隷の間には、今でいう住みこみでの労使関係に似たかたちが成り立っていた、そういう社会でした。

 そして奴隷は、主人に雇われ養われている身でしたから、畑仕事をし終えて帰ってきたたからと言って、それは、ただ当然のことをしたままで、そうやって主人の仕えて働くことで、奴隷は暮らしを支えられ、その身を守られ保護されるわけですから、何かそのことで、ものすごく褒められたり、特別な賞賛や扱いを受けるという必要は何もないわけです。主人もそんな特別扱いをしませんし、奴隷もそれを特別求めたりするわけでもなく、それでいて、それが普通で、何もそこに問題はありません。

 

 そして主イエスは、その僕と主人の関係を、私たちと神様との関係に置き換えて、次の10節を語られます。17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 自分に神様が命じられたこと、それは、先程ヨハネ福音書から引用した主イエスの言葉にもあったように、私たちのことを知り、それぞれに固有の命令、使命を与えてくださっている神様の御心を行い、その業をなし遂げることです。それを主イエスは、私の食べ物だと言われました。それで自分が、うまみを知り、嬉しくなり、栄養を得て、満たされ養われるのだと。だからこそ、それは主イエスがこのルカによる福音書1710節でも言われた言葉と重なってきます。つまり、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と。そこで、特別褒められることを求めたり、それが特権となって、その行為によって特別な優遇や待遇を受けたり、神様が自分に与えてくださった御心を為すことで、それを鼻にかけたり、そこから、さらに特別な何かを要求したりはできないはずだし、そういう風にする必要も全くない、と主イエスは言われました。

 

 今朝の説教題を「教会」と付けましたが、この今朝の御言葉は、特に教会に属する私たちに対して語られている言葉です。17章の1節には、「イエスは弟子たちに言われた」とあり、5節には、具体的な教会の役職名である「使徒たちが」という言葉が出てきています。さらに今朝の10節でも「主の僕としてのあなたがたは」、という言い方をされていますので、今朝のこの御言葉は、既に主イエス・キリストのことを主と仰いでいて、既にその救いを知り、とりわけキリスト教会を通じて神様に仕え歩んでいる、教会に集う私たちに対して語られている、極めて教会的な雰囲気の中で御言葉なのです。

 教会とはどういう所なのでしょうか?一言で言えば、教会とは、そこに主イエス・キリストの十字架が掲げられているゆえに、安心できるところです。今朝の御言葉とのつながりの中にある先週の御言葉では、主イエスは、「一日に七回兄弟があなたに対して罪を犯しても、七回、赦してやりなさい。」と言われました。その言葉を聞くやいなや、そんなに赦せません。そんなの無理です。だから信仰を増してください。信仰を強くしてください。何度でも罪を赦すことのできる強い信仰を下さいと願った、使徒たち、つまり教会のリーダーたちに対して、主イエスは、強い信仰、大きな信仰は必要ない。からし種一粒ほどの信仰があれば、それができると言われました。

 普段、お互いに傷つけ合い、粗があったら批判し合う、そういう社会であり、その社会を実質的に作りあげてしまっているのが、この私たちであるわけなのですが、しかし、もう私たちは違うのです。

 かつてご一緒に読んだ、エフェソの信徒への手紙には、「あなた方はキリストについて知り、聞き、キリストに結ばれているのですから、以前のような生き方と古い人を脱ぎ捨てて、心の底から新たにされて、神にかたどってつくられた新しい人を身に付けて、新しい生き方をしなさい」と、語られていました。それは、エフェソの信徒への手紙の四章に語られている言葉ですが、そこには、新しい生き方をせよという言葉に続いて、こう語られていますので、是非、耳をそばだててお聞きください。そこにはこうあります。あなた方はもう、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままではいけません。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい。」とあります。

 本当にその通り。もう私たちは、古い生き方を捨てたのです。ここは、教会は、そういう場所です。一日に七回どころか、毎分毎秒、神がキリストによって私たちを何万回も赦してくださっています。だから、それを知っていて、私たちはその赦しに与っていると信じていますので、ここでは赦し合うのです。

 人を赦すのに、強く大きな信仰は必要ない。からし種一粒、小指の先ほどの信仰があれば、それはできる。この主イエスの言葉は、最小限の、極小の信仰しか持たない私たちへの励ましです。主イエスは見えないほど小さい信仰を、私たちの中に見出してくださって、無理に強くならなくても、それで実は大丈夫なのだと、それでもやれるのだと。強さや強い信念が必要なのではなくて、むしろ、神はわが助け。あなたが自分の弱さを知っていて、神様に助けてもらわなければ自分は何もなしえないと、神様に一縷の望みをかけている。その見えないぐらいの細く小さな信仰を、神様は拾い上げてくださり、そこに大きく強い神様の力で答えてくださる。そこには必ず神様が働いてくださり、そこでは必ず神様が助けてくださるので、奇跡が起きるのです。

 

 そんな小さな信仰しか持たない主の僕に、神様は心を注いでくださり、私が、私たちが、何をすべきなのかという、御心を命じてくださる。そうだ、あなた方は神に赦されたように、互いに赦し合えばいいのだ。神様に受けた愛で、愛し合えばいいのだと、御心にかなう道を示し、恵みの中を新しい生き方で生きていく道を与えてくださいます。

「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」それはそうです。しかしここで語られている恵みは、この抑制された言葉をはるかに超えています。

もし私たちが、みんなで協力して、励まし合って、本当にこの教会に神様から命じられたことをみな果たせたら、それはもう最高です。もうすました顔をして、「取るに足りない僕です」などとクールに決めている場合ではない。そういう教会がここに生まれたら、それは最高の喜びですし、それはどんなにおいしい秋の味覚をも超える、最高の一皿をみんなで食べるに値する幸せです。そういう思わず舌がとろけて、思わず皆が笑顔になって、元気がもりもり出て来る、喜びの一品が、ここには出される。今はコロナウィルス対策で、教会で食事ができませんけれども、本当にこんな今だからこそ、私たちは、神の御心を行い、その業を成し遂げるという極上の食べ物を、この教会という場所で、共に味わいたいと思います。

今年も、もう終盤を迎えてはいるのですけれども、私たちの教会の今年の教会標語は、「祝福の源になる」~祝福を与え合う教会~という標語です。それはまさに、今朝のルカ福音書にあります主イエスの言葉が指し示している教会の姿です。私たちは、コロナウィルス禍の大きな不安の渦の中に置かれていますけれども、しかし教会に来たら、教会の礼拝動画を見たら、その時には主イエス・キリストにある安全を知り、安心をしたい。神の御心をみんなで行う場所、みんなで赦し合い、祝福を与え合う、嬉しい場所。町のレストランでは決して出てこない、おいしい食べ物を神様からいただき、その食べ物でお互いに満たし合い、皆が、今日もここに来て良かったと、必ず何かの感動を神様から与えられ、お互いに差し出し合う場所が、この教会です。

 ですからここでは、何かを果たしたからと言って、特別扱いされて、褒められてもらわなければ気が済まなくなるような、教会の外の世界と同じようなことにはならない。もう特別扱いされているのです、私たちは。神様からお褒めに与っている。小さな信仰かもしれないけれども、それで大丈夫だ。今週も厳しい世間の荒波にあなた方を送り出すけれども、心配しなくても、大きな私が力強くあなたを支えるから、私が共についているから、安心して行きなさい、と。主イエス・キリストは今朝も励ましてくださる。

 本当にこの教会は素晴らしい教会だと思いますし、私は牧師としてそのことに心から感謝し、また皆様の姿を、神様に対して誇りに思っています。コロナウィルス禍にあっても、毎日必ず、誰かが教会に来てくださって、入れ代わり立ち代わり、求道の方々まで含めて、それぞれの奉仕をしてくだっています。ウィルスのことによって、なかなかここに集えない方々もおられますが、しかしその方々の祈りと、教会を大切にしてくださっている思いも、ちゃんとこの場所にしっかり届いています。誰に褒められるということでもなく、報いがあるのかないのかと問うならば、目に見えるかたちではそれはないかもしれない。しかしそれにも拘らず、なぜ皆が教会を愛して、神様から自分に命じられたことを果たすのか?それは、それぞれの中に、ちゃんと信仰があるからです。それぞれが、教会では人から褒められる必要がないほどに、逆に人を褒めることができ、人に祝福を与えることができるほど、私たちそれぞれは、しっかりと神様からの恵みを受けて歩んでいるのです。教会。私たちの教会、主イエス・キリストの教会、何という素晴らしい場所でしょうか!